子供…二〇五五号室・1
少年はみるみる内に衰弱して、松子夫人のベッドの上に寝そべったまま動かなくなった。目が虚ろで、血走っている。その目は、しっかりと松子夫人を見据えている。
「この子は私より短い周期に生きているのね」
松子夫人は溜め息をつく。少年は健康な食べ物と睡眠ですぐに元気になる。それは船に来る前の生活があまりに惨めだったからだろう。しかし、せっかく元気を取り戻したにも関わらず、船に来てから一週間の半分に満たない日に、また弱り始めている。
「可哀想に……」
三毛はベッドの上にいて、少年の額を撫でる松子夫人を見つめていた。松子夫人の目は優しかった。
「マツコ」
少年は急に大きな声を上げた。ビクリと顔を見ると、その顔は妙な笑いを浮かべていた。松子夫人が眉をひそめた。
「何?」
「マツコ……」
少年は松子夫人の手を取って、ギュッと握った。そして、また笑った。松子夫人は戸惑った。この子は元々こんな風だったろうか。
三毛は悲しかった。それは少年の、松子夫人に対する「媚」だったからだ。
「変だわ。色んな事が変。対応しきれない」
松子夫人は溜め息をついた。そんな彼女に少年は弱々しい手で再びまとわりつく。
「可愛いわね。私、あなたが大好きよ」
松子夫人が少年の額に手を当てる。少年は笑う。
老人の部屋に突き返されたくないがために。
夕方、激しいノックの音が部屋に響き渡った。松子夫人は読んでいた本から顔を上げた。同時に感電したかのように体を起こしたのは三毛と少年だ。顔は青ざめていた。
「高松さん、高松さん」
声に聞き覚えがあった。少年はホッとしたように再び横たわったが、松子夫人は身構えた。英語だ。
「いらっしゃいますか、高松さん」
あのどもりがちの声が松子夫人を押しとどめていた。
「メアリーはどこにいるんです。この数日の間に、メアリーをどこにやったんですか!」
松子夫人はゾッとして立ち上がった。しばらく部屋をぐるぐると回ってためらった後、ようやく寝室のドアを開けて出て行った。三毛もついて行った。ドアはしつこく叩かれた。
「ああ、いらっしゃいましたね。私です。スチュワートです」
「メアリーならおじいさんのところです」
松子夫人はドアを開けてスチュワートの顔を見るなり即座に答えた。汚らわしい、という思いが強かった。
スチュワートの頬はこけ、髪の毛は乱雑にかきみだれていた。眼鏡には脂が虹を作り、上着はもみくちゃだった。
気味悪さのために三毛は後ずさった。スチュワートが三毛を見た。
「まさかとは思いますが、この猫がメアリーを食べたのではないでしょうね」
灰色の目は鈍く光っている。松子夫人はイライラと頭を掻いて怒鳴った。
「だから、おじいさんのところよ。早く行って」
「おじいさん?」
松子夫人は不愉快そうにスチュワートの顔を見上げた。その顔はぼんやりとした無表情だった。
「忘れたの」
「あの老人のことですか」
「覚えているのなら早く行って」
「どの部屋だったか……」
「四〇二七号室。早く」
「何故そんなに急かすんです」
「止めて。汚らわしい。あなたの大事な女の子は猫に食べられたりしないわよ」
松子夫人はそう怒鳴ったきり、黙りこんだ。スチュワートは固まった。ようやく表情らしいものが現れたが、それは「不安」だった。
「あなたは私の船の底に来たんですか」
松子夫人は黙った。スチュワートの動揺は激しくなる。もはや泣きわめかんばかりになっていた。
「全て見てしまったんですか。でも、あれは、メアリーは…」
「思い出したくもない。止めて」
松子夫人はドアを閉めようとした。スチュワートは叫んだ。
「軽蔑は止めてくれ。あれは僕の愛なんだ。唯一の、本当の愛なんだ」
閉ざされたドアの向こうでスチュワートは絶望的な声を上げ、駆け去った。
廊下が静かになると、松子夫人はそっと外を覗いた。スチュワートは老人の所に行ったようだった。
「真実の愛……。あれが?」
小さな声で呟いた。三毛は松子夫人の様子に少し驚いた。スチュワートの船の底での体験は彼女にとってはトラウマになったらしく、過剰なまでに脅えていた。
松子夫人はこわばった顔のまま人間の像だらけの居間を横切り、寝室に戻った。少年は二人を見た。そしてまた、
「マツコ」
と甘えた声で笑った。松子夫人は穏やかな顔付きに戻った。
「あなたは可愛いわ。大丈夫。守ってあげる」
少年をギュッと抱き締めた。その豹変は少し奇妙だった。三毛は松子夫人をじっと見つめていたが、仕方が無いことと諦めた。
松子夫人は子供を一人失っているのだ。それは大人のためにズタズタにされた娘だ。この孤独な船の上で見つけた「こどもたち」である少年と繭子は、その代替物となってしまったのかもしれない。
実際、繭子のことも酷く気にかけている。あの銀の鍵を見つめ、結局返すことを止めたのだ。
「繭子さんは私に何かを期待しているのかもしれない」
と呟いて。
「お腹がすいたわね。夕飯にしましょうか。リゾットが良いわね。三毛は山羊乳に羊肉……」
松子夫人が元気よくメモ用紙に鉛筆を走らせているときだった。またノックの音がした。今度は弱々しい音だった。三毛はビクンとドアを見た。鉛筆がパタリと落ちた。
ドアの前にいたのはやはりスチュワートだった。ばつが悪そうに足元を見ている。松子夫人は頭痛がしたかのように手を額に当てた。腕に三毛を抱いている。スチュワート避けだ。
「あの老人がドアの外に出てきてくれません」
「いないのかもしれないわ」
松子夫人はそっけなかった。
「います。返事をするのが聞こえるんです。ただ、ドアを開けてくれないんです」
スチュワートの顔は悲痛だった。メアリーは未だに彼の宝物だった。しかし松子夫人はそれを知りながらも残酷に言った。
「おじいさん、知ってるのよ」
「……何を」
「あなたが昔したことを。私が話したの。だから会いたくないんじゃないかしら」
松子夫人はスチュワートを見据えた。スチュワートはしばらく唖然とし、ガタガタと震えだした。
「何てことを」
「私もあなたが怖いのよ。だから言ったの」
松子夫人は口をギュッとつぐんだ。スチュワートと目を合わせたくも無かった。
「でも何故あなたが僕の船の底にいたんです……」
スチュワートは脅えていた。
「覚えてないの。あなたが無理矢理引っ張りこんだのよ。メアリーと間違えて」
スチュワートはしばらく絶句していた。そして酷く動揺し始めた。
「僕の過去は、過去は……」
息が詰まったようだった。
「何度船の底で見ても汚くて、恐ろしくて……」
松子夫人が驚いたように瞼を上げた。
「全ての人に、メアリーに、軽蔑されても仕方がないことをして……。そんなことに毎回気付く」
三毛はスチュワートの心に初めて同調出来ているような気がした。人間らしい面というものが、スチュワートに初めて見えた。
「でも、もう取り返しがつかない。メアリーは壊れてしまった」
松子夫人は床を見た。何かを思い出したようだった。
「僕は一生船から出られない。罪人だからだ」
三毛は松子夫人が震えていることに気付いた。
「本当は気付いていた。僕が船に呼ばれた訳を。ただ、ああして船の底に行かなければ忘れてしまう。いつまでも罪人だということを覚えていたくはないから。でも、罪人なんだ」
スチュワートが言い終えると同時に松子夫人も言った。
「私もあなたと一緒です」
松子夫人は涙をポツリと絨毯に落とした。
「皆罪人なのよ。私には人を責める権利なんか無いのよね」
涙はポトポト落ちた。スチュワートは黙りこんでいたが、今度は正常な沈黙だった。
「私が一緒に行って、メアリーを返すよう頼みに行くわ」
顔を上げて、松子夫人は悲しいような笑顔でそう言った。
「ありがとうございます」
スチュワートは堅い顔で答えた。
「ちょっと待ってて」
松子夫人は寝室に引き返して、繭子が落とした銀の鍵を探し出した。それは少年の寝ているベッド横のテーブルに載っていた。