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砂糖細工の船に乗って  作者: 酒田青
第二章 子供
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子供…一〇二五号室・4

 先ほどまでの平穏が夢の中であったかのように三毛には思われた。

 身体中が痛い。少年はわざと鋏で三毛の足を切るふりをする。血は出ないが、固い鉄の固まりに強く挟まれる痛みが三毛を襲った。一際大きな声で悲鳴を上げた。

「止めなさい!」

 突然三毛から拷問の手が離れ、パン、という大きな音が聞こえた。涙目を開いてみると、少年が床に倒れていた。

 怒りの表情を浮かべた松子夫人が、震えながら右手を左手で押さえて少年の向こうに立っていた。

 少年は頬を手で押さえ、松子夫人を恐ろしい目で睨んでいた。松子夫人が少年を叩いたのだ。

「あなた、三毛を気に入ってたんじゃなかったの」

 松子夫人が三毛の方に歩いてきて、優しく抱き上げた。三毛は松子夫人にすりよった。

「まさか、これで遊んでるつもりだったの」

 松子夫人が唇を震わせながら少年を睨む。少年はじっとりとした目で松子夫人を見返す。

「あなたは誰かと遊ぶ方法というものをしらないの」

「何言ってんだよ、分かんねえよ。中国人」

 少年が吐き出すように異国語で呟いた。

「返せよ!」

 少年が松子夫人に踊りかかった。松子夫人は怯えて寝室を飛び出した。少年は鋏を構えていた。

 今度は松子夫人との鬼ごっこだ。素早い少年はあっという間に追い付き、松子夫人に何度も鋏を突き立てようとした。鋏は刺さらなかったが、危うく何度もかすった。悲鳴を上げながら松子夫人は走った。

「返せ!」

 少年が松子夫人の前に回りこんで三毛に手を伸ばした。とっさに、松子夫人は少年を突き飛ばしてしまった。少年がゴロンと絨毯の上に倒れる。松子夫人は自分で自分のしたことに驚いて立ち止まった。転んだ少年が怒りに顔を歪める。

「畜生! ババア!」

 松子夫人が泣きそうになりながら、彼の憎悪に満ちた目を盗み見た。

「逃げちゃいけないのよ」

 松子夫人は小さな声で呟いた。そして、急いでドアに取り付き、開いたドアから三毛を放り出した。

「外にいなさい!」

 松子夫人が叫び、三毛の前でドアは閉じた。

 中から少年の呪いの言葉が聞こえる。ドタバタという慌ただしい音が聞こえる。

 三毛は松子夫人が心配でドアをガリガリと削って何度も鳴いた。中の音は次第にせわしいものとなり、突然止まった。少年のわめき声が聞こえる。

「ここに入ってなさい!」

 松子夫人のくぐもった声が聞こえ、バタンとドアが閉じる音がした。部屋は急に静かになった。

 三毛は落ち着きなくうろうろしていたが、松子夫人の激しい息遣いが次第に落ち着いてくるのを聞くと、安心した。

 ニャアと鳴くと、足音が近付いてきてドアが開いた。

「三毛、危ないから外に出てなさい。あの子が落ち着くまで帰っちゃ駄目よ」

 ボサボサの髪の毛を振り乱し、松子夫人は顔を半分だけ出して三毛に言った。ドアは再び閉じた。

 しばらく呆然としていた。だが、三毛は仕方なく、少年の部屋を後にした。

 

 少年の内部が全く掴めない。三毛を幸せにした朝の笑顔と、三毛を痛めつけて喜ぶ嗜虐的な性格。彼は一体何を考え、感じているのだろう。

 彼を暴力にかきたてるのは病気の苦しみのせいだろうか。それとも他に原因があるのだろうか。

 三毛はひたすら悲しかった。身体中がちくちく痛んだし、不安が心を圧迫していた。

 

「三毛、ピアノを弾くから聴いてなさい。椅子に爪を立てては駄目よ」

 三毛は絹子と共に音楽室に来ていた。音楽室は一階の奥にある。真っ黒で巨大なグランドピアノが真っ白な床に映えていた。横にはピアノより一回り小さく、細かい絵細工が施された飴色のチェンバロが置いてあった。奥には大きな打楽器がずらりと並んでいる。

 周りには棚やテーブルがあり、小さなものから大きなものまでたくさんの楽器がケースに入れられて眠っていた。

 そう、眠っていた。音楽室の空気は淀み、入った瞬間に違和感を覚えた。三毛は、嫌だ、と思った。

 小さな音が鳴った。そう思った途端、奇妙な旋律が流れた。絹子が体を揺らしてピアノを弾いていた。

 音は不気味で三毛は不安になった。突然ゆっくりと優しい音を奏でたかと思うと、大きな不協和音がなって音楽は元の不安なリズムに戻る。それが何度も繰り返される。絹子は、少し微笑みながら目を閉じていた。長い黒髪が揺れる。

 三毛はこの曲を聞きながら鋏のことを思い出していた。

 繭子が自分の長い髪を断ち切った鋏。繭子は何のために髪を切ってしまったのだろう。

 あの、赤く照らされた力無い表情。

 少年が楽しそうに三毛を痛めつけるのに使った鋏。思い出すだけで体がまた痛み出す。松子夫人は大丈夫だろうか。

 それから、あの時の鋏。血にまみれて光って、悲鳴と、冷たい空気と、嫌な臭いが――。

 曲は、最大の不協和音の連続で終了した。

 フォルテシモの一音ごとに、三毛の不安は増した。悲しい、苦しい、嫌な思い出や心配ごとばかり。三毛は大きな和音が鳴る度に体を震わせ、小さく縮こまった。

 絹子はピアノに体を沈み込ませるようにして最後の一音を弾き終えた。

「三毛。この曲、私たちが作曲したのよ」

 絹子が隣の椅子にうずくまる三毛を見下ろし、唇の端を上げた。いつもと違う、この表情の薄さが不安だ。

「私と城内さんが一緒に作ったの」

 三毛は絹子が一番右端の高音の鍵盤を何度も叩くのを見ていた。この音も、嫌だ。

 絹子が、ゆっくりと口の端を上げた。ゆっくり、ゆっくり。いつもの高さを越え、その口の形は綺麗とは言えないものになっていく。

 三毛は目を見開いた。唇は開き、犬歯が見えてくる。絹子の口が大きく開いている。目を見ると、その目もまた飛び出さんばかりに開かれていた。

 絹子が笑っている。妖艶でも美しくもない、歪んだ笑みを浮かべている。

 三毛は怖かった。絹子は変だ。計り知れないというだけではない。おかしい。

「繭子さん、気付いてないのよね。城内さんが死んだなんて嘘なのに」

 声を漏らして笑う。

「今もこの船で、私と会っているのに」

 人指し指で、同じ鍵盤を何度も、何度も叩く。

「結婚しようだなんて。私を置いて。そんなこと……」

 絹子はケラケラと笑い出した。

「馬鹿ね。あの子、本当に馬鹿だわ」

 三毛は椅子を駆け降りた。怖い。早く逃げたい。

 しかし、音楽室の壁に張り付く荘厳な、白い二つのドアはきっちりと閉じられていた。すがりついて、爪でガリガリ音を立てる。

「内緒よ、内緒……」

 背後で絹子の歌うような声が聞こえた。

 また、あの曲が鳴り始めた。三毛は絶望的な気分になった。

 ピアノを弾く絹子の背中や腕は、激しく波打つ海面のようだ。細かく力強く動く細い指は、鍵盤と一体化したかのように密着し、遊んでいる。

 チェンバロが泣いている。三毛はそんな気がした。

 ピアノの横に寄り添う小柄で華奢なチェンバロは、歌うピアノの側で見捨てられたように蹲っていた。

 共演することのない雑然とした楽器たちの中で、ピアノとチェンバロだけは寄り添っているのに、チェンバロはピアノに置いてきぼりにされていた。

 ――繭子。繭子が哀れだった。三毛は、椅子に寄りかかる繭子の姿を思い出した。

 何も知らない繭子。絹子は知っているのに。

 

 結局チェンバロは絹子に弾かれることは無かった。

「チェンバロは好きよ。でも音が頼りなくて弱々しいの。ピアノと違って激しい表現に向かないのよね」

 絹子は三毛を抱きながらチェンバロを振り返った。

「物足りないの」

 細い白い腕がドアを押し開ける。

「繭子さんはチェンバロの方が好きらしいけれど」

 先ほどまでと打って変わって、表情の消えた顔で三毛を見下ろす。

「繭子さんは少しずつ私と食い違っているの。少しずつね」

 絹子の顔の陰影が三毛の目に焼き付いて離れなかった。陰が多い。光が見えない。

 二人は薄暗い音楽室を出た。

「三毛にひたすら喋りかけている人たちを見ていると、馬鹿みたいに思えたわ。たかが猫に、ぺちゃくちゃ話しかけるなんて」

 絹子は白い曲がりくねった廊下を、慣れた調子でゆったりと歩いた。靴音は絨毯に半分が吸収され、半分が響きわたる。

「でも案外悪くないのね。私は繭子さんと一緒にいるから、一人の時の時間の潰し方を知らなかったのよ」

 三毛はぐったりとした目で絹子を見上げる。絹子も三毛を見る。


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