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砂糖細工の船に乗って  作者: 酒田青
第二章 子供
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子供…船の底・3

 静かだった。ただただ白く、しんと静まっていた。

 五人は一言も口をきかなかった。絹子が一人、ニッコリと微笑んでいた。

 船の底に続くドアを開くと、壁がある。壁にはやがて四角い切り口が生まれ、新たなドアになる。そこを通りすぎると、手摺に囲まれた広く四角い場所があり、下へと続くらせん階段が向こうに見える。何もない筒のような空間が、薄暗く、底の方に至っては真っ黒に見えた。

 三毛は話に聞いたスチュワートの船の底とは少し様子が違うように思ったが、それはスチュワートの船の底にあった、イメージの奔流が無いためのようだった。姉妹の船の底は、どこを見ても何もなかった。

 姉妹のフェルトの草履がペタペタと鳴り、松子夫人の革靴がコツコツと響いた。

「下は随分遠いですわね」

 繭子のかさついた声が響いた。

「そうね」

 松子夫人は少年を支えながら歩いた。彼はドアを開けた途端、よろめいた。

「その子は大丈夫かしら」

「そうね。でも、離れようとしないのよ」

 少年は松子夫人にしっかりとしがみついていた。

「帰りなさい」

 松子夫人が戻ろうとすると、彼はブンブンと首を振った。

「どうしたのよ――」

「お先に行かせていただきますわ」

 絹子が少年の周りのごたごたに気付かないかのように、松子夫人の前を歩き出した。すると少年がぐいぐいと松子夫人の手を引いた。松子夫人と繭子は顔を見会わせ、慌ててその後に続いた。

 らせんの階段に差し掛かると、三毛も頭がクラクラしてきた。太い柱の周りを、下を行く絹子がクルクルと降りる。銀色のかんざしを差した黒い髪が、円を描いている。めまいがする。

 クルクル、クルクル。

 少年は手摺に寄りかかるように歩きながら、上にいる三毛を振り返った。

 ――分かるだろう?これが何なのか。

 その目はそう言っていた。三毛は何と無く、意味が分かった。

 クルクル、クルクル。

 最後の段から絹子が降りると、めまいは治まった。

「また、ドア?」

 繭子が呟いた。階段を降りた場所は狭く、すぐにドアにぶつかった。

「開けてごらんなさい」

 松子夫人がこわばった声で言う。ごくんと喉を鳴らして、繭子はドアノブを回した。

 ドアを開けると、そこは見覚えのある部屋だった。

「え」

「あなたたちの部屋よ」

 全員がドアを抜け、閉じると、その扉が繭子の部屋の物だと分かった。こちら側から見ると、繭子のドアの華美な彫り模様がある。

「でも、何も無いわ。私達の部屋じゃありません」

 繭子が混乱しているのももっともだった。

「真っ白」

 絹子が呟いた。華やかな色と香りでむせ返りそうだった部屋が、彫刻のように白かった。赤と青の円い居間から色と香りが消えていた。

 三毛は慌てて繭子の手から逃れた。床に落ちた一輪の真っ白な薔薇に駆け寄り、刺の生えた茎に触れた。植物特有の湿りを感じた。花びらも、柔らかく三毛の鼻を弾いた。白い硝子の砂糖漬けの壺を見て、分かった。これは三毛が愛した姉妹の居間だ。

「何も起こらないわ」

 繭子が落ちつかなげに、辺りを見回した。

「あなたたちの船の底の記憶はとても引っ込み思案なの。でも、分かるわ」

 松子夫人が指先で花びらの砂糖漬けの壺の小さな蓋を摘んだ。それを持ち上げると――。

「嫌っ」

 繭子が叫んだ。壺の中から、勢いよく毒々しい色の水が溢れ出す。少年が耳をふさいだ。早送りされた音がキイキイと部屋を満たしていく。

「何なの、これは」

 繭子はあわてて部屋の端に逃げた。色水は白い壺から白いテーブルへと流れ、ついに床へとザアザア落ちた。マーブル模様が白い絨毯に広がっていく。小さな壺から溢れ出て来る水は驚くべき速さで触れた場所を染める。

 キイキイという音が部屋の中で踊り狂っている。人の声のようでもあるし、動物の叫び声のようでもある。

 水は松子夫人たちの足元を濡らし始めた。三毛などは足が全てつかってしまっていた。部屋から逃げようとする繭子を、松子夫人は止めた。少年は気味悪そうに壺からバシャバシャと離れた。

「離して。溺れてしまうわ」

 色水が膝の高さに来ると繭子が松子夫人から手を振りほどいてわめいた。

「大丈夫よ。溺れないわ」

 松子夫人が再び繭子を捕えた。三毛は少年の手の中にいた。もう色水は彼の腰の高さに達している。

「それに何ですか、この音は」

「閉じ込められた音が一気に広がろうとしているのよ」

「あ」

 色水はとうとう繭子たちの胸に届き、少年はどっぷりと頭まで潜った。手が水面に力なく浮かび、ついにそれさえ沈んでしまうと、冷静な絹子は瞬きをして、しかし初めから変わらない体勢でそれを見つめていた。

 水はとうとう彼女たちの顎の下に届いた

「死んでしまうわ」

 それが繭子の最後の言葉だった。彼女は松子夫人や絹子と共に、汚らしい水の中に閉じ込められてしまった。部屋の中の音は次第にゆっくりとほどかれ、人間らしい声や音を形作り始めた。部屋がチャプチャプと鳴り、やがて部屋の天井までつかった。――

 

『繭子さん。今日は日差しが強くってよ。出掛けるなら日傘を持ってらっしゃいよ』

『あら、良いの。これは絹子さんが大事にしている日傘でしょう』

『いいの。それに私、この傘は初めから二人の共用にしようと思って買ったのよ』

『まあ、ありがとう、絹子さん』

『私達、何でも共用にしているでしょう。良いのよ。私はあなたが日焼けをしないなら満足なのよ』

『私の肌よ。心配しなくてもあなたの肌じゃないわ』

 弾むような笑い声が聞こえる。

『私はあなたの綺麗な肌が大好きなのよ。大切にしてちょうだい』

 またコロコロと笑う。

『分かったわよ。じゃあ、出かけてくるわね』

「あなたたち、とても仲良しだったのね」

 色付いた壁の前で松子夫人が少し笑った。繭子が混乱したようにそれを見、少年は三毛を抱いてしゃがみこみ、絹子はまだ同じ姿勢で壁を眺めていた。

 今、真っ白だった部屋には華やかな彩りがあった。円い部屋全体に絹子と繭子の巨大な笑顔が写し出され、白い部分はなかった。

 グルリと部屋を囲む壁には、右側に繭子、左側に絹子がいて、床は二人の派手な衣装の色に染めあげられていた。棚はグラデーションの薔薇色は繭子の頬の一部となり、あふれ返るような花瓶の花は絹子の艶のある黒髪の全体を占めていた。まるで二人の間に浮かぶ透明なシャーレの中にいるかのようだ。

「水、は」

「あれは水じゃないわ。色よ。閉じ込められていた色が、部屋を染めたの」

 松子夫人の説明に、繭子は混乱した目を向けた。三毛はほっとしながら砂糖漬けの壺を見た。もう中に色はない。白い壺は不自然に一つだけ色に染まらなかった。

 

『絹子さん、私ピアニストになりたいわ』

 壁の情景は一転し、舶来趣味の絨毯が敷かれた部屋の中に幼い二人の姿が映し出された。大きな瞳の柔らかく微笑む少女が繭子で、鋭い目が冷悧そうで、動きがもはや大人びている少女が絹子だ。絹子はフッと笑った。

『私もなりたいわ』

『絹子さん、本当。なら二人でなりましょう』

 繭子が嬉しそうに顔をほころばせた。

『ニュシンゲン先生もなりなさいって言っていたもの。姉妹ピアニストになりましょう』

 絹子が笑った。

『私は言われていないわ』

『嘘よ。絹子さんもピアニストになるのよ。私一人じゃ嫌だわ』

 繭子が絹子にすがると、絹子は表情を消した。

『なりましょうね。約束よ』

『……ええ』

 松子夫人の隣にいた繭子が、そっと絹子を振り返った。絹子の冷たい目にぶつかると、慌てて目をそらした。

 

『……妖精は妖精の女王の元に向かいました。虹色の薔薇は、女王の体から生まれるからです。……妖精は薔薇をプツリと女王の冷たくなった体から摘みました。それを自らの体に刺し……』

『絹子さん。そのお話嫌だわ』

『どうしてよ』

 憤慨したように幼い絹子が声を荒げた。繭子は口を尖らせた。

『死体から摘んだ薔薇を体に刺すのでしょう。怖いわ』

『素敵な話だわ。続きを聞きなさいよ』

『ええ』

『……妖精は新たな妖精女王になりました。女王は真っ白な庭園に体から生えた根を張り、庭じゅうに薔薇を咲かせました。そこは女王だけの場所です。女王しか住めない庭です。女王は永遠に虹色の薔薇を育てるのです。彼女が死ぬことはありません。何故なら彼女は特別だからです』

『やっぱり嫌。薔薇の中に閉じ籠って動けないなら、私は耐えられないわ』

『黙って。……完全な夢の世界は、千輪の薔薇にしか宿りません。女王は千輪の薔薇を身体中に生やし、薔薇の園そのものになりました。それから女王は薔薇の園の中で、永遠に夢を見続けました。……ほら、素敵でしょ』

 二人の居室らしい花模様の壁紙の部屋で、薔薇色のベッドの上の絹子が微笑んだ。樫の机の上にうつぶせて、繭子は口をつぐんで、

『そうね』

 と呟いた。


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