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砂糖細工の船に乗って  作者: 酒田青
第二章 子供
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子供…廊下・1

『私にはどうしてもできません。ご免なさい』

 あの本棚に鍵と短い手紙の入った封筒が挟まれて、しばらく経つ。手紙はいつの間にか消えた。ただ、鍵だけが残っている。たまに繭子が絹子の目を盗んでその場所を覗き、力を落としているのを三毛は見掛ける。

 松子夫人は繭子に深く関わろうとするのを止めてしまった。繭子は焦燥している。しかしどうしようもない壁が、二人の間に出来ていた。

 もうあの時から既に二周間が経つ。船も赤道を離れ、秋らしい涼しい場所を漂っている。

 その間に、繭子と松子夫人の関係のように変わらないものは変わらないが、変わったものはある。船の人間関係だ。

「だから、言ったでしょう。三毛はあなたの鳥なんか食べないって」

「いや、信用できない」

「三毛は賢い子猫よ。食べちゃいけないものを分かっているもの」

「猫は馬鹿ですよ。カナリヤと違って」

「知能面で鳥が猫にかなうわけないでしょ」

「精神の高潔さは小鳥の方が上です」

「あなたは頑固」

「あなたは浅はかだ」

 松子夫人はよく、三毛と少年に加えてスチュワートと共にテーブルを囲むようになった。メアリーも一緒だ。

 いつの間にかそういう形になった。三毛はスチュワートとの出会いを思い出すと、この状況が不思議でたまらない。あの時はスチュワートがどうしようもなく受け入れがたい人間に見えた。しかし彼は、他の人間より遥かに三毛が理解できる人間だった。もう三毛がスチュワートを毛嫌いをすることは無い。もはやスチュワートは三毛の友人の一人だ。

 その時、靴音がして、二人は顔を上げた。テーブルの上に不思議な木の玩具が置かれた。棒に螺旋状の板が並び、すっと伸びた手が一番上の板を弾くと、カラコロと木琴のように鳴りながら板は倒れた。少年が嬉しそうに飛び付き、その手の真似をした。すると手は引っ込み、再び靴音が鳴り、遠ざかった。

「あの人、良い人ですね」

「話したことは無いわ」

「中国人でしょうか」

「かもしれないわね。優雅な衣装だわ」

 上衣を長く緩やかに着た長身のアジア人が、後ろ姿を見せて去っていった。彼はよく少年の為の玩具を持ってきて、静かに立ち去る。初めは少年も松子夫人も戸惑ったけれど、じきに慣れた。彼もまた、松子夫人が新しく接するようになった人物の一人だ。

 他にも何人かが、松子夫人や少年に関わっている。船は以前とは違って賑やかになった。少年のいるところ以外は相変わらずだが、全体的な雰囲気は柔らかくなった。

 少年がロビーに出てくると、初めのうち、住人たちは初めの脅えを示した。少年は危険で、凶器のように鋭い目つきをしている、自分の世界を打ち崩すもののように思われたのだ。

 しかし、近頃になって、少年は「マツコ」と優しく微笑み甘える可愛らしいただの子供になった。いつも松子夫人を母のように慕い、手足にまとわりつくこのやせっぽちの少年は、彼等の世界に加えて補完するに余りある部品のように見えたのだ。

 こうして、少年は船における第二の三毛となった。三毛に替わったと言ってもいいかもしれない。三毛はほとんどうち捨てられたのだから。誰もが少年にすがり、可愛がった。

 松子夫人はこの状況をあまり喜んでいない。少年を見る大抵の住人たちの目つきを、松子夫人は知っているからだ。

 少年は相変わらず三日に一度体調をひどく崩し、松子夫人の部屋の中で暴れる。こんな彼を辛抱強く看病する者が、この中にいるのだろうか?

 まともに少年を見据えているのは、松子夫人を除けば三毛だけだ。スチュワートすら、松子夫人の手助けをしようとはしない。こんな彼を、松子夫人は全身全霊をかけて信用することは出来ない。他の住人ならもっとだ。

 とは言っても、松子夫人は自分が彼等と全く違うとは言えない。松子夫人は自分を偽善者として捉えていた。遠くに繭子を見据えながら、何度も自分を責めた。それでも何も出来なかった。それは真実だからだ。

 船の雰囲気とは裏腹に、松子夫人は静かに鬱屈した感情を抱えていた。それは三毛にだけ、こっそりと打ち明けていた。三毛は丸い目を細めて、静かに聞いた。

 だけど、三毛はそうは思わなかった。三毛が嫌うのは、松子夫人とスチュワート以外の人間の、自分を玩具のように可愛がる態度だけだった。三毛は嘘を見抜く目を持っている。それくらいは分かった。

「私の母は、派手な人だった」

 松子夫人とスチュワートの会話は相変わらず三毛の頭上で続いている。三毛は少年が可愛がられるようになって以来すっかり忘れ去られていたが、松子夫人の友人であることは確かだった。スチュワートに毛嫌いされていたが、今となってはそれは表面だけの態度だった。

「嫁ぎ先は裕福だった。でも、戦争で家が焼き払われてしまったの。私は十五だった。父は南の海で亡くなったわ。若くは無かったし、体も弱かったから、熱病で病死したの」

「お気の毒に」

 スチュワートが相づちを打った。

「戦後は英語が出来ることを生かして、アメリカ軍人のためのバーを作ったの。私はそこでアメリカ英語を学んだわ」

「日本がアメリカと戦争したというのですか」

「ええ」

「信じられない。無謀だ」

 スチュワートが大袈裟に驚いた。松子夫人は自嘲気味に笑った。

「母のバーは売春婦の溜り場になっていったわ。それにガラの悪いアメリカ人ばかり集まってくるし。それで食べていたんだからあまり文句は言えないけど、辛かったわ。何度売春婦と間違われたか分からない。危ない目にあったことも」

 スチュワートは黙りこんだ。

「でも、いい人もいたわ。私に英語を教えてくれたの。あなたみたいにおとなしくて地味な人だった。母のことを好いていたわ。母は彼のことを金づるだとしか思ってなかったみたいだけど」

 三毛は松子夫人の体から、怒りの感情が生まれるのを感じた。人生のふとした瞬間を振り返るとき、ふいに熱い感情に捕えられることがある。松子夫人にとって、今がその時だった。

「米軍が引き上げる頃には、私は育ちの良い裕福な男と結婚したわ。嫌な家ともおさらばした。母は最後にアメリカ人の恋人に置いて行かれてアル中になって死んだ。めでたしめでたし」

 三毛はテーブルの外に出て松子夫人を見た。にっこりと笑っていた。この話にあの続きがあるのは明らかだ。スチュワートも分かっている。彼はだんまりと沈んでいた。

 三毛は分かっている。松子夫人は英語を教えてくれたそのアメリカ人が好きだったのだ。

「かわいそうだった。あの人」

 松子夫人は呟いた。

「母と同じように蝶々夫人になっても良かったかもしれないわ。素敵な人だった」

 そうすれば松子夫人は不幸な結婚生活を送らずに済んだかもしれない。でも、松子夫人は潔癖過ぎたのだ。

「母と同じように、情熱のままに生きて汚い終りかたをするのが嫌だったのよ」

 スチュワートは黙ったままだった。少年は中国人に貰った玩具でおとなしく遊んでいた。

 もうすぐ昼だというのに太陽が低い。ここは地球のどこなのだろうか。果たして本当に地球なのか。

 

 夜になって、少年はまた血を吐いた。慣れたもので、松子夫人はすぐに少年をベッドに移した。

 老人はこの二週間、一度も顔を見せなかった。三毛にはありがたかったが、松子夫人には不安の種だった。松子夫人はまだ老人を信頼していた。

 三毛はこの船の存在自体を疑い始めていた。何のためにあるのか。三毛達は何故ここに呼ばれたのか。少年が愛され、三毛が忘れ去られるほどそんな考えが頭に浮かぶ。これほどに軽い信頼と愛情で繋がる今の船での人間関係は、あっても意味はないのではないか。

 

 昨日のことだ。三毛はロビーでいつも三毛に食べ物を与えてくれる金髪の女に会った。相変わらず物静かで、相変わらずふわふわと漂うように歩いていた。三毛は挨拶にひと声鳴いた。しかし女は気付かなかったかのように通りすぎて行った。その行き先には少年がいた。

 三毛は女に玩具として扱われるのが嫌いだった。それでも、脳天を割られるような衝撃を受けた。

 三毛自身、ちやほやされることを好いていたのかもしれない。そう思うと、恥ずかしさの伴う衝撃だった。

 

 松子夫人は少年を看病している。部屋には血の臭いが満ちている。

 今日は珍しく、少年はおとなしかった。ただだるそうに寝転がるだけで、いつものように激しく暴れることは無かった。

 少年はいつも無口だった。「マツコ」というのがほぼ唯一の言葉だった。自分の言葉が通じていないことが分かっていたのかもしれない。


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