子供…ロビー・2
「いつの間にか仲良しか。面白いな」
小さく息を漏らした。
「荷が重いだと」
くくく、と髭を揺らして笑った。
「マツコは裏切り者だ」
初めは笑っているように見えた。だが、三毛はすぐにそれは違うのだと気付いた。
老人は静かに泣き出した。鼻をすすり、大きな固い掌で顔を覆った。肩が震え、時々かすれた大きな吐息が漏れる。
三毛は動揺した。老人は何が不愉快だったのだろうか。仮面がボロボロとはがれていくことに、三毛は脅えた。
老人の部屋の縦に細長いドアの前に着くと、老人は急に三毛を床に下ろした。
「三毛も私を見捨てるのだろう」
老人の目は涙で濡れ、充血していた。
「とっとと去れ。変わり行く者たちに私は用はない」
老人がサッと中に入った途端、ドアがバタンと閉じた。三毛は呆然とそこにたたずんでいた。
全く理解不能だった。老人の気持ちも、松子夫人と繭子の突然の交流も。
いろんなことが起きている。どれも興味深い。特に、松子夫人と繭子のことが。
三毛はロビーに降りることにした。
回廊の手摺の隙間から顔を出して下を見下ろした。思いがけず静かなので、誰もいないのかと思ったのだ。
だが、そうではなかった。松子夫人と繭子はさっきと同じ場所で少年を見守っていた。お互い少し気まずそうな様子だ。
「あら、三毛が来る」
松子夫人が、階段を落ちるようにして降りてくる三毛をめざとく見付けた。繭子も顔を上げた。
「あぶなっかしいですわね」
繭子がニコニコと笑いながらそう言った。何だか見覚えのある表情だ、と三毛は次の段に落ちながら思った。
三毛の階段落ちは見るものをいつもハラハラさせるらしく、こんなときそこにいる人物は必ず三毛から目を離せない。階段で三毛が抱かれることが多いのはそのためだろう。二人は立ち上がって三毛をじっと見た。
「私が三毛を連れて来ますわ」
「お止めなさい」
階段へと向かう繭子を、松子夫人が止めた。
「出来ることは何でもやらせてあげないと。三毛なら体は軟らかいし、死にはしませんよ」
楽観的な、余裕のある顔だった。松子夫人の小心や心配性はどこに行ったのだろうと三毛は思った。
「三毛を待ちながらお話ししましょう。この子は眠ってしまったし。何かお話しがあるんでしょう」
松子夫人の顔は母親の優しさに溢れていた。実際、松子夫人の年齢では、繭子のような娘がいるのが相当だった。繭子はたじろいだ。
「……あの、もう大丈夫ですわ。取り乱して、泣いて、本当にご迷惑おかけしました」
繭子は下を向いていた。
「いいじゃないの。話しなさいよ」
松子夫人は繭子の肩にそっと触れた。言葉が意図せずくだけたものへと変わった。本当に、松子夫人には懐かしい気分だったのだ。ただ、目には小さな恐れがあった。
「頼られることには慣れていないの。ただ、あんなに悲しそうな人を放っておけるわけないじゃない。私に話して」
繭子はあの人形のような笑顔を浮かべた。
「もういいんですの。申し訳ありません、あんな……」
「その作り笑いを止めなさい」
松子夫人が小さな努気を含んだ声で短く言った。
「あなたたち姉妹は、二人ともそんな顔をするのね。お姉さまと顔を合わせて向かい合ったことがあるけど、あの方はもっと酷いわ。話すべき時に無言で、ひたすらニコニコ私を見ているの」
松子夫人は溜め息をついた。絹子が少年を訪ねてきたときを思い出していた。空気がよどんだ。
「姉の悪口をおっしゃらないで」
今度は繭子が怒った。
「姉は、堂々とした人です。話すべきではないと思ったら、誰とも話さないんです」
頬が赤く染まった。松子夫人が困ったような顔をした。
「ご免なさい。でも、それって私があの方と話す価値のない人間だったってことかしら」
「そうです」
繭子は勢いよく言った。松子夫人が目を丸くする。
「まあ」
「姉は気高いんですわ。誰よりも堂々として、立派な方なんです」
繭子は震えていた。もはや人形の笑顔は消えていた。泣きそうに顔を歪めていた。
「ね、泣かないで」
「泣いてなどおりません」
繭子は激して言った。
「はい」
松子夫人が花柄のハンカチを差し出した。繭子は確かに泣いていた。涙の粒がすっと流れた。繭子はハンカチを受け取らなかった。唇を固く結んで、松子夫人から目をそらした。
「ご免なさいね。あなたがたはとても仲がいいのよね。そのことを考えていなかったわ」
松子夫人は繭子の前にハンカチを置いた。
「でも、あなたがさっき泣き出したのは、そのお姉さんのことでしょう。違うかしら」
松子夫人は繭子を下からじっと見上げるようにして見た。繭子は相変わらず横を向いていた。しかし次第に頬が震え、唇が震え、とうとうどっと目から涙を流し始めた。
そして、わっとテーブルに泣きふせた。
「やはりお姉さんなのね」
松子夫人は繭子の背中をなぜた。繭子はうなずくこともせず、ただ嗚咽を漏らして泣いた。
さっき、というのも老人たちが降りてくる前、松子夫人は一冊の本を抱えてロビーに降りた。
目覚めはよく、朝は涼しく明るかった。波も穏やかで、硝子戸を押して外に出ると、心地のいい風が松子夫人の体を撫でた。雲は薄く、日々不快な熱さをもたらす太陽も今だけは慎ましやかだった。全てが心地のよい輝きに満ちていた。
このままここで本を読むのも良いだろう。松子夫人は甲板の手摺にもたれ、船の舳先にある白いテーブルと椅子を見た。何なのかは分からないが、船の船体や、砂糖菓子ホテルの絨毯や壁紙に覆われていない剥き出しの部分と同じ素材の、キラキラ輝く椅子だった。恐らく砂糖だろう。
松子夫人はそこに座った。それから顔を上げると、白い船には目立つ緋色の着物の繭子が、松子夫人がホテルを出るときには見えない、ホテルの横の左舷側の手摺に寄りかかっているのを見付けたのだった。
松子夫人は何も思わず、本を開いた。しかし、耳には波以外の音が聞こえてきた。
繭子は泣いていたのだった。
気になりはした。だが、放っておこうと思った。今まで誰が泣こうと松子夫人はこうやって本を読み、レースを編んだ。これが当たり前だった。
構わない。皆がそうなのだ。あの人も私がお節介を焼くのを喜ばない。
だが、気付くと松子夫人は本を置いて立ち上がり、誰かに操られるように歩き出した。そして、広い甲板を横切り、繭子の側に立ち止まっていた。
私は何をしているんだろう。
松子夫人はそう思いながら繭子の肩に触れた。レースのハンカチで顔を覆って泣いていた繭子は、びくりと顔を上げ、驚いたように濡れた長い睫毛をしばたかせた。
何て綺麗な子なんだろう。
不思議な感動を味わいながら、松子夫人は囁いた。
「何が悲しいのですか。私に話してはくれませんか」
その時、松子夫人には母親の心が宿っていた。繭子が動揺か、安心か、再び顔を歪ませた。そして松子夫人に一歩近寄った。長い両手が伸びてくる。自然に、松子夫人は繭子を抱き締めていた。繭子はこの事態に驚いたように目を見張った。そしてすぐにボロボロと涙を溢した。
外よりは薄暗いロビーの方が良いだろうと、松子夫人は繭子を砂糖菓子ホテルの中へと連れていった。繭子が自分に頼っているのを見ると、沸き上がってくる思いに、松子夫人自身も泣きそうになった。
娘は、どうしているだろう。
「泣いていいのよ。ただ静かにね。あの子が起きちゃうわ」
松子夫人は自分の椅子と背向かいの長椅子を指差した。少年はすぐそばの騒ぎに少しも気付かずすやすやと眠っていた。
松子夫人の言葉を聞いた繭子の泣き声は一旦高くなり、急に静かになった。声を抑えようと努力したのだろう。
「全く、あなた達はとても変わっているわね。どの住人とも違うわ。自分が話すべき相手を選ぶだなんて、あなたたち華族のお姫さまなの」
松子夫人が気軽そうに微笑むと、小さくしゃくり上げながら繭子は答えた。