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砂糖細工の船に乗って  作者: 酒田青
第二章 子供
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子供…二〇五五号室・2

 三毛の視線に気付いて、松子夫人は力なく笑った。

「何だか自信がなくなったわ。きっとこれはただの落し物なのよ。繭子さんに返しに行くわ」

 繭子に頼られているという自負が揺らいだらしかった。しかし、三毛は銀の鍵に意味を見い出していた。これは大事なものだ。

「マツコ」

 不意に少年が不安げに呟いた。丸い目がますます丸くなり、脅えのために雰囲気が幼く見えた。

「すぐ帰ってくるから」

 松子夫人は笑った。三毛は、大丈夫だよ、と鳴いてやった。少年は黙って去って行く二人を見ていた。三毛には少年がいつもより小さく見えた。

 

 四階までの道中は気まずいものだった。会話もなく、誰一人として視線も交さなかった。松子夫人はそっと階段の手摺の外を見た。ロビーに人はいなかった。ただ、僅かにピアノの音がした。

「ピアノ……」

 松子夫人がつっかえるような声で言うと、スチュワートは少し沈んだ声で答えた。

「あの日本人の双子姉妹ですよ」

 繭子たちだ、と三毛は気付いた。松子夫人は話の取っ掛かりにホッとして、少し和んだ調子で喋った。

「双子じゃないわ。でもよく知ってるのね」

「僕はチェロをやりますから、音楽室でたまにすれ違うんです」

 松子夫人がスチュワートを見た。いつものように無表情で、緊張していた。スチュワートが音楽をやるとは少し意外だった。

「でも、ピアノは巧くありませんね。日本人の手があまりに小さいせいでしょうか」

「あら、繭子さんはとても手が大きくて、ピアノ向きよ」

 そういえばそうだ。三毛は二人の手を思い出した。絹子の手は子供のように小さい。しかし、あの手で城内と作ったという奇妙な曲を弾きこなしていた。下手だとは思えない。

「青いほうの彼女は……」

「あら、おじいさん」

 三人が四階に着いて老人の部屋のドアの前に差し掛かろうとした時、そのドアは細く開き、老人はその隙間からジッとこちらを見つめていた。三毛はゾッとした。その顔色は普通ではなく、目つきは朝以上に怪しかった。

「おじいさん、ちょっとお話が」

 松子夫人も、老人のその様子に動揺したようだった。恐々と尋ねるが、老人はそのままの姿勢で少しも動かない。

「メアリーを返してください」

 スチュワートが勢い込んでドアに飛び付いた。ドアは簡単に開いた。

「メアリー? ああ、鳥のことか」

 そう呟く老人の声はしわがれていた。すぐさま身を翻し、スタスタと部屋の中に入る。

「様子が変だ」

「そうね」

 二人は青ざめていた。三毛は何が起こるのかと身構えていた。老人はすぐに戻ってきた。

「これだろう?」

 老人が笑いながら突き出したものを見て、スチュワートは大きな悲鳴を上げた。

 黄色いカナリヤは死んでいた。松子夫人は声を詰まらせ、恐ろしげな目で老人を見た。三毛はスチュワートの悲鳴を耳から追い出したくて、ただ目を瞑った。老人はただひたすらに小さく笑っていた。

「うるさく鳴くから籠を床に払い落とした。ショック死したらしい」

「そんな」

 平然と言ってのける老人が信じられず、松子夫人は老人を見た。

「ぼんやりしてたんだ。すまない。世話はちゃんとしていたんだよ、トマス」

 スチュワートは声もなく泣いていた。籠から出したメアリーを抱き締めて。

「おじいさん、どうしたんですか」

 松子夫人がビクビクと尋ねた。老人はにっこり笑うが、顔色のためか、いつものように繕えない。

「どうもしない」

「体の具合いでも……」

「最近眠れなくてね」

「言ってくだされば、あの子のことは全て請け負いますのに」

「いいんだ。私は子供が好きだから」

 老人はまたにっこり笑い直した。松子夫人は出来るだけ努力して微笑んだ。

「いえ、これからは私が世話しますわ。おじいさんはたまに遊ぶだけでも良いんですよ」

 老人はニコニコしながら黙りこんだ。三毛は恐ろしげにそれを見ていた。

「じゃあそうしよう」

 あの老人らしい明るい声が廊下に響いた。床に座り込んでいるスチュワートを横目に、松子夫人は注意深く頷いた。

「そうですね、それじゃあ」

「もう二度とあの子と関わりなくないな。マツコ、私の目にあの子を入れないでくれ」

 松子夫人は愕然として老人を見た。笑顔は消え、老人は冷えきった表情でノブを握っていた。

「私は寝る。もう起こさないでくれ」

 ドアはバタンと閉じた。三毛はブルブルと体が震えるのが止まらなかった。とうとう老人は自らをさらけだしたのだ。

 スチュワートを慰めながら、松子夫人は彼の部屋まで付き添った。なかなか泣き止むことはなく、小さなメアリーの亡骸をいつまでも抱き締めていた。

 松子夫人自身、呆然としていた。老人の豹変を突然のものとしか思えない松子夫人は、ただ驚き、脅えるしかなかった。

 松子夫人の頭に、フッと繭子の言葉が蘇った。

『あの笑顔は嘘だわ』

 そうだったのかもしれない。私は何も見えていなかったのかもしれない。

 松子夫人は思い悩んだ。三毛は自分や少年と同じ苦しみを持ち始めた松子夫人を見て、何故か安堵した。

「この船から出たい」

 スチュワートが揺らぐ声を漏らした。三毛はスチュワートの曇った眼鏡に涙が落ちるのを見た。

「出たい、出たい、出たい」

「そうね。そうね。でも、落ち着いて、スチュワートさん」

 松子夫人はスチュワートの猫背をさすった。

「この船は狂っている。全てが狂っている」

 スチュワートがうめくと、松子夫人は小さく、

「そうね」

 とつぶやいた。

 スチュワートが部屋に入る時、松子夫人は無理矢理中に引っ張りこまれた。

「メアリーのお葬式に出てください」

 スチュワートの目は真剣だった。また昔のスチュワートに戻っている、と三毛は思った。狂ってはいないが、やや風変わりのスチュワートに。

「分かったわ。私は真宗だけど、構わない?」

 松子夫人が子どもを扱うようにスチュワートを扱い、彼の言う通りにした。部屋は三毛の思った通り、無機質な灰色の部屋だった。

 硝子のテーブルに載せられた黄色いカナリヤの周りに、スチュワートと松子夫人と三毛が並んだ。そして、思い思いにメアリーを見つめた。

 メアリーは固くなり、青く薄い瞼で覆われた目をスチュワートの方に向けていた。濡れたような羽毛は相変わらず艶やかだった。松子夫人がヒソヒソと尋ねた。

「これがお葬式?」

「黙って」

 三毛がごそごそとメアリーに近付くと、スチュワートは三毛を殴らんばかりに怒った。

「この猫にメアリーを食べないよう言ってください」

「三毛、食べちゃ駄目よ」

 松子夫人はいつもと違って素直にスチュワートに従った。三毛はおとなしく引きさがって椅子に座り、三人は、ただひたすらメアリーを見つめた。スチュワートの目はキラキラ光っていた。

「メアリーはね、あの少女とは別の存在なんです」

 スチュワートは唐突に話だした。松子夫人は眉をひそめた。

「でも、あなたこの間は……」

「たまに混同します。でも、それはただの記憶の混乱です。小鳥のメアリーは僕が雛の時から育てた大切な娘です」

 それは三毛も松子夫人も知っている。

「唯一、僕を分かってくれた。人間のメアリーには、僕は間違った愛情の使い方をしてしまったけど、彼女は違った」

「それは、この子は鳥で、あなたは……」

 スチュワートはきっぱり言った。

「いえ、あの女の子は僕の恋人で、このメアリーは娘なんだ。だから僕は正しい愛しかたが出来た」

 松子夫人はスチュワートがまた妙なことを言うので、少し身構えた。三毛はジッとメアリーを見ていた。

「おかしいと思っているでしょう。でもこれが正常な僕ですよ。船の底に行って確認できるのは、僕は間違った恋の仕方をしたけれど、このメアリーとは正しい愛を育めたということなんです」

 スチュワートは灰色の瞳で、じっとメアリーの骸をにらんでいる。

「でも、人間のメアリーの愛は、やはり唯一の僕の愛なんです。そこでこのメアリーと人間のメアリーは混じりあうんです」

 

 松子夫人は疲れ果てたようにスチュワートの部屋を出た。三毛は軽い足取りで歩いた。

「みんなみんな、おかしくなってしまったわ」

 しかし三毛は思った。みんなみんな、正しい道を見付け始めたのだと。

 松子夫人はもの思いに沈んでいた。結局、銀の鍵は返さなかった。


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