子供…二〇四七号室・1
松子夫人、少年、三毛、繭子の大所帯で階段を昇って行くと、彼らは住人たちの目を引いた。少年はそれらの人々をからかうように、いろんな顔をしてふざけて松子夫人に止められた。眠ったせいか、やや元気になったようだった。
松子夫人の部屋は二階なので、早朝時の四階からの脱出ほど辛いものではないようだった。松子夫人も三毛も、繭子も、少年を労った。
「ここが私の部屋」
二〇四七号室の扉を開けると、削りたての木の香りが溢れた。少年が真っ先に飛込んで、居間の彫刻を一つ一つを物珍しげに眺めた。
「……すごい数」
繭子は驚いて目を見開いていた。三毛は慣れたものだ。
「アマチュアだけど、昔からやってたの」
松子夫人は笑う。「昔」は船に乗る以前のことだ。
「見てもよろしいでしょうか」
繭子が嬉しそうに言うので、松子夫人は顔をこわばらせて小机のメモに向かった。
「いいわよ。ただし驚かないでね」
カリカリと紙と鉛筆のすれる音を聞きながら、繭子は彫像の間を歩いた。少年は三毛を抱き上げて、難しい顔で立ち止まっている。三毛は少年の固い抱きかたには嫌気がさしているものの、抱かれていること自体は嬉しい。ただ、この状況を複雑な思いで見ている。
メモがドアに挟まれると、向こう側へ吸い込まれた。ノックの音。
「紅茶でいいわね。あとドーナツ頼んじゃったわ。食べるでしょう」
「これ……」
松子夫人の気楽さを願う声が届かなかったらしく、繭子は彫像の群れの中で体をこわばらせている。松子夫人は廊下のワゴンから盆を運ぶ。
「隅のソファでどうぞ。工具は取っ払ってね。木屑やなんかはご免なさい」
「どうして同じ人ばかり作っているのですか」
繭子は脅えたように松子夫人を見た。松子夫人は微笑みながらポットの紅茶をカップに注いだ。
「男は夫。女の子は娘。もう一人の女は夫の愛人よ」
繭子が息を呑んだ。少年は何も理解できなくとも、居心地悪そうに彫像を眺めている。
「それが私のきっかけ。私は夫の愛人の嫌がらせでノイローゼになり、更に娘も険悪な家庭環境に耐えられず、部屋から出てこなくなったの。じわじわとノイローゼは酷くなったわ。強迫まがいのあの女の電話が毎日かかって来るし、世間体のために夫は離婚してくれないし。それなのに夫は私をいない人間のように扱う。娘が高校に行かなくなったのは、あの女が下校途中の娘に『私はあんたの新しいお母さんだよ』って言ったのが元だった。二十歳そこそこの女よ。娘といくつも変わらないの。娘は夫ではなく私を責めた。私が弱いと。私は娘を酷いと思った。私はただ泣いた。でも確かに娘は私の弱さの被害者だった。私がもっとしっかりしていたら娘だけは救えた」
松子夫人は一瞬黙った。目に涙が浮かんでいた。
「ある日、娘の部屋で何か変な音がしたの。うめき声と、何かが落ちる音。まさかと思って鍵のかかった扉を開けた。ドライバーを使ったの。私は器用だから初めから簡単にそう出来たのよね。なのにしなかった。娘をそっとして置こうという臆病な考えで」
松子夫人は無表情に笑う。
「娘は手首をカッターナイフで切って、ぐったりと倒れていた。血まみれのあの子の部屋を見て、私は狂ったように叫んだ。恐ろしかった。全てを拒絶した。娘の行為すら、私は拒絶した。――気付いたらこの白い船の舳にぼんやりと立って、大勢のお仲間に取り囲まれていた。あなたも中にいたわ」
繭子は悲しそうにうつむいた。仲間が増えるあの時、誰もが自分のかつての困惑を忘れてそれを見物に行く。
「私は毎日あの日々を繰り返しているの。過去を石や木に彫りつけるのよ」
松子夫人は一気に語った。傲慢に笑う若い女の彫像が松子夫人を見ていた。
「ありふれた理由よね。こんなに単純な理由の持ち主は他にいるかしら。私は素晴らしく弱くて、そのせいで今散々後悔している。あの時逃げ出したいと願わなかったらって。
娘はあの時生きているか死んでいるか分からなかった。気を確かに持っていたらそれを確認できたし、救急車を呼べたわ。ここでは私は永遠に後悔するの。だから船に呼ばれたことを喜ぶあなたのお姉さんを嫌っているのかもしれないわね」
松子夫人の語りは数分で済んだ。確かにありふれた理由だった。
だけど、と三毛は思う。理由は関係ない。ただ弱いことが問題の克服を困難にしたのだ。生き物の弱さはどうしようもない。殊に人間の弱さは。
三毛は棚に載った小さな胸像を振り返った。これがおそらく娘だろう。虚ろで、絶望を浮かべた、死の間際の少女の像。ニャア、と思わず呼び掛けた。皆が三毛を見た。
「あれは……」
繭子がかすれた声で尋ねた。松子夫人はさっぱりとした声で答えた。
「三毛は何度も見てるから分かるのね。娘よ。美枝っていうの。一番嫌な像よ。見ない方がいいわ」
松子夫人は長い溜め息をついた。そしてまた微笑む。
「もっと綺麗な像を見て頂戴。繭子さんの後ろよ」
繭子は部屋の中央に立つ、木彫りの微笑む少女の像を振り返った。
「美人ですわね」
繭子が笑う。
「お世辞をどうもありがとう。でも親の贔屓目ではそうよ。可愛らしい子でしょ」
と、松子夫人が突然黙った。松子夫人が語るのを穏やかに見つめていた繭子は、しげしげと自分が見つめ返されているのに気付いて戸惑った。
「あの……」
「分かったわ」
松子夫人がパン、と手を叩く。
「どうしてあなたたちの問題にこうも関わりたがっているのか。どうして私があなたの味方をするのか」
松子夫人がすがすがしく笑った。
「あなた、美枝に少し似ているわ」
「私が?」
「ええ」
松子夫人は繭子に優しく微笑みかけた。繭子は戸惑ったようにその清らかな像をじっと見た。木の滑らかな年輪や、アマチュア彫刻家らしい粗さを細かく見た。最後に、同じ大きさの顔を突き合わせた。
似ている、と三毛は思った。確かに、儚げな顔の線が、口許が、似ている。
「嬉しい」
繭子は唐突に言った。そして、彫像の首筋にそっと抱きついた。目を閉じ、微笑む。
「こんなに神々しい人と似ているだなんて、嬉しい」
辺りは静まり返った。少年と三毛は繭子を眺めて陶然としていた。少し経つと、嗚咽が聞こえてきた。松子夫人が泣いていた。
「ありがと」
松子夫人は泣き笑いした。
「ありがと」
繭子は天女のように微笑んだ。
作業場じみた松子夫人の部屋の茶色いソファに、三人と一匹は並んで座った。右から繭子、三毛、少年、松子夫人。三人は紅茶をすすり、少年はドーナツを大いに食べた。繭子は控え目につまんで食べた。ここでは花以外のものを食べることに遠慮はいらないのだ。
「全く」
「どうなさったの」
松子夫人の呟きに、繭子が真っ先に反応した。これほど楽しいと感じることは無かった。綺麗ではない場所で、姉以外の人間と、姉の縛りもなくいること。おまけに好きなものを食べられる。
「自分の部屋が鬼門だってこと忘れていたわ。こんな怨念渦巻く凄い部屋、人に見せられるものじゃないと分かりきっているのに。長年人を呼ぶことが無かったから忘れてたのね」
松子夫人ががっくりと頭を垂れる。
「まあ」
繭子が笑う。
「後悔なさっているの」
松子夫人は少し黙った。
「いえ。かえってすっきりしたわ。今とても気持ちがいいの。自分以外の人間に話した事で、肩の荷が少し降りたというのかしら」
「少し」
繭子が悲しそうに笑った。
「ええ少し。残りは自分で軽くしていかないと」
松子夫人は元気よくドーナツをかじった。
「他の住民と交流することが、こんなに素敵だとは思わなかった」
松子夫人は嬉しそうだ。三毛もそれを見て嬉しくなった。それを伝えるため、少年の膝に載って松子夫人の気を引こうとすると、いきなり少年に捕まった。
「遊ぼうぜ」
少年が異国語で叫んだ。一瞬嫌な思い出を振り返ってぞっとしたが、少年の顔は無邪気なものだった。少年は三毛を地面に放ち、気軽な鬼ごっこを始めた。
「何か気持悪いわね」
しばらく三毛たちの様子を見ていた松子夫人が眉をひそめる。
「どうかしました」
「あの子が急に私になついて、更に三毛と仲良くなっているのよ」
「前は違いましたの」
松子夫人は顔をしかめた。