子供…ロビー・4
「果物用の小さなナイフだったわ。だから殺せるか不安だったのですけれど…。私は城内さんの背中に、思いきりそれを刺しました」
繭子はニコニコと笑っている。狂ってしまっている。松子夫人はそう思った。
「城内さんは、繭子、とそううめきました。私は急に悲しくなりました。だから城内さんにお別れのキスをいたしました。そのまま、城内さんは倒れました。少しの間苦しそうに地面を転がっていましたが、やがて動かなくなりました」
繭子は黙った。表情が消えた。
「城内さんが死んだ」
繭子は呟いた。
「城内さんを殺した」
泣き顔になった。
「その時になってやっと気付いたのです。私は何をしていたのだろうと。
どうしてあんなちょっとしたことで殺してしまったのかしら。私、城内さんが本妻と沢山のお妾を持っていて、私が一番下の位のお妾でも構わないというくらい好きでしたのよ。何故かしら」
何故。それははっきりしている。
「でも、絹子さんが城内さんを殺しなさいと言ったら、本当に殺してしまうほど私は絹子さんを大事にしていたのよ。それなのに」
繭子はヒックとしゃくりあげた。
「部屋に戻って泣きながら城内さんのことを言うと、絹子さんは『あなた何てことしたのよ』と呆れたように言ったのよ」
繭子はテーブルの上の松子夫人のハンカチを手に取り、激しく泣いた。松子夫人は呆然とそれを見ていた。
「その時の絶望で、あなたは船に呼び寄せられたのね」
しばらくして、松子夫人は冷静に尋ねた。繭子は震えながら頷いた。
「でも絹子さんが船に来たわけは何かしら」
繭子が顔を上げた。驚いている。
「絹子さんは繭子さんと同時に船に来たのかしら」
繭子は懸命に思い出している。百年近くの昔を。
「……私は自分が船の舳先に立っていることに気付くと、周りには大勢の静かな人がいて、私を見ておりました。とても気味が悪いと思って怖がっていると、あの白いおじいさんが硝子戸の中からやって来て、あの子の時のように派手に歓迎されました。私は逃げるようにそこを走り去りました。わけが分からなくて」
「分かるわ。私の時もそうだった。私もおじいさんから逃げた」
松子夫人が過去をたぐるような表情でそう言った。
「あなたの話はそれ以外に気になるところがあるわね。続けて頂戴」
繭子は頷いた。
「……その時、そう、手に銀の鍵を持っていることに気付いて、それに導かれるようにして硝子戸を押し、砂糖菓子ホテルに入りました。中にも人がぎっしりいて、皆黙っていました。回廊にも鈴なりの人がいて、皆私を見ていました。とても怖かった。
私は銀の鍵に誘われるようにして、一階の自分の部屋に入りました。そこは赤い部屋で、私の好みの雰囲気でした。私はすっかり安心して、部屋の扉の鍵をかけ、寝室へと入り、赤いベッドに倒れこみ、そのまま眠ってしまいましたわ」
繭子は変な顔をした。自分で自分の記憶の不思議に気付いたのだ。
「お姉さんがいないわね。あなた一人だわ」
松子夫人が眉をひそめた。そう。繭子は一人で砂糖細工の船に来た。
「あなたの部屋にお花はあったかしら」
松子夫人が尋ねた。繭子は不思議な顔をする。
「いえ、覗こうと思ったわけではないのよ。あなたがたの部屋は外に面した窓があるし、開け放たれてるから中が見えるの。いつもお花で一杯ね。凄い香りがそこから漂ってくるわ」
繭子は考えた。頭に手を当てて、頭痛を起こしたかのようだ。
「……いえ、ございませんでした。第一花は姉の趣味で……」
「あなたは初めから花びらを食べていたかしら」
松子夫人の質問に、繭子はギクリとした。
「あなたたちいつも花しか食べないわね。私達は花しか食べられない、そう自分達で言っているわね。とても聞えよがしな感じだわ。……ねえ、あなた第一日目は何を食べたの」
繭子はまた泣きそうな顔になった。
「花しか食べられない人間なんていないのよ。この船が時の止まった船とは言え、その止まった時には一週間くらいのブレはあるのよ。現にこの子は一生懸命看病して回復しても、こんな風にすぐ元に戻り出すのよ。あなたの髪もそうよ」
松子夫人は繭子の肩までの髪を指した。
「短くしたのね。でも一週間したら元通りよ。ところで繭子さん」
松子夫人は繭子の脅えた顔を見つめて目を細めた。
「あなた、花ではないものも食べているでしょう」
繭子が泣き出した。
「一週間も少量の花で耐えられる人はいないもの。ねえそうでしょ」
松子夫人は冷たく微笑んだ。繭子は震えながら泣いている。松子夫人のハンカチをくしゃくしゃにして、繭子は顔を覆う。
「皆知っているのですか」
声が震える。
「当然だわ。簡単なことだもの。それなのに、なぜあなたたちはそこまでして花を食べる妖精のようにふるまうの」
繭子はまた黙ってハンカチで顔を隠した。松子夫人はまた詰問する。どうしてこんな調子の会話になったのか、松子夫人にも分からない。花については黙っている気でいたのに。
「あなたの部屋って不思議ね。お姉さんと一つ部屋なんでしょう」
繭子は頷く。
「半日か一日くらいでお姉さんは来たのね」
「……ええ」
「その時あなたは何か食べたかしら」
「鴨肉のソテーと牛乳を」
「やはり普通の食べ物ね」
松子夫人は溜め息をついた。
「でもお姉さんが来て変わったのね。部屋の内装が変わり、部屋は花で一杯になっていて」
「ええ」
「そしてお姉さんはあなたに花の精の真似を始めさせたのね」
繭子はもはや何も考えていないような顔になっている。
「お腹がすいて目が醒めて、夜食を取りました。鴨肉と牛乳。確かにそうでしたわ。眠って、お昼に目を覚ましてみると、そこには姉がいました。にっこり微笑んで、『会いたかったわ、繭子さん』と。私、あの時のことなんかすっかり忘れてしまって、大喜びで絹子さんに抱きつきました。だって一度も離れたことのない大切な姉ですもの」
「部屋の内装は……」
「私の寝室の他は青く変わっていました。花が沢山あって、香りがきつくて嫌でしたわ。私はがっかりしましたけれど、姉がいるなら満足でした」
繭子は微かに微笑む。あの懐かしい記憶を蘇らせているのだ。
「お姉さんはその後変わったことを言い出したでしょう」
松子夫人のゆっくりとした言い方に、繭子は目を虚ろにした。
「……ええ。『この立派な白い船を見たかしら、繭子さん。私達はやはり特別なのよ』と言いました。そして、私達が花しか食べられない特別な人種で、選ばれた者だからそうしなさいと、花を食べることしか許してくれなくなりました」
「あなたやっぱり委意諾々とそうしたのね」
「……ええ」
繭子はもはや心底情けなさそうにうつ向いた。
「初めの三日くらいはそうしていましたわ。でもお腹がすいて……。花は砂糖をまぶしても苦いし、おいしくありませんし。だから姉が部屋を出た隙に、適当な物を食べてしのいでいました」
「百年も」
松子夫人は呆れたように大きな息を吐いた。
「皆が知っていたのね。馬鹿馬鹿しいわ」
繭子はふてくされたように呟いた。
「お姉さんは聡明なのでしょう」
松子夫人が言うと、繭子は顔をぱっと輝かせた。
「そうなんですの。女学校でもいつも優等をもらっていましたのよ。語学などいつも一番で」
「なのに分からないものかしらね。花を食べる妖精などいないということが」
繭子の表情が曇った。
「子供の時のことですけど、家にあるおとぎ話の本にそういうものがありましたわ。お花の妖精の話。お花を食べて、白い綺麗な家で姉妹仲良く暮らすという内容の。姉はこれが大好きでした」
「それは……」
「姉は特別な人間として、ふさわしい場所で暮らしたかったのですわ。あのお話の中がそうでした。この船は姉の夢の一端を担っていますの。姉はこの船を好いています。姉が何かを好くのは珍しいことですわ」
繭子は姉に関する考えに没頭していた。
「お姉さんは、この船に呼ばれたことを、特別で素晴らしい『選び』だと感じて、そんなおとぎ話めいた妄想に身を委ねたのね」
松子夫人は溜め息をつく。一体何回目の溜め息だろう。繭子はぼんやりとそれを見る。
「お姉さんがこの船に来たわけが分かったわ」