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砂糖細工の船に乗って  作者: 酒田青
第二章 子供
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子供…廊下・1

 少年が枕を投げた。三毛の小さな体にはそれは重すぎて、三毛は潰れてしまったた。薄茶の枕から鼻を覗かせひくつかせてみた。血の臭いだ。

 松子夫人は特に表情も変えず、ただじっと少年を見ているだけだ。松子夫人のベッドは点々とどす黒い色で模様をつけられ、それは静かに消えていった。

 少年は唸った。もはや寝ているだけでも身体中に痛みを感じるらしかった。涙目が哀れだ。

 枕の下から三毛が這い出てきた。少年を見る。少年は三毛を見上げて苦しげに長い息を吐いた。

「三日ごとにこうなるのね。息が出来なくなって、身体中が重たくなって」

 松子夫人は溜め息をつき、真夜中の穏やかな海の揺れに身をまかせた。微かに、海が揺れている。優しく、砂糖細工の船をあやすように。

 そうだ。ここはだだっ子達の揺り篭なのだ。ぐずつく誰かをあやせる大人は一人もいない。

 老人さえもそうなのだ。松子夫人は夕方見た老人を思い出して、溜め息をついた。

 冷たい顔、笑わない目、カナリヤの死体。

 思い出しただけで、何かとてつもない欠落感を覚えた。丸い物が欠けた。いや、壊れた。そんな感じがする。

 松子夫人は足場を失ったような気がした。

 あの人は正しい人だ。でも、あのカナリヤはどういうことだろう。

 考えるだけ無駄だった。この結末の手掛りを探しても、松子夫人には見付けようがなかった。

 三毛は少し違った考えを持っていた。いつか松子夫人も気付くだろうと思う。三毛は松子夫人をジッと見た。

 少年が酷い咳を始めた。空気が少年を破裂させるのでは無いかと心配してしまうような、啖混じりの醜い咳だった。聞いていて気持のよいものではない。

 松子夫人が手を伸ばして、脂汗のにじんだ少年の広い額を撫でると、少年は鬱陶しそうに手を払った。もはや松子夫人に媚を売る余裕もなかった。松子夫人が優しくしようと手を伸ばす度にそれは繰り返され、松子夫人はどん底の気分に陥った。もはや松子夫人が頼りにされることも無いし、友人は友人で無くなりつつある。果ての無い徒労感に囚われた気分だった。

 松子夫人が欝々と少年を看ているこの状況に耐えられなくなった三毛は、ドアを開けてもらって廊下に出た。

 白い廊下は鼠色と真珠色と海の色に彩られ、とても綺麗だった。曲がりくねった先に回廊があり、可愛らしい明かりとりがあり、硝子の大扉は海を映す。とりわけやや欠け始めた月は美しかった。

 月が一番好きだ。星よりも、太陽よりも、三毛は孤独な月の時間が好きだ。

 月の下で踊り狂うのが猫の性で、どんなに不愉快でも、月の下での遊びはそんなものは吹き飛ばしてしまう。三毛はステップを踏むようにして階段を降りた。

 海は黒い。時々青色に光る。月が立派に光る日ほど、海は綺麗に輝く。三毛もそうだ。満月の夜こそが三毛の一番愉快な一時だ。

 階段を降りると、ロビーには人気がなく、ただ音楽だけが聞こえてきた。優しい音がひっそりと漏れてくる。三毛は不思議な安心感を持った。ゆらゆら揺れる、水面に映った月のよう。月夜にぴったりの音楽だ。

 ――誰が弾いているのだろう?

 ふらふらと一階音楽室の前にたどり着いた。声が聞こえる。

「私、この曲好きだわ」

「そうなんだ」

「私の一番好きな曲」

「君はそんなにドビュッシーを好きだったかな」

「いえ……。ただ、ピアノ曲は良いわ。何を弾いても優しいもの」

「チェンバロは?」

「何だか閉鎖的な音がする。地味なせいかしら」

 三毛の身体中の毛が頭から尻尾まで逆立った。それは確かに絹子の声だった。そして絹子と共にいるのは、繭子ではなかったのだ。

「月が綺麗」

「本当だ」

 その後、また同じ曲が聞こえてきた。

 三毛は転びそうになりながら走った。白い絨毯の上を、砂糖の天井の下を。

 慌てて駆け込んだのは繭子の部屋に続く廊下だった。ドアに飛び付き、ガリガリと削る。精一杯鳴く。

 それでも繭子は起きて来なかった。三毛は途方に暮れた。繭子は何をしているのだろうか。

 ニャアニャアと諦め気味に鳴いていると、明快な靴音が聞こえた。三毛の声が止まるのと同時にその声も止まり、それからまた動きだした。

「三毛」

 絹子だった。藤色に小花が散った着物を着流して、いつもとは違いだらしない格好をしていた。青ざめた小造りな顔は三毛の目にカッチリはまり、僅かに指先が震えていた。

「何しに来たの」

 絹子はしゃがんで三毛を抱いた。三毛はその腕が酷く熱いことに気が付いた。

「繭子さんは眠っているのよ。一人で、あの真っ赤な部屋で」

 三毛の耳を引っ張る。三毛は頭を激しく振る。

「そして、城内さんも眠っているの」

 ハッと三毛が絹子を見上げた。絹子は奇妙な凄味のある笑顔でこう言った。

「城内さんは音楽室のピアノの中で暮らしているのよ」

 絹子がフフフ、と笑った。三毛が小さくなって見ていると、急にピタリと笑いが止んだ。

「また会ってしまったわ」

 呆然と呟いた。絹子の体がカッと熱くなる。

「もう繭子さんを騙したくないのに」

 絹子の涙がハタハタと落ちた。三毛はおとなしくすればするほど、きつく抱き締められた。

「三毛、絶対に内緒よ。繭子さんには言わないで」

 三毛はだだっ子のように訴える絹子に呆れた。しかし泣く絹子が珍しくて、その顔をマジマジと見た。絹子も同じことをした。

「三毛、もしあなたが魔法で人間と話せるようになっても、この誓いは絶対よ」

 絹子は真剣な目でそう言った。三毛は、絹子は夢見がちだ、と考えながら繭子の話を思い出した。

「じゃあ、おやすみなさい、三毛」

 絹子が三毛を床にそっと降ろし、銀の鍵でドアを開けた。部屋の中から絹子が小さく手を振ると、それを合図として三毛は脱兎のごとく走り去った。走る先にあるのは音楽室だ。

 三毛はまた音楽室の前で立ち止まった。静かだ。耳をドアに寄せる。例え防音壁でも、三毛の耳ならかすかな音を聞ける。

 しかし、音どころか、そこからは人の気配すらしなかった。

 

 早朝、ロビーの椅子の下で眠っていた三毛の側に誰かが座った。繭子だった。

「おはよう、三毛」

 穏やかな笑顔だった。白い肌が輝いている。

「あなたはいつもロビーで寝てるのね。松子さんと一緒に寝ないの」

 三毛は立ち上がり、繭子の桃色の着物の裾に寄り添った。昨日、城内のことでなにも出来なかったことが申し訳ないような気がした。

「三毛にプレゼントをあげるわ」

 繭子が袂から取り出したのは緋縮面のリボンだった。手早く首に結び付け、うなじで複雑な結び目を作る。

「絹子さんの目が厳しいの。これを松子さんに渡してね」

 首の後ろがカサカサ鳴った。見上げると、繭子の瞳は不安に曇っていた。

「繭子さん。どこ?」

 昨日の不安げな様子が全く消え去った絹子が、澄ました顔で繭子を探してロビーに出てきた。繭子は慌てたように三毛を隠した。

「何をしていたの」

 絹子が咎めるようにして尋ねた。繭子は以前のようなぼんやりとした笑顔で答えた。

「草履の鼻緒を直していたの。痛くって」

「あら。三毛じゃないの」

 繭子の苦労の甲斐無く、絹子はすぐに三毛を見つけた。

「リボンを作ってあげたの。可愛いでしょう」

「そう」

 昨日とはうって変わって三毛に興味を持たない絹子は、三毛の首輪に注意を払わなかった。

「あら、あなた何だか着物の着方が上手くなったのね。前は帯も襟元もいい加減だったのに」

「あら、そうかしら……」

 二人は静かにその場を去っていった。繭子は途中でチラリと三毛を振り返って見た。

 

 太陽は砂糖の船に強く照り付けていた。甘い、焼ける砂糖の香りが強い。暑苦しい臭いではあるが、海の青さと輝きを見れば心が静まる。早朝の砂糖細工の船は最高だ。三毛は外に出て、冷たい風に全身の毛を泳がす。

 繭子に頼み事をされたことは分かる。だが、一体何を任せられたのかが分からない。それにあの部屋に帰るのは少し気後れがする。故に三毛はこうやってブラブラしている。

「メアリーが生き返った!」

 ビクンと三毛は体を反らした。振り向くと、二階の回廊でスチュワートと松子夫人が話をしている。松子夫人は疲れ気味だが、スチュワートはやたらに興奮し、籠を松子夫人に見せている。


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