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砂糖細工の船に乗って  作者: 酒田青
第二章 子供
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子供…ロビー・3

「……いえ」

「でもお姫さまのようよ。気高そうに振る舞うのはそのせいだと思って」

 繭子は黙りこんだ。松子夫人はじっと繭子を見つめた。

 本当に綺麗な女の子だ。人形のように白い肌がつるりとしていて、唇は立体的で。市松人形のようだ。それも、西洋人形の影響を受けた大きな目の人形。体つきも、私の世代でも滅多に無いほどすらりとしている。彼女の時代ではおそらく適齢期で、きっと引く手あまただっただろう。

「父は子爵さまが経営される会社に勤めておりました。重役でしたから確かに貧しくはありませんでした。けれど、華族さまのような特別な家庭でもありませんわ」

 繭子が唐突に語り出した。松子夫人は夢想からはっと目覚めて、繭子の声に聞き入った。

「姉と私はお女中の大勢いる屋敷で育ちました」

「まあ」

 想像はついていたが、自分にはいささか遠過ぎる物語に、松子夫人はめまいが起こりそうになった。同じ場所で数十年起居してきたこの娘は、本当に現実に存在するのだろうか。

 いや、そもそも華族制度の存在した時代の娘と、戦後を経た新しい時代に生きていた中年女が対峙している時点で現実ばなれしている。

 繭子はとつとつと語る。堰を切ったように、言葉はとめどなく溢れてきた。

「父は滅多に家に帰りませんし、母は私が小さい頃に亡くなって、継母が家を采配しておりました。嫌な家でございましたわ。継母は酷い人ではありませんけれど、私達は何故か馴染めず、いつも二人でおりました。私には姉が全てでした。姉も私だけを相手にしてくれました。姉は小さい時から、私達は特別なのだから、他の者など鼻にもかけなくて良い、私達は二人だけでいれば良い、と言っておりました。私はその通りにしました。姉はいつも聡明で堂々としていて、大人は全て、子供の姉を崇拝するようにしておりました。だからそれは正しいのだと私は考えたのですわ。姉の言う通りにすると、大人は姉に対する時のように私を扱うようになりました。やはり姉は正しいのだと思いました。そうしたら、何が気に入らないのか、母は私達を引き離そうとしたんです。外に出なさい、他のお友達と遊びなさいと言って。私達は母が大嫌いでした」

 繭子はいかにも悔しそうに口許を歪めた。松子夫人は釈然としなかった。

「あなたたちが特別って、お姉さまはどんな風に特別だと思っていたのかしら」

 松子夫人は尋ねると、繭子は少し眉をひそめた。

「どんな風に、ですか」

「そう、具体的に知りたいわ。何だかよく分からないから」

「……特別は特別です」

 繭子は目をそらした。松子夫人はますます不可解に感じる。

「あなた、まさかお姉さんの言う特別っていうのをそのまま疑いもせずに受け取って、そういう漠然とした自負の元に生きてきたの。その特別っていう精神は今も続いているのでしょう。さっきのあなたの様子からすれば」

 松子夫人の理路整然とした言い方に、繭子はたじろいでいた。

「ええ、今も姉はそう申しておりますわ」

「あなたはどういう風に思って生きてきたの」

 松子夫人が強く言う。繭子がたじろぐ。

「私は……」

 繭子はそれきり黙った。暫く沈黙は続いた。

「あなたの自我は全てお姉さんまかせだったのね」

「だって、姉が全てなんです。昔も今も」

 繭子が訴えるように言う。

「限度があるわよ。あなた、お家の居心地が悪かったと言うけれど、それはお姉さんの言う通りにして自分から馴染もうとしなかったからじゃなくて」

 松子夫人は繭子の目を覗き込む。

「そんなことは……。それに母は継母なのですよ」

 繭子が不安げにせわしいまばたきをする。

「継母だって人によっては馴染もうとすれば親しくなれるわ。お母さんはあなた方をいじめたの。あなたがたを引き離すのはそれほど酷いことだったの」

 繭子は黙りこんだ。何か後ろ暗い事に思い当たるようだった。しかし繭子はそれに関して口をつぐんだ。

「でも、姉と離れることは本当に辛かったのですわ。姉はあの通り自負があって他人を排斥するのですけれど、私は」

 言葉が途切れた。松子夫人が繭子をじっと見ると、繭子は恥ずかしそうに目をそらした。

「ひどく内気だったんです。今も昔も。今あなたと話しているのも、とても珍しいことなんです。あなたの言う通りですわ。私は単に自分が内気なだけなのに、それを姉と同じ理由だと思い込んでいただけですの」

 松子夫人はほっとしたように笑った。やっとこの娘の本当の姿が見えてきた。

「まあ。でもあなたとても騒がれたでしょう。素晴らしい美人だもの」

 今度は顔を赤らめずに答えた。

「ええ。沢山の人が、特に殿方が私に構いますの。大抵姉がさっと連れだして助けてくれるのですけど、一人のときは怖くて。学校は同じでしたけれど学年は違いましたから」

 自分の美しさや人気を完全に自覚しているらしい。松子夫人は面白そうに目をくるりと回した。

「あの……、どうかなさって」

 繭子が不安そうに尋ねると、松子夫人はにっこりと優雅に笑って「いいえ」と答えた。全く、ここまで堂々とされるとかえって気持いい。

「あなたおいくつ」

「数えで二十歳ですわ」

「じゃあ十九歳ね。お姉さんは」

「一つ違いですわ。西洋式に数えるなら二十歳ですわね」

 繭子は落ち着いたようすで答えた。話が無難な方向に向くのは心安いらしかった。

「いつこの船に来たの」

「……いつかしら。もう来てから百年はたっているかもしれません。大正十四年の七月でしたわ。雨降りの後でとても涼しくて、私は姉と共に銀座の百貨店にレエスの日傘を買いに行きましたの。素敵な純白の日傘で、柄が細く光っていて。でも一本しかなかったのです。そうしたら姉は二人で共有しましょうって言って」

「本当に仲が良いのね」

 松子夫人は段々話の行き先に不安を覚えだした。過去の出来事に囚われているかのように話す繭子の顔は、青ざめていた。それでも、小さな唇は生き物のように動いた。

「それから家に帰りました。その時手紙を見付けてしまいましたの」

 繭子の目がキョロキョロと動いた。松子夫人は話を止めるべきかと迷いだした。

 いつ船に来たのか。それは最も危険な質問の一つだった。船に来たとき、住人は必ず何かしらの決定的な打撃を受けているのだ。一番苦しい記憶を。

「もういいのよ、止めましょう」

 松子夫人がなだめるように言っても無駄だった。繭子は聞いていなかった。

「手紙は便箋からこぼれおちて、床に広がっていました。そこは私と絹子さんの二人の居室で、便箋は絹子さんのマホガニーの小机に乗っていましたの。私はそれを見ました。絹子さんが慌て出したので、私はいたずら心でさっとそれを床から取り上げました。そこにはこうありました。『今夜零時に待つ。城内』」

 今や繭子は激しく震えていた。松子夫人は恐怖に襲われた。

「城内さんは私の恋人で、絹子さんもそれを知っていたはずだわ。それなのにあの手紙は何なのかしら」

「繭子さん、繭子さん。もういいのよ。やめましょう」

 松子夫人が立ち上がって繭子の手を握る。繭子はそれを振り払う。

「私は絹子さんを問いつめました。絹子さんは『知らないわ』と言いました。

 そして、『悪い城内さんね。あなただけのはずなのに、私にも手を出そうとしているのね』と言いました。私はそれを信じました。だって絹子さんは私の全てにおける指標だったから。服も、髪型も、化粧も、全て絹子さんの真似をしてきたし、絹子さんの言う通りに何でもやってきたから。それはもう習慣なのだわ。絹子さんの言うことやること全て、私は疑うことをしないのよ。松子さんの言う通りだわ」 

 繭子の目は爬虫類のそれのように無感情だった。松子夫人は震えた。

「繭子さん」

「松子さん。その時の絹子さんがどう言ったかおわかりになりますか」

「いいえ。でも知らなくてもいいわ」

「絹子さんは城内さんの裏切りに絶望している私に、『殺さなきゃあね』と言いましたの。あの素敵な笑顔で」

 松子夫人は慄然とした。

「まさか」

「本当ですわよ」

 繭子はにっこりと、あの人形の笑顔を作った。松子夫人はその時の絹子の笑顔もこうだったのだろうと思った。

「それであなたはどうしたの」

 松子夫人は質問を止められない。これほど怖がっているというのに。

「殺しましたわ。当然よ」

 繭子はにっこりと笑った。

「城内さん……を殺したの」

 松子夫人は叫びそうになりながら尋ねた。口が勝手に動く。心は既に自分の部屋へと逃げ帰っているのに。

「ええ。手紙にあった『今夜零時』、絹子さんの代わりに私が行きましたの。場所は分かっていますわ。屋敷の裏手のうち捨てられた小さな庭。絹子さんは前にもそこに誘われて断ったのだと教えてくれましたの。案の定、彼はおりました。私はその背後から絹子さんの声や口調を真似て、『城内さん』と呼び掛けました」

 松子はじっと繭子を見つめた。


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