子供…廊下・2
三毛は硝子戸の中にいる男を促して、開かれた硝子戸をすり抜けた。今日もロビーに来た人々に撫でられ、抱かれ、時には鶏肉を与えられては歩いて行く。
「三毛だわ」
と松子夫人はぼんやり呟いた。それを聞いたスチュワートがさっと身を翻した。
「猫を近寄らせたくない。僕達は部屋に帰ります。それでは」
三毛が「生き返ったメアリー」を見る間も無く、スチュワートは煙のように消えた。
「メアリーが生き返ったらしいわ」
松子夫人が呆れたように言った。
「あの人って、大袈裟だわ。お葬式までやってしまうんだもの。時の止まったこの船で死んだ者は、いくらか経てば船に來たときの状態に戻る。それが当たり前だと分かるはずよ」
松子夫人は酷い隈の下で笑った。
「でも、生き返ったばかりならまだきちんと動けないくらい弱ってるでしょうね。三毛、本当に近付いちゃ駄目よ。スチュワートさんに酷い目に会わされるわよ」
松子夫人は足元の三毛をちらと見て、不意に真顔になった。
「可愛いリボンね……」
三毛はカサカサと鳴る煩い赤いリボンを足で掻いた。松子夫人がしゃがみ、それをほどいた。二枚あわせの縮面生地の端から、薄桃色の紙がはみだしていた。
松子夫人は慌てて下を覗いた。姉妹は砂糖菓子ホテルの外に出ていて、そこからは見えなかった。
松子夫人は黙りこみ、それから骨太の荒れた指先でそっと細く畳まれた紙を開いた。
「無理よ……」
手紙を読んだ途端、松子夫人は呟いた。唇を噛んで、三毛を見た。松子夫人は悲しい顔をしていた。三毛は胸がドキドキと鳴るのに脅えた。
『私が過去を確かめる方法は、船の底に行くこと以外にありません。しかし絹子さんはほとんどいつも私の側にいるのです。私が自分で行くことは不可能です。ですから松子さん、あの鍵を使って、私の代りに行って、確かめて頂けませんか』
手紙は細かい字で流れるように書かれていた。
「私はもうあんなところに行きたくない」
三毛は松子夫人のその一言でスチュワートを思い出し、全てを理解した。それから、松子夫人のあの焦燥について考えた。
『鍵はお返しします。ロビーの本棚の端に挟んでいますので、受け取って下さい。私には出来ません。ご免なさい』
三毛のリボンに新しい手紙が入った。松子夫人は深いため息をついた。三毛にはこのリボンがやけに重たいように感じられた。
その後ろの部屋で少年が泣いている。松子夫人がまた息を吐いた。
「よろしくね」
三毛は部屋を出された。こうやって、繭子に見つかるまで船じゅうをうろつかなければならない。三毛は松子夫人を少し恨んだ。どこか嫌な空気をまとった仕事だった。
そもそも、松子夫人が始めたことだ。あの時繭子に命じたことを松子夫人が代りにすることは、筋違いではない。
しかし、そんな考え方は、船の底の恐怖の前では打ち消されるのかもしれない。
三毛は部屋を出てすぐにスチュワートが歩いてくるのを見てそう思った。スチュワートは三毛を見て嫌な顔をした。高い位置に持った籠の中には、黄色い尾羽が見えた。
次の日の朝、松子夫人はロビー奥の机に突っ伏していた。銀の鍵がその手に握られていた。番号は一〇二五。傍らに手紙があった。
『私は今のような足元のあやふやな状況にいることが我慢ならないのです。お願いです。私がどんなに恐ろしいことをしたにしても、絹子さんがどんなに酷い嘘をついているにしろ、知りたいのです。それに、私がこの船で信用できるのは松子さんだけです。あなたしか頼る人がいないのです』
「どうしよう」
松子夫人は呟いた。悩みは根深かった。銀の鍵を置いた本棚を確かめたところ、鍵どころかこの手紙もあったのだ。
「マツコ」
テーブルを挟んで向かい側に、少年が座ってニッコリと笑っていた。広い額と丸い目が可愛らしくて、松子夫人は思わず微笑んだ。少年は少しだけだが元気になった。三毛は空いた椅子に横たわっていて、微笑ましいような気の毒なような気持ちだった。
「あなたと話せれば楽しいでしょうね」
昨日までの荒れた少年のことをすっかり忘れて、松子夫人は笑った。穏やかな時の彼は天使のようだ。
ふと気付くと、ロビーにいる人々の目は少年に集まっていた。珍しく、優しい眼差しがこの場所に溢れていた。三毛は自分に向けられる以上の慈愛や暖かさがあることに気付いた。それは不愉快なものではなく、不思議に心地良かった。
「行ってくるしかないのかしらね。繭子さんは確かにいつもあの調子だし」
松子夫人が横目で一階廊下を見た。絹子に腕を取られた繭子が、こちらをわずかに見ながら奥へと連れられていった。
「絹子さんって怖い人ね。妹がそんなに可愛いのかしら」
繭子の顔は青ざめていた。きらきら光る大きな瞳が、松子夫人に何かを訴えていた。松子夫人は決意を固めた。