子供…船の底・2
「松子さん、何をなさるの」
「あなた方を船の底に連れていくの」
繭子が愕然として松子夫人を見た。絹子がビクンと肩を震わせ、よりいっそう感情を内に隠した表情になった。
「船の底へ?」
「ええ。――あなた達、ずっと嘘の中に生きてきたのよ」
「え」
繭子が松子夫人の顔を見直すと、後ろでカタンと音が鳴った。見ると無表情な絹子が、ピアノに向かっているところだった。
「絹子さん――」
「松子さん、待って」
繭子が松子夫人を止めた。絹子の手は戸惑ったように鍵盤の上を動き、やがて場所を定めた。初めの音が鳴る。
優しい音楽が流れ始めた。夜の月を静かに称える曲だ。
「これは、『月の光』?」
「ええ。私の大好きな曲」
絹子の奏でる音楽が二人の体を撫でる。あの奇妙な曲ではない、『月の光』が部屋に満ちている。三毛は目をしばたかせた。絹子の奏でるもので、これほど心地よい音楽があったなんて。三毛は目を閉じてそれを聞いた。穏やかな気持ちになって行く。
ただ、時折音がプツプツと途切れた。これが姉妹が言い争っていた絹子のピアノの欠点なのだろう。小さな手は離れた音を同時に鳴らすことが出来ず、音は長く続かない。ピアニストには致命傷だろう。
「私が何度頼んでも、弾いてくれなかったのに。一度もだわ。あの時以来、一度も」
繭子は目を輝かせていた。嬉しくて堪らない。そんな目だった。松子夫人はぼんやりと姉妹を眺めていた。頭の中で、何か大きな混乱が渦巻いている。三毛は何故突然絹子が『月の光』を弾き始めたのか考えた。ピアノを弾く時の絹子の顔が寂しげだったからだ。
曲は静かに終った。最後の一音一音をしっかりと受けとめながら、繭子は微笑んだ。
「絹子さん、ありがとう」
「行きましょうか」
駆け寄った繭子を無視して、立ち上がった絹子は松子夫人をキッと見据えた。それは絹子が松子に発した初めての言葉だった。
「船の底に行くのでしょう?」
「……そうね」
戸惑いながら、松子夫人は絹子を見た。もしかして、もう彼女は知っているのだろうか。相変わらず冷たく澄ました顔をしたまま着物のたもとを直しているが、そこからは何も読み取れなかった。
「絹子さん」
繭子が何か恐ろしげに絹子に並んで歩き出したが、絹子は決して繭子を見ようとしなかった。惨めに首をうなだれ、繭子は三毛を抱き寄せて頬を寄せた。
カチャカチャと松子夫人がドアノブを回し、三毛達は廊下に出た。いつの間に、夜になっている。白い廊下は生き物の気配がしないほどに白く静かだった。
繭子が音楽室を振り返った。音楽室の中で並んでいるピアノとチェンバロが見えた。目に脅えの色を見せて、繭子はドアをサッと閉じた。
「ああ、満月だわ」
無人のロビーに出ると、松子夫人は思わず呟いた。
大きな硝子戸の向こうに、白い月が丸く浮かんでいる。ロビーも、月の光を受けて灯り取りの窓によって浮かぶ水玉模様が幻想的だった。三毛は、いつもだったらここを走り回るのに、とロビーを見渡した。寂しげなテーブルセットの群れが、生きているかのようだった。松子夫人と繭子が手紙をやり取りした小さな本棚も、隅にひっそりとあった。
三毛はここに人が溢れている時のことを頭に思い浮かべた。三毛が船の舳にぼんやりと立っていて、船の床や壁に白い根で吸い込まれそうになっている情景を。三毛はぶるっと体を震わせた。
「マツコ」
不意に上から声がしたので見ると、二階の手摺から少年が身を乗り出していた。不安げに顔を歪めている。
松子夫人が驚いて階段をかけあがると、彼は松子夫人にぶつかるようにして抱きついてきた。松子夫人の腹部に顔をうずめ、ちらりと三毛たちの方を見る。その目はすぐに閉じられたが、何か意味がありそうな目つきだった。
「久しぶりね」
繭子が疲れたように微笑んだ。少年が左目だけ松子夫人の体から覗かせて、フイッとそらした。繭子は目を伏せ、何も言わない絹子と共に階段を登った。
少年は松子夫人に付き従って歩き出した。松子夫人は困ったように彼を見たが、その途端絹子は、
「その子が来ても構いませんわよ」
と、投遣りでもなく感情のない声で言った。三毛は絹子を見た。今の絹子はどこか変だ。
少年は松子夫人の右手にしがみつくようにして歩いた。まるで二度と離れたくないかのように。
少年との対話の後、松子夫人は不意に消えていた。三毛だけはその行き先を知っていたが、少年には分からなかった。
「どこに行くの?」
少年が慌てて松子夫人の後ろ姿に問いかけた。スチュワートが松子夫人の言葉を待っ
た。しかし松子夫人はチラと振り向いて微笑した後、ドアの向こうに消えてしまったのだった。少年はそれ以降、落ちつかなげに体をゆすり、ずっと寝室の出口を見つめていた。スチュワートにも三毛にも、扱いようが無かった。
少年は松子夫人の顔を見上げ、何も言うことは出来ないが、何かを訴えかけていた。
階段を、色々な足が色々な音で上っていく。老いた足、小さな褐色の足、桃色と藍色の布に覆われた足。仔猫の足は無い。繭子の淡い友禅の中に小さく包まれている。
五人が静かに四階の床を踏んだとき、音が聞こえた。何かがバタバタと落ちる音だ。松子夫人が口を斜めにした。
「脳腫瘍が図書室で暴れてるの。気にすること無いわ」
構わず薄暗い廊下を進む。確かに歩けば歩くほど、音は激しくなった。三毛の耳に声が届く。
「偽善者! あんたに何が出来るんだ。あんたはしくしく泣くだけじゃないか」
「あたしの前を通りすぎていくんじゃない」
「弱い者は部屋で小さく縮こまってればいいんだ」
脳腫瘍の女が図書室の両開きのドアの向こうでわめいている。
「私が他人の船の底に行くのが気にくわないらしくて」
松子夫人が絹子を振り返った。
「でも船の底の持ち主もそうですわね」
「……」
絹子は冷たい目で松子夫人を見た。松子夫人は瞬きをして、ドアをゆっくりと開けた。音が大きくなる。少年はぴったりと松子夫人に体をつけた。繭子が怯え、絹子は平然としていた。
「出ていけ、船の外に。そんなに船が嫌なら、出ていけ、マツコ」
図書室は滅茶苦茶だった。殆んどの棚から本が落ちて、海のようになっていた。その中を泳ぐようにして、女は本を乱暴に手に取ってはページを破いていた。床に落とす度に、本は見事に再生する。黒い帽子の下から、女がギロリと松子夫人を睨んだ。
「マツコ、あんた何しに来たの」
「この方たちを船の底に案内するのよ」
松子夫人が静かに答えた。女は床に落ちた本をかき混ぜるようにして歩いてきた。
「あんたは、あんたは」
「何よ」
「船を変えようとしている。革命だ」
「そんなこと無いわ。私は知るべき人に真実を伝えようとしているだけ」
「何が真実だ。そんなもの――」
「真実を見ないあんたは永遠に過去に苦しんでいればいいわ。私はあんたなんか構わない。あんたが私を邪魔しても、私は彼女達に真実を伝えるわ」
脳腫瘍の女が黙りこんだ。次の瞬間、わっと泣き出した。
「皆あたしを見捨てるんだ。マツコもあたしを見捨てる。あたしはみんなに虐げられる」
わあわあと女がわめくのを、繭子が脅えるように見ていた。「真実」が怖くなった。
三毛を見た。三毛は繭子を見つめ返した。絹子はどこか遠くを見ていた。松子夫人は顔をこわばらせて、女の横を通りすぎながら言った。
「私だって自分の真実を知るのは怖いわ。でも、今の自分を辞めたければ仕方がないじゃない」
女は聞こえるのか聞こえないのか、ただ本の山に埋まって、わあわあと泣いていた。松子夫人は本を避けながら図書室の奥に向かった。あちこちに手をつきながら、絹子は真っ先についていく。あわてて少年が続く。繭子はまごまごと最後を歩いた。絹子が初めて笑った。少し意地悪い笑顔だった。
「あなた、今日初めて自分の船の底を見たの?」
三毛が驚いて見ると、松子夫人は顔をしかめていた。三毛は松子夫人の船の底を見たことがない。
「いいえ。前に何度か見ましたわ。でも今日見に行ったら、以前とは全く違って見えました」
「あら、そう」
図書室の、本棚に円く囲まれたあの場所に松子夫人が足を踏み入れた。この場所は殊に酷く荒らされていて、本棚に残った本はなかった。アラビア語の細長い横文字のページが船の底に続くドアの前に寄りかかって、三毛たちを見ていた。松子夫人は笑った。
「絹子さんは船の底に行ったことはありますか」
「いいえ」
間発入れずに答えた絹子も冷えびえとした笑顔を向けた。
「私達は百年の間一度も――」
繭子が口を挟んだ。二人が振り返った。
「船の底に行ったことがありません」
繭子の顔は青ざめ、にいっと唇の端を上げた絹子の顔を避けて三毛ばかり見つめていた。三毛は辺りの人々の異様な淀みを見渡していた。松子夫人が繭子に手を差し出した。少年がやっと追い付いてもう片方の手を握った。
「さあ、鍵を」