子供…船の底・1
ピアノの鍵盤を指で叩く音が耳につく。コトコトコト。ピアノの音に交じって聞こえる。
夕方の薄暗い音楽室で、絹子が城内と合作したあの曲を弾いていた。奇妙な、捻れるような音楽。繭子はピアノに寄りかかり、複雑な顔をして絹子を眺めていた。腕のなかには三毛がいる。
ゆっくり、ゆっくりと同じ音の連なりが繰り返される。その度に繭子が三毛を抱く手が締まる。やがて、曲はやっと終わった。
「絹子さんたら、いつもこの曲を弾くわね」
繭子が何となしに呟いた。絹子は優雅に微笑んだ。
「思い出の曲だもの」
「何の思い出か、言ってくださらない……わよね。いつも内緒、ってごまかすんだもの」
「うふふ」
三毛は不愉快な気分で絹子を見つめた。三毛は秘密の正体を知っているからだ。
「私、それよりあれがいいわ。ドビュッシーの『月の光』弾いてちょうだい」
繭子が無邪気に頼む。
「あれね……」
絹子が渋った。三毛が驚いたことに、困ったような顔をしている。
「お願い。あれを昔絹子さんに弾いてもらってから、大好きなのよ。今日は多分満月の夜よ。ちょうどいいじゃない」
絹子の腕を抱いて揺する。三毛はさっきから驚いているのだが、あのような疑念を松子夫人にぶつけられたと言うのに繭子は絹子に何の警戒もしていない。むしろ前よりはしゃいでいるように見える。繭子はあのことをどう思っているのだろう。
「お願いよ」
「でも……」
「思い出の曲でしょ。女学校時代、弾いてくれたじゃない」
繭子の目が意地悪く細まる。それを見た絹子の目が険しくなった。
「繭子さんが弾けばいいじゃない。あなた私よりずっとピアノが上手い癖にどうしてそんなこと言うの」
繭子が絹子の腕から離れた。まだ笑っている。
「そんな……」
「あなた自身分かってるから、今までそんなこと頼んだりしなかったでしょう」
「……」
「私は手が小さくって、ピアノを巧く弾けないのよ。普通の曲は音がブツ切れになって、変になるの。知ってるでしょう」
絹子が怒鳴ると、繭子の顔が青ざめた。
「だから編曲したものしか弾かないの。あなた、ご存じよね」
「……」
「ピアノ教師にあなたは天才ですと言われたのはどっち? 弾く度に溜め息を吐かれたのはどっち? あなたそれを分かってて言ってるんでしょう。どういうつもりよ」
絹子の目が赤くなっていた。三毛は意外な絹子の弱点に驚いた。絹子の唯一のコンプレックスは、ピアノにあったのだ。
繭子は責められながらもしばらくは黙っていた。しかしやがて口を開いた。
「……じゃあ絹子さん。聞きたいことがあるのだけど、あなたは城内さんがどうなったかご存じ? 私、気になって仕方が無いの。ねえ、何か隠してらっしゃらない?」
絹子がフン、と鼻で笑った。
「あら、また人殺しの話なの。そうよ、あなたは人殺しなんだから私を馬鹿にする権利なんて――」
「城内さんはまだいるんでしょう。嘘吐き!」
繭子が怒鳴った。絹子は顔色を変えた。
「何を言ってるの」
「どこに隠しているのよ。何よ、二人で私を馬鹿にして」
「隠してなんかいないわ。あなた、それは妄想よ。馬鹿じゃないの」
絹子があざ笑った。すると繭子がカッとなって叫んだ。
「あなたのピアノは下手くそよ。才能なんか無いわ。天才は私だった。あなたはいつも私に劣ってた。人殺しの癖にってよく言うけど、あなただって才能もない癖に私にそんなこと――」
「お黙り!」
空気がキンと冷えた。三毛は脅えて繭子の手に体を深く埋めた。今の絹子は般若のように白く恐ろしい顔をしていた。
「私は才能があるわ」
「あら、そうは言うけど指が一オクターブ分も広がらないピアニストなんて聞いたこともなくってよ」
今度は繭子が笑う。
「うるさい、うるさい!」
「城内さんだって私のピアノを誉めてくれたわ」
「私のピアノだって――」
「嘘よ」
「本当よ。あのね、城内さんは私のために曲を作ってくださったのよ。それがさっきの曲よ」
と、絹子は口走ってからハッと黙りこんだ。繭子はブルブルと震え、目に涙を浮かべている。
「やっぱり」
絹子は繭子のうるんだ瞳から目をそらした。空気がよどんでいる。三毛は繭子の体の震えを感じていた。
「――いつからなの」
やっぱり、ともまさか、とも言わずに、繭子は尋ねた。
「十五歳の時、秋に城内さんが家にいらした時から」
絹子は努めて真顔を保っていたが、顔は白くなっていた。
「何ておっしゃったのかしら」
「『君を愛している』と」
「私と同じだわ」
繭子が泣き出した。
「酷いわよ。私を今まで騙して――」
「私だって城内さんが好きだったのよ!」
絹子が顔をそらしたまま、頬に涙を伝わらせた。
「なのにあなたは指輪まで貰って、いつも贈り物を貰って」
「応援してくれたじゃない」
「……」
黙りこんだ絹子を見ながら、繭子はグランドピアノにうつ伏せた。
「城内さんは船にいるの」
「いいえ」
「嘘よ。本当はいるんでしょう。分かっているのよ」
「……ええ」
絹子が顔をそらしたまま頷いた。その顔は白い。
「嘘吐き」
ぽつりと、繭子が呟いた。すぐにそれは叫びとなった。
「嘘吐き! 嘘吐き! 嘘吐き!」
繭子の目から、大粒の涙がポロポロ落ちて、黒光りするピアノの蓋の上に落ちた。絹子はそれを白い顔で眺めていたが、やがてその目にも涙が盛り上がり、つつ、と頬を撫でて落ちた。
「城内さんを呼んでよ」
泣きながら繭子は怒鳴った。
「たくさん言いたいことがあるのよ」
「分かったわ」
絹子は赤い目をしたままピアノから立ち上がった。だが、そのまま動かない。
「早くして」
繭子は焦れた。
「ええ」
絹子はのんびりとピアノの周りを歩いた。目は虚ろだ。
「何をしてるの。城内さんはどこにいるのよ」
「城内さん……城内さんはね」
三毛は絹子の笑う顔を見た。目の縁が赤くなっているのが奇妙だった。絹子はグランドピアノの蓋をそっと持ち上げた。フフフ、と笑い声が漏れる。
「三毛は知っているわよねえ。城内さんはピアノの中にいるのよ」
蓋がギイ、と持ち上げられた。三毛の毛が逆立った。
「またお会いしましたわね」
絹子の陽気な声が響く。三毛は城内を見た。その恐ろしさに、三毛は逃げ出しそうになった。
その時、バタン、とドアが開く音が聞こえた。そのとたん、ピアノの蓋もゴトンと落ち、辺りに立ち込めていた気味の悪い雰囲気は消えた。見ると、城内も消えていた。
「松子さん」
繭子が焦燥した声を上げた。松子夫人がそこにいた。
「城内さんが……ピアノの中に」
「分かってるわ」
松子夫人は震える繭子を抱き締めた。三毛は心からホッとした。
「全部分かったの。もう安心していいのよ」
松子夫人は銀の鍵を繭子に渡した。繭子は目を大きく開けた。
「絹子さん」
松子夫人は冷たい顔をして絹子を見た。絹子はもはやさっきのように笑いもせず、泣きもしなかった。ただいつものように人形の顔をしているだけだった。
「絹子さんもいらしてください。あなた方二人、もう知るべきだわ」
松子夫人は厳しい声で言った。繭子が尋ねた。