子供…廊下・3
松子夫人の呟きにスチュワートが答えた。何か考え込んでいる。少年は二人がめいめいの言葉で話すので理解はできないが、二人が思っていることを読み取って頷いた。
「この船には化け物がいる。俺をここに連れてきたのはそいつで、船を作ったのもそいつだ。俺はいつか化け物の餌になるんだ」
三毛はそこに蹲っていた。すると、少年が言う「化け物」が床からスッと現れたような気がしてゾッとした。
「私は……それに悲しみを吸い取って貰えることにホッとしていたわ」
少年は信じられないと言う目で松子夫人を見た。しかし松子夫人は顔を酷くしかめていた。
「だけど、そうだわ。私は空っぽになった後は、また同じ悲しみを持つの。悲しみは消えることなく繰り返すの。とても怖かったわ。繰り返すことが」
一旦、黙った。
「そうなの。船には化け物がいるのね。やっと分かったわ」
溜め息をついた松子夫人を真っ直ぐに見ながら、少年は言った。
「ここで泣くと、捕われるんだ。俺は俺の体がみるみる内にこの白い壁に取り込まれるのが分かる。マツコ、あんたは根が生えてたよ」
ギョッとスチュワートが呆然と佇む松子夫人を見た。三毛はキョロキョロと辺りを見回した。何も見えない。
「トマス、あんたは小鳥に繋がれてる。壁からも細い根が生えてる」
少年がスチュワートを指差した。スチュワートは目を見開いた。
「三毛には生えてない。でも船の大勢の人間は、あんた達より遥かに太い根を這わせてる」
少年の顔が次第に青ざめた。
「初めて来たとき、それを見た。床から、壁から、天井から、人が生えてるんだ。皆、笑わないんだ。中には半分白くなったやつもいる。怖かった。だから早く船から降りようとしたのに、陸は遠くて――」
少年は今は見えない海を壁越しに見ていた。
「俺に向かって小さな根が伸びようとしてるよ。マツコ、見えない?」
三毛は外の空気を吸い込んだ。目がうるんだ。どこにいても怖かった。
この船は、一体何なんだろう。まるで生きているかのようだ。崩れても、汚れても、白い壁は蘇る。
「俺には悲しいことなんて無い。パパだってとっくの昔戦争で死んだんだ。ママは毎日俺の側にいてくれたし、この間妹が生まれたし。もうすぐ死ぬことは悲しくないし、苦しいことは辛くない。幸せだったよ」
少年は続けた。綺麗な目が天井を向いて輝いている。
「だけど、どうしてここにいるんだろう。悲しい人達の船に、どうして乗らなきゃいけなかったんだろう。悲しくなんか、無かったのに」
「私はあなたがいてくれて嬉しかったわ」
松子夫人が涙ぐんで言った。
「あなたが来てくれなきゃ、私はいつまでも悲しいままだったわ。それが変わったのはあなたのお陰よ」
「そう」
「あなたと三毛が、私を助けてくれたの。もう私は昔の私を辞めたのよ」
少年はピンと来ないような顔で松子夫人を見ていたが、やがてにっこりと笑った。
「俺はマツコの天使?」
松子夫人は驚いたような目で見て、すぐに笑って答えた。
「そうかもしれない」
「神様は俺を見てくれてるよね」
「あなたクリスチャン?」
「ママが言うんだ。俺には神様がついてるから大丈夫だって」
松子夫人は黙りこんだ。悲惨な暮らしをしている貧しい人々を支えている、たった一つのものを思った。
「大丈夫」
横からスチュワートが顔を出して代わりに答えた。笑っていた。少年はホッとしたように再び天井に瞳を戻し、呟いた。
「マツコに生えた根っこは、最近壁から離れたんだよ。トマスの根っこも細くなった。だから一緒にいたら安心するんだ」
松子夫人は少年の笑顔を見て、狂ったように他者を攻撃していた頃の少年の苦しみが分かったような気がした。少年は恐ろしい化け物と、一人で戦っていたのだ。
「ねえ、お母さんの所に帰りたい?」
松子夫人が尋ねた。
「パパは何も言わずに、体も残さずに、ママの前から消えた。ママは泣いてた」
少年は無表情に答えた。
「俺はママの前で、ママに向かって、さようなら、ママって言ってから死にたいな。こんなところで無駄な時間を過ごすのは嫌だ」
「そうね」
即座にそう言った松子夫人を見て、三毛は覚悟を決めた。
遠くに姉妹が見える。微笑んだ絹子が繭子の肩を優しく抱いて、三毛を指差した。嬉しそうに、繭子は三毛に向かって走り出した。
今日は淡い桃色の着物を着ていた。近頃の繭子は乱れた格好をしない。それは今まで感じていた殺人の罪悪感が、自暴自棄から救ってくれたお陰かもしれない。
「三毛、会いたかったわ」
早速繭子は三毛のリボンを探った。今日は何も入っていなかった。
「残念だわ」
声のトーンが下がった。しかしまた直ぐに笑顔に戻った。
「今日は私たちと一緒にいましょう。絹子さんがね、ピアノを弾いてくれるのよ」
松子夫人を信じているのだろうか。繭子はあれからずっと陽気だ。三毛はにゃあん、と愛想を振りまいた。
「あの姉妹はどうなの」
松子夫人は静かに聞いた。
「姉妹?」
少年が聞き返した。
「日本人の姉妹よ。彼女達には根は生えてるの?」
「それは――」
絹子が紺の華やかな着物を翻し、こちらへと歩いてきた。にっこりと微笑みながら。