子供…廊下・2
しかし、その日の松子夫人は聞いたのだ。たった一言の新しい言葉を。
「ママン」
「え?」
かすれるような言葉だった。だが、三毛と松子夫人には確かに聞こえた。
「今、何て言ったの……」
松子夫人が少年にすがりついた。少年は松子夫人を見ていなかった。
「ママン……」
甘えるような声だった。松子夫人は瞬時に分かった。
「あんた、今フランス語を話したんでしょう」
松子夫人は叫んだ。三毛の側に熱い涙が落ちた。
「フランス語なら、おじいさんが分かったのに。どうして話さなかったの」
少年は不思議そうに松子夫人を見た。そして何か松子夫人に分からないことを早口で喋った。
三毛には分かった。
「マツコと喋りたい」
松子夫人は深夜の廊下を駆け抜けた。四階を目指して走った。そしてあの部屋にたどり着いた。
「おじいさん!」
激しくドアを叩く。
「おじいさん、あの子が喋ったんです。通訳をお願いします」
松子夫人は焦っていた。抱かれた三毛は、嫌な汗をかきながらそれを見ていた。
やがてドアが開いた。
「おじいさん」
老人は、以前より更に顔色が悪くなっていた。皺は深くなり、白い髭はもつれていた。目が深く曇っていた。松子夫人は一瞬黙った。
「何だね、マツコ」
以前の老人とは全く思えない枯れた声で彼は喋った。その一音一音に力が無かった。松子夫人は躊躇いながら話し始めた。
「あの子、フランス語を話せるらしいんです」
「あの子?」
「黒人の子供です」
「そんな子供はいたかね」
老人はぼんやりとそう言った。松子夫人は唖然として老人を見た。
「忘れたんですか」
「残念ながら」
松子夫人は驚きで顔が白くなった。しかし、すぐに立ち直って老人の手を握った。
「来てください。通訳をしてほしいんです」
強く手を引くと、老人は迷惑そうな顔をした。
「何だっていうんだ」
「お願いします」
松子夫人は腕に抱きついた。
「離せ」
老人は強くその手を払った。松子夫人は転び、白い床に倒れ落ちた。その目は見開かれている。
「子供の通訳なんてごめんだよ。私は眠いんだ」
老人は冷たい目で松子夫人を見下ろした。その目には何の感情も篭っていなかった。
「おやすみ」
ドアは閉じた。その後、長い静寂が訪れた。染み入るような静けさだった。しばらくして、松子夫人は鳴咽を上げて泣き出した。
「こんな……」
言葉が続かなかった。思わず三毛を抱き締めた。三毛は凍りついていた。
「どうして」
松子夫人は叫んだ。それはありとあらゆるものに対する叫びだった。
部屋へと戻りながら、松子夫人はぶつぶつと喋っていた。
「どうして? どうして? どうして?」
松子夫人の中でぐらついていた老人の存在はとうとうこなごなに崩れてしまった。それはこの船の要となる部分に位置していた。松子夫人の疑念は、船全体に及んだ。
「私はどうして船にいるの。どうして娘をうち捨てさせてまで呼ばれたの。あの子は生きてるの。死んでるの。生きてるとしたら、何故私はここにいるの」
疑念はつきなかった。三毛はすっきりとするよりむしろ恐れながらそれを聞いていた。しかしその呟きは、部屋に着くなり消えた。
「ごめんね」
松子夫人は泣いた。走って、ドアを開けて寝室に入った。少年は不思議そうに松子夫人を見ていた。
「あんたが分かる言葉で喋らなかったのは、あの人が怖いからなのね。私が信用ならなかったからなのね。私達皆があなたを玩具にするからなのね」
少年は次々に飛び出す意味の分からない質問を静かに受け止めていた。何か悟ったように、冷利そうな目で松子夫人を見た。
三毛は初めから知っていたが、松子夫人に伝えることが出来ず、また必要も無かった。いつかある日こんな時は来る。そう思っていた。松子夫人から全ての余計なものが取れたときに、必ず来るのだと。
何がきっかけだったのかは分からない。長い日を重ねた信頼関係が、ぽろりとそれを打ち明けさせたのかもしれない。それとも、中国人の玩具だったのかもしれない。松子夫人の娘時代の話がそうだったのかもしれない。
ただ、今日この日のこの出来事は、何でもない時に起きた。きっかけなんかなかったのかもしれない。
ただ、単純にこれだけは言える。少年はやっと松子夫人を信頼し、話を交そうと思い立ったのだと。
松子夫人は泣いていた。その後ろでドアのノックの音が聞こえた。
「高原さん、どうしましたか」
「マツコ。最近ずっとマツコと話したかったんだ」
スチュワートが少年のフランス語を訳して、会話は始まった。松子夫人は心臓が破けんばかりに鼓動していた。
「フランス語は俺の国の言葉だよ。他に昔からある言葉も話す。病院の先生とはフランス語で話す」
「じゃあ、病院にいたのね、あんたは」
松子夫人は思わず日本語で勢い込み、あわててスチュワートに向けて英語で言い直した。
「うん。テントみたいな病院」
「まあ……」
松子夫人は涙ぐんだ。三毛も胸をえぐられるようだった。何でも知っているつもりでいた少年のことを、三毛はちっとも知らなかった。
「病気は何なの?」
「知らないけど、皆がかかってる病気。ママは教えてくれないけど、俺は知ってる。俺はすぐに死ぬんだよ」
平気な顔で話した少年を見て、松子夫人はまた泣き出した。
「死なないわ、ここにいれば。あんたは死ななくて済むわよ」
松子夫人は思わず口走った。しかし少年は冷静だった。
「こんなところで毎日死ぬ瞬間を繰り返すの? 俺は嫌だよ」
それを聞いて、一同はしんと静まりかえった。少年は言葉を続けた。
「俺はただ、もう一度ママに会いたいだけなんだ。ママにママって言いたいんだ。マツコはママみたいで好きだけど、ママじゃない」
慌ててスチュワートが翻訳すると、松子夫人はギュッと下唇を噛んだ。
朝が近い。松子夫人の意識が遠くに行っているのに三毛は気付いた。
松子夫人は繭子のことを考え始めていた。
三毛は外に出て潮風を体に受けていた。今までと違う湿った塩辛い風は、三毛の苛立った心を慰めることは無かった。
島が近い。カモメが無人の小島に群がって三毛を見ている。三毛はそれを睨んだ。
三毛の瞳は漆黒で、昼の日差しで細くなっていた。体には薄茶色の模様が、白い画用紙にぶちまけた色水のように浮かんでいる。
白い船の甲板に、小さな猫形の模様が出来る。
「あなたはこの船が嫌なのね」
松子夫人が尋ねると、少年は真っ白な歯を覗かせて、つり上がった大きな瞳を彼女の目にぶつけた。
「当たり前だ」
「そうね。何度も、何度も死にかける人生なんて、嫌よね」
松子夫人が小さく鼻を鳴らした。
「死ぬのも平気だ。苦しいのも」
「え」
「マツコは分からないの。ここは変だ。この船は気味が悪いし、あのじいさんも変だ。俺はしばらくの間、マツコさえ怖かった」
松子夫人は呆然とした。少年は苛立ったように話しだした。
「どうしてこんな所に平気な顔でいられるの。俺は感じるよ。悲しくて泣いていると、何かが嬉しそうに体にまとわりついてくるんだ。そしてしばらくすると、俺は空っぽになって、また泣きたくなるまでぼうっとなるんだ」
松子夫人はその感覚を思い出した。何か見えないものがべったりとまとわりつく感じ。松子夫人の場合は彫刻をしている時が顕著だった。ごめんなさい、ごめんなさい、と言いながら石や木を削っていると、何かがすうっとその気持ちを持ち去っていくのだ。
「あれはみんな感じるものなの」
「そうかもしれない」