子供…二〇四七号室・2
「凄かったわ。私はスープをひっかけられるし三毛は鋏で体を切り刻まれそうになるし……。私も一時期あの子に殺されると信じていたわ。それなのに昨日あの白いおじいさんに預けた途端、あんなに仲良くなって、私に甘えて。おじいさん、どんなことをやったのかしら」
それを聞いた繭子は少し黙って考えていた。松子夫人が横目でそれを見ていると、繭子は急に松子夫人の方に体を向けた。
「あのおじいさんはあの子を可愛がっていて?」
「ええ、それは。本当のおじいさんみたいよ」
松子夫人は不思議そうに繭子の深刻な顔を見る。
「あのおじいさん、何か変じゃありませんこと」
繭子の言葉に、松子夫人はふっと笑った。
「確かに変わり者だわね」
「そういった意味ではなく」
松子夫人はまじまじと繭子を見た。
「どういった意味なのかしら」
「あの笑顔は嘘だわ」
繭子は重々しく言った。松子夫人は悲しそうな顔をした。
「そんなことはないでしょう」
松子夫人が本当に悲しげなので、繭子は慌てた。
「私は何と無くそう思っただけですわ。だって、こんな陰気な船にいて、陰気な住人に無視されて、それでも笑っているのが嘘らしく思えたというだけですの」
「あら、そんなことなの」
松子夫人の顔に笑顔が戻った。
「おじいさんは不幸な人達を幸せにしようといつも笑っているの。素敵な方よ。あなたも話してご覧なさい。きっとおじいさんも喜ぶわ」
「そうですわね。でも、松子さん。私、あのおじいさんはあの男の子の前では笑うのを止めたんじゃないかと思いますの」
「どういう理由なの、それは」
松子夫人がまた悲しそうになる。繭子はそれを見ないようにする。
「あの時あの子が階段を一所懸命駆け降りたのは何故かしら。あなたの名を呼んだとき、あんなに脅えていたのは何故かしら」
「やめて」
松子夫人が静かにそう言うと、繭子は黙って下を見た。
「止めないと、あなたの告白の続きを聞いてあげないわ」
松子夫人は遠くを見て言った。少年と三毛が彫像を迷路に見立ててあちらこちらに飛ぶ。三毛は聞耳を立てながら走った。
繭子の言う通りだ。なぜ部外者の繭子が気付くのに、松子夫人はそれを信じないのだろう。
「告白、始める?」
松子夫人がぽつんと尋ねた。
「もう少ししてから。勇気が要りますから」
繭子はドーナツを小さくかじる。
「でもさっきはよく話していたわ」
「あの時はヒステリーになっていましたもの」
繭子はぼそっと言った。少し恥ずかしそうだった。
「ごめんなさい。私、松子さんに酷い言葉を使いましたわ」
「卑女?」
松子夫人が笑った。
「……すみません」
「平気よ。私の時代ではそれはもう死語だから、あまり効力がないわ。暫く考えて、やっと意味が分かったくらいよ」
「死語、ですの」
繭子は不思議な表情をした。二人の間の奇妙な時の流れに思いをはせたのだろう。
「松子さんはいついらしたの」
繭子はそっと言った。用心のいる言葉だ。
「西暦で答えるわ。一級七〇年。十一月だったかしら」
「年号は……」
「昭和よ」
「ショウワ……」
繭子はぼんやりと口の中で唱えた。
「一九七〇年が昭和何年だったかは、あまり言わない方がいいかもしれないわね」
松子夫人はにっと笑った。繭子は不思議そうだ。
「それはどういう……」
「秘密よ」
繭子は怪訝な顔になった。松子夫人は繭子にその後の歴史の展開を語って見せるのはどんなに楽しいだろうと思った。しかし、繊細な繭子にそれを不用意に試すのは憚られた。
「そんなことより、あなたの時代のこと知りたいわ」
松子夫人は話の方向を変えた。
「私は憧れを抱いているのよ。大正時代というものに。百貨店。あの場にはふさわしくないけれど、さっき聞いたときは一瞬胸が踊ったわ。大正時代の百貨店と言ったら豪華絢爛、混じりっけなしの稀少な舶来品、本物の布素材の服。大正は日本が文化的に最も豊かだった時代の一つだわ」
繭子の顔が輝いた。
「そうですのよ。百貨店が震災の後にたくさん出来ましたの。私の持つドイツの万年筆やフランスの下着類は皆百貨店で買いましたのよ。とても素敵でした。それにこのハンケチは」
と懐から取り出したのは、白の美しいレース素材であったろうと思われるものだ。今や繭子の涙と溶けた化粧でまだらに汚れ、しわくちゃになっていた。松子夫人と繭子は吹き出した。
「……フランス直輸入なんですけれど、こんなになってしまいましたわね」
そう繭子が言うと、二人は発作に取り付かれたかのように笑った。少年と三毛が不思議そうに立ち止まって振り向いた。
「あら、刺繍」
ひとしきり笑い終えると、松子夫人はそのレエスのハンカチの綺麗な一角に小さな英字の刺繍を見つけた。繭子はハッと顔をこわばらせた。
「Mayuko.S……。あなた、名字は何て言うの」
繭子の顔が青ざめていた。
「山瀬、です」
「だって、Sよ……」
松子夫人が繭子の顔色に気付いた。そしてSの正体が直感的に分かった。
「……贈り物なのね」
「ええ」
「あなたにとって一番大事な」
「ええ」
繭子はぼんやりとした笑顔を松子夫人に向けた。
「城内さんが私に送ってくださいましたの。私をいつまでも愛する、だから婚約指輪のように受け取ってくれと」
それは残酷な刻印だった。ハンカチの刺繍の上では、繭子と城内は結婚していた。松子夫人は言うべき言葉が見付からなかった。
「……もう、話してもよろしいかしら」
繭子がものに憑かれたように微笑む。
「どうぞ」
松子夫人は毅然と答える。どんなことでも受けとめるつもりだ。さっき彼女は私を受けとめてくれた。
「ねえ、松子さん。私が殺した恋人と私の姉が、この船で逢い引きするのは可能かしら」
告白は突然の質問で始まった。松子夫人は呆然とした。
「唐突過ぎるわね……。まず、私と城内さんと絹子さんのことをお話致しますわ」
すう、と繭子は息を吸った。目が泳ぐ。吸った息はまた吐き戻された。
「すみません……。やっぱり不安ですわ。三毛!」
繭子が呼び掛けると、三毛が振り向いた。少年は少し疲れた様子で、膝に乗せた三毛を見下ろした。
「あなたも来て。お願い」
手招きを察して、少年は三毛を抱いてのろのろとやって来た。繭子は三毛を奪い取るようにして抱き締めた。少年はだるそうにソファに倒れ込む。
「松子さんも、出来るだけ私に近寄っていただきたいの」
松子夫人は驚いたが、繭子の不安げな様子を見て、その通りにした。少年を肘掛けに寄り掛けさせ、自分は繭子の隣に座った。
三毛は何が始まるのだろうと首をかしげてこの様子を見ていたが、繭子から漂うどんよりとした不安定な空気を感じとり、警戒した。
「ご免なさい。不安で不安で、誰かの温もりが欲しくて。いつも絹子さんと触れ合っていた体が、とても冷えきっているような気がしますの」
ここでは三毛が一番大事らしかった。三毛は繭子の胸に押し当てられ、速い心臓の音を聞く。
「城内さんは、私と絹子さんがおままごとをしているときに、突然いらっしゃいました。
私が九才、姉が十歳。お恥ずかしいのですけれど、もうままごとは卒業の時期に来ているのに、私達は止められませんでしたの。そこは私達二人の居室で、姉が庭で摘んだマリーゴールドや、お人形や玩具のネックレスや綺麗な千代紙が散らばる、私達のお城でした。確か、私達はあの時も花の妖精ごっこをしておりました。ほら、花を育て、花を食べる……。