子供…舳
カモメがふいごのような声で鳴いている。陸が近いらしい。
白い船の舳のテーブルの上で、松子夫人はじっと座ってかさついた指先を見ていた。三毛と少年が心配してそばについていた。
松子夫人は図書館に行ったのだった。
銀の鍵を掌で暖めながら歩き、あのドアの前に立つと、喉を鳴らして足を止めた。鍵がゆっくりとさしこまれた。
「どうしたの、お猿さん。今度は誰の船の底を覗き見するの」
あの女が、いつの間にか松子夫人の真後ろに立っていた。幽霊のようにすうっと近付いて、飛びはねた。ぼろ切れのような服は揺れ、目が隠れるほど深い帽子から汚れた髪が伸びていた。
松子夫人は顔をしかめて、鍵を外した。この女の前ではドアの中に入れる気がしなかったのだ。
女はニヤニヤと歯並が乱れた口を広げて笑った。松子夫人の周りを走る。
「どうして止めたの。どうしてドアを開けないの。中に何か怖いものでもあるの」
松子夫人は黙りこんだ。それでも女は喋るのを止めなかった。
「それじゃああたしの船の底を見る? 見たい? 見せてあげる」
服のどこかから鍵が取り出され、ザク、と鳴らしながら女は鍵穴に差しこんだ。松子夫人が止める暇は無かった。
ドアノブが回された。途端に、悲鳴が聴こえてきて、松子夫人は目を見開いて中を覗いた。
「お母さん、止めて、お母さん、止めて、お母さん、止めて、お母さん、止めて」
松子夫人はぞっとして後ずさった。白い壁の向こうから悲痛な叫び声が聞こえる。
「お爺ちゃん、助けて、マラキ、助けて、誰か、助けて」
この女の声だった。悲鳴は次第に高くなり、獣のような唸り声に変わった。
「嫌だ。嫌だ。嫌だ。助けて。助けて」
松子夫人は女の顔を見た。真顔になっていた。女はゆっくりとした動作で静かにドアを閉じた。そして、呟いた。
「あんたは他人の為にドアを覗くんだね」
松子夫人は何か言おうとしたが、出来なかった。
「あたしのドアの中も見る? 見たい? 見て、娘を殺したあんたに何が出来る?
救えるの? 誰を? あたしを? スチュワートを? 繭子を? 絹子を? それともあの猫を?」
女が一歩近付いて、松子夫人は一歩退いた。
「どうして私のこと」
「何でも知ってるんだ、あたしは。ねえ、あんたに何が出来る?」
女が震え始めた。それから、黒い歯を剥き出して叫んだ。
「何にも出来ないんだよ。この船は牢獄だ。どうやっても救われないやつらの行き着く果てなんだよ。変えようと思ったって無理だ。あんたは偽善者だ、マツコ」
「どういうことよ」
「船を変えようとするのは止めろ」
「私は何も」
「ワクチンから離れろ」
「ワクチンって何よ」
松子夫人はいつの間にか図書館のドアの前に追い詰められていた。女が口角を泡だらけにして怒鳴った。
「猫と子供だ。あいつらを追い出せ」
ドアが勢い良く閉じられた。松子夫人は心臓が激しく鼓動するのを聞きながら、廊下に立っていた。体の震えが止まらなかった。
「この船に、人殺しは何人いるのかしら」
呟き声を聞いて、三毛はギクリとした。松子夫人は目が虚ろだった。
「繭子さんの話を聞いて、船の底に言って、私はどうするつもりだったのかしら」
松子夫人は水平線を眺めた。そして、ポツリと言った。
「偽善者」
三毛は目を閉じて、小さくうずくまるしかなかった。少年は松子夫人の顔に手を伸ばそうとして、途中で止めた。