子供…四〇六六号室・1
三毛は白い廊下を駆け巡る。その足取りは幼い。
砂糖菓子ホテルは迷宮だ。迷路のような廊下は時に行く手を阻み、時に通りすぎる者を絡め捕ろうとするように不自然に曲がり、細まり、分岐する。
絹子が繭子を侮辱するその場所から出来るだけ離れたいと思っているのに、白い迷宮の中ではいくら走ってもその距離感が掴めない。
絹子は今も笑っているだろうか。繭子が眠るその横で、彼女の恋人と逢っているのだろうか。
――そもそも、恋人はどこに隠れているのか。
突如、広いロビーに出る。薄暗い無人のその場所は、ただただ不安をかきたてる。今夜は月も無い。天井の灯り取りは暗闇しかもたらさない。
――私は私が怖いわ。
絹子は震えていた。
どうしてだろう。どうして皆、三毛に何もかもぶつけようとするのだろう。
彼らの悲しみも、怒りも、鋏も狂気も欲しくない。三毛の小さな脳には収まりきらない。
でも、打ち明けたくなっているのだ。自己完結してきたその世界を。
――あの子はワクチンだよ。
脳腫瘍を名乗る女はそう言った。
少年は彼らの世界を揺さぶっている。スチュワートは崩壊した。絹子と繭子の関係は歪になった。
これがワクチンの効果だろうか?
少年は三毛を痛めつけて楽しんだ。
こんな彼が船に巣くうウイルスを滅することができるというのか?
それに、ウイルスがあるとすれば、それは何だろう?
謎だらけだ。三毛の頭の中でもうもうと埃が舞う。その奥に何か見えるかと目を凝らすが、何も見えない。光すら無い。
ロビーはますます暗くなる。三毛の頭の中の埃も、増えに増えてフェルトになる。もう何も分からない。三毛はイライラと前足を舐める。
吹き抜けのロビーの巨大な硝子戸は無意味に佇み、静かな波音はそこを通して三毛の耳に侵入する。
何もかも、壊れ始めている。
「三毛」
しわがれた陽気な声にギクリとして、振り向いた。
「一人ぼっちだね。珍しいじゃないか」
老人は三毛の前でしか使わない、誰にも通じない言語で話しかけてきた。三毛は気付いていなかったが、老人はロビーの向こうのテーブルについていた。
白いその姿はロビーに溶けこんでしまって、三毛は老人を見る度に彼が船の一部分であるかのように感じる。壁や床や船首から、松子夫人がノミで彫り出したものなのでは無いかと思うくらいに。
「寂しい夜だね。月が無い」
老人は三毛との遥かな距離も気にせずに、小さな柔らかい声で囁く。不思議とハッキリと聞こえる。
「あの子に会ったのか?」
老人は笑う。三毛はうなだれている。
「今夜は私があの子のそばにいる日だ。マツコと約束したんだ」
老人は音も立てずに椅子を引き、立ち上がった。白い靴がコツコツと鳴り、三毛に近付いてくる。
「あまり楽しみじゃないね」
声が沈んだ。
「怖い」
白い髭は老人が被っている仮面の一部なんじゃないだろうか。三毛は終に三毛の前に立ち止まった老人を見上げる。暗いところで見ると、彼の顔は作り物めいて見える。
深い皺も、小さな染みも、その笑顔も。
仮面を取れば、彼は若い男なのでは無いだろうか? 滑らかな肌と気弱そうな小さな口が姿を現すのでは無いか?
少なくとも彼の態度は三毛に会う度幼くなっていく。これもまた三毛にだけ打ち明けられるものの一つだ。
「三毛、今夜は一緒にいようか」
老人が三毛を抱き上げながら言った。三毛は驚いて老人を凝視した。
老人は三毛をやたらとそばに置きたがる淋しがりやの住人たちとは違うと思っていたのに。
「淋しいんじゃない。心細いんだ」
老人は抱いた三毛を見下ろす。その目は笑っていない。
「船が変わっていっている。とても怖いんだ」
老人は階段を上がり始めた。
「船はとても静かで平穏なところだったのに」
その言葉からは何の感情も読み取れない。老人の心臓は脈拍を変えない。
「何を間違ってしまったんだろう」
三階にたどり着いた。歩き方がゆっくりになる。
「三毛はその正解を持っているかい?」
老人と三毛の目が合う。皺に埋まった目は輝いている。三毛は改めて頭の中に詰まったフェルトを掻き分けようとする。フェルトはすでに強固に固まって、三毛の力では僅か十センチの裂け目も作れない。
三毛は途方に暮れた。老人もそう見えた。
「こんばんは……」
少年の部屋のドアは、松子夫人のぐったりとした声と共に開かれた。出てきた松子夫人の顔は、視覚すると同時に体がこわばるような様相を呈していた。
髪の毛が滅茶苦茶だった。化粧が崩れていた。頬と唇に長く盛り上がったみみず腫れが何本もあった。
「大丈夫か、マツコ」
老人も驚いたようだった。手を彼女の頬に当てようとしたが、松子夫人は笑ってそれを押し戻した。
「なかなか元気な子ですわ。本当に……。病気とは思えないくらい」
表情は驚く程明るい。
「本当に、大丈夫かね」
老人は落ち着き払った態度で松子夫人を労る。先程の弱々しい彼は姿を消した。仮面は顔にピタリと定着している。
「大丈夫。何だか、大分慣れて来たようですわ」
松子夫人は軽快に笑う。その後ろで、カチャカチャという音が鳴り響いている。
生まれ変わったようだ。三毛は松子夫人を見つめてぼんやり思う。ちょっとしたことがある度に泣きそうだった松子夫人が、傷だらけの顔でカラカラと笑っている。
「ところで、おじいさん」
松子夫人が急に真面目な顔になった。
「二日ですわ。彼がここに来て、二日経っています。今晩で三日目の夜を越すことになります」
「ああ、わかっている」
松子夫人の意味深な言葉に老人は深刻そうな表情で頷く。
「あの子が一番悪かったのが初めの日でした」
「そろそろだね」
三毛は部屋の中を覗こうと、老人の腕から体を乗り出す。二人は何について語っているのだろう。部屋からはせわしく何かがぶつかり合う音が絶え間無く漏れてくるだけだ。
「ねえ、マツコ」
「何ですか」
老人は微笑んでいる。これは本当の笑顔だろうか、作り笑いだろうか。
「今夜は私の部屋に彼を連れていきたいな」
老人は三毛を抱き直した。ピタリと張り付くその体からは、何の変化も感じられない。心音、体温、臭い。何一つ変わり無い。
「いいかもしれませんね。彼の部屋のソファーの小さいことったら。おじいさんが眠るにはあれじゃ無理ですわね」
松子夫人は後ろを振り返り、その後老人の長身を眺めた。
「じゃあ、彼を連れていこう」
老人は松子夫人に自分を部屋に入れるよう促した。
「すいません。早くそうすべきでしたわね」
松子夫人がサッと小さな入り口から体をどかした。老人がそこをくぐって中に潜り込む。
少年は食事中だった。スプーンをくわえたまま、ギロリと老人を睨む。
「マツコ!」
少年が松子夫人の方を向いて、不機嫌に何か訴えかけた。三毛は目を丸くした。
「驚いた。あなたの名前を覚えてくれたのか」
老人が感嘆したように呟く。
「何とか、私の存在を認めさせる程度のことは出来ました。色々あったんですけど」
松子夫人は少し誇らしげに笑って少年に近寄る。
「大丈夫よ。いつものおじいさんじゃないの」
松子夫人が少年の肩に触れると、急に不安げな上目使いになって、松子夫人を見た。
少年は突然顔色を変え、添えられた手を振りほどいた。
松子夫人は手を引っ込める。少年は眉根を寄せて、うつ向き加減に紅茶をすする。
「――まあ、この程度しか気を許してくれてはいないんですけど」