子供…ロビー・1
老人の足が止まった。
それと同時に、少年は前のめりに揺れて手摺によりかかった。老人はさっと手を伸ばして少年の肩を掴み、優しく自分の方へと引き寄せた。
三毛は老人の腕の中にいた。身動き一つ出来なかった。
老人は一言も話さなかった。こういうとき老人は饒舌になり、場の中央に収まりそうな印象がある。だが、彼はそうしなかった。
三毛たちがまんじりともしない夜を過ごした翌日、太陽はとても気持よく辺りを照らした。涼しい朝だった。
「天気がいいから外のテラスで過ごそう。一日中室内にいたらいつまでもよくならない」
老人は昨日と矛盾したことを言い出した。恐らく本心なのだろう。彼は「具合いの悪い子供を看病すること」が好きなのだ。それは三毛にとっては不潔な考えのように思えた。気味が悪かった。
昨夜三毛は、やけに静かにベッドに横たわる少年のそばで彼を見守っていた。老人は三毛を抱いたまま一度も離さずに、傍らの椅子にじっと座っていた。
三毛は恐れていた。少年も脅えていた。二人はこの時初めて仲間意識を抱いた。
老人が怖い。
彼は一晩中起きて、にっこりと笑い、優しく少年の看病をした。
一晩、誰一人として眠らなかった。三毛と少年は脅えのために。老人の理由は全く分からない。あれほどいつも眠っていた老人は、何かを見張るように、じっと少年を見ていた。
翌朝の老人は、三毛が驚くほど快活で、三人の朝食を済ませると、早速外に飛び出した。
少年の体は昨日よりも弱っていた。時間が経つごとに弱っていくようだった。まるで老人の言葉が呪いの呪文として振りかかったように思えて、三毛はぞっとした。
少年はふらつく細長い足を懸命に前に進めながら、老人に従った。そうせずにはいられなかった。悪態をつく勇気も体力も無かった。三毛は心配そうにその顔を見ていた。
そうして廊下を歩き、回廊に出たとき、彼女たちを見付けてしまったのだった。
繭子と、松子夫人。
驚くべき取り合わせだった。この数十年目を会わせたことすら無かった二人が、ロビ―の水玉模様の日溜まりの下で、同じテ―ブルにつき、顔を寄せあっているのだった。
松子夫人は、微笑んでいる。繭子は、松子の手にすがりついて泣いている。
老人は呆然としていた。
「マツコ!」
突然、少年が甲高く叫んだ。体全体を手摺に立て掛け、全身で叫んだ。
下にいる二人は驚いたように上を見上げた。繭子の顔は涙でひどく汚れ、今まで見たことが無いくらい酷い顔をしていた。
老人は一瞬無表情とも言える意味の読み取れない顔をした後、また優しく微笑んだ。
「体に悪い。叫ぶのは止めなさい。マツコの所に行きたいなら私がゆっくり付き従ってあげるから……」
そう言って肩を抱き寄せた途端、少年は今まで見せなかった強い力でそれを振り払った。そして老人をにらみつけた。白と黒の大きな目がギラギラと輝いた。
三毛は老人の体が震え出したことに気付いた。顔を見上げると、白い長い髭が細かく揺れ、老人の目つきは怪しくなっていた。
三毛はハアハアと吐き出される慌ただしい呼吸を聞いた。それは老人のものだった。
老人の仮面が矧がれる。三毛はそう思った。
自分の行動で、老人の態度が奇妙な変化を遂げたのを見た少年は、また脅えた表情に戻った。口を開け、眉尻を下げ、体はよろめいていた。
だが、すぐさま唇をぎゅっとつぐんだ。体を翻し、走った。
階段を勢いよく走る。長い階段は今の少年には辛いものであるはずなのに、少年は笛が鳴るような呼吸をしながら駆け降りた。
下から松子夫人の「走らないで!」という悲鳴が上がった。それでも少年は走った。
三毛はこの光景を見ながら、少年の気持ちが手に取るように分かった。
松子夫人に助けてほしい。
少年は足をがくがくと揺らしながら最後の段を降りた。走ると落ちるが同時に行われているような動きでグラリと体を落とし、白い絨毯の上に大きな音を立てて倒れこんだ。
松子夫人が悲鳴を上げた。駆け寄って、少年の側にしゃがむと、少年は松子夫人の足にむしゃぶりついた。
「あいつは嫌だ!」
一言、三毛にしか分からないことを叫んだ後、少年は動かなくなった。
下の騒動を眺めながら、老人は無表情に三毛を抱き締めていた。まるで三毛だけが頼りだというかのように、その手は動かなかった。震えはおさまっていた。
三毛はどうしていいのか分からなかった。
「おじいさん。何故この子を引き留めてくださらなかったんですか」
下から松子夫人が泣きそうな声でそう叫んだ。腕には褐色の少年が仰向けに抱かれていた。
「もうそろそろ、体の調子が船に来た頃に戻ると分かっていたじゃありませんか」
少年は気を失っていた。瞼の合わせ目で、黒く長い睫が少年の安らかな眠りを示していた。
繭子がおずおずと少年の顔を撫でた。今日は珍しく渋い緋色に白の縞模様の大人しい着物をきちんと着こなしていた。
「すまない」
老人は小さな声でそう言った。
「すまない」
老人はもはや表情を作ることすらしていなかった。三毛をぎゅっと抱いた。松子夫人は拳を握った。
「大丈夫ですわ。多分気絶しているだけ。呼吸の調子も綺麗ですもの」
涙声が緊迫した空気の中に響きわたった。
「気持よさそうに寝ていますわよ」
繭子は赤く腫れた瞼を松子夫人に向け、老人に向けた。綺麗な笑顔を浮かべていた。
辺りはしん、となった。
「良かったわ」
松子夫人が一番最初に沈黙を破った。小さな少年を、そっと抱き締めていた。
「ごめんなさい。おじいさんにはあんなにすばしっこい子供を捕まえるなんて無理ですわよね。私、気が動転して」
松子夫人は慌てたように弁解した。顔を赤らめていた。そういえば松子夫人が老人に声を荒げることなど初めてだ、と三毛は思った。
「いや、実際私が悪いんだ」
呟くように老人は答えたが、もはや誰もそれを聞いていなかった。松子夫人は繭子に手伝ってもらって、ロビーの長椅子へと少年を運んでいた。
三毛は労働する繭子を見るのは初めてだったので、目をみはった。繭子はかいがいしく少年の服の乱れを直し、レエスのハンカチで額の汗を拭いてあげていた。
老人はじっとそれを見下ろしていた。長椅子に少年を横たえた松子夫人と繭子は、手近な椅子についてふう、と息をついた。
繭子の涙は止まっていた。ただ瞼は桃色に腫れていて、繭子の場合、普通の場合とは違ってかえって美しく見えた。しかし妖艶さは消え、彼女は少女のような澄みきった美しさを纏っていた。
松子夫人がやっと顔を上げた。
「おじいさん、どうせ今日は私がこの子の世話をする番ですから、どうぞお部屋でお休みになって下さい」
それを聞くと、老人は一瞬黙った。三毛にしか気付かれない時間のずれ。
「ありがとう。確かに疲れたよ。昨日は寝ていないから」
老人は静かに答えた。
「まあ。この子、やはり体を崩しましたか」
「ええ、昨日の夜から」
「やっぱり」
「マツコ、もう私は寝に行くよ。体がふらふらするんだ」
確かにそうだった。老人の体はぐらついていた。
「まあ。早くそうなさってください。全く……。老人のあなたにこんな辛い仕事をさせるなんて良いことではありませんわね」
松子夫人は心の底からすまなく思っていた。だが、心は少年の方により強く向かっていた。
「いや……」
老人はふらふらと手摺を離れた。
「面倒を起こしてしまってすまない。後はまかせるよ。その子もあなたによくなついているから」
最後の台詞はいやに強調しているように聞こえた。
「ねえおじいさん。この子の今後のことを話しましょう。おじいさんには荷が重いわ」
松子夫人はそれに気付かずそう言った。老人は皮肉な笑顔を浮かべて素直に同意した。
「あなた次第だよ。何でもね。おやすみ」
「おやすみなさい、おじいさん。お体に気を付けて」
松子夫人は上の空の笑顔で答えた。回廊の床に隠れていく老人の白い背中を見守りながら、繭子はごきげんよう、と呟いた。
「三毛」
老人は三毛を離さなかった。
「彼女たち、私を仲間に入れようともしなかったよ」
喉の奥で笑う。白い壁が老人の歩みに合わせてぐらぐら揺れ、通りすぎていくように見える。老人の体は揺れている。