子供…一〇二五号室・3
大変だったのは朝だった。
三毛は猫としての活動を一通り終え、松子夫人が寄りかかるソファの隅で眠りこけていた。窓のないこの部屋には朝日が差さないし、陸から離れた船の上では小鳥のさえずりも聞こえない。それでも十分心地よくて、緩やかな空気の流れを感じられる朝だった。
三毛は夢心地で絨毯を踏むくぐもったような足音を聞いた。足音は三毛の近くで止まった。
いきなり掴み上げられた。その乱暴な触り方に痛みを覚えて、三毛は目を覚ました。目の前に表情のない大きな目を自分に向ける少年を見た。目つきが怪しかった。とっさに身の危険を感じ、手足をばたつかせた。少年はそれをじっと見つめている。
三毛が身をよじっていると、少年は急に床に仰向けに寝転んで、手に握り締めた三毛を高く掲げて眺めた。三毛は不自然な姿勢で少年を見下ろした。柔らかい光を宿した瞳。
動物を抱いたことがないのだろうか。ひどく乱暴で、容赦のない持ち方だ。
しかし、三毛は少年が自分に興味を示し、怒り以外の目で見てくれていることに小さな感動を覚えた。少年は歯も目も白く、半開きになった口は透明に輝いていた。
少年は三毛を自分の胸の上に下ろした。三毛は緊張しながらそこに立ち、小人に捕えられたガリバーのような姿勢で三毛を見つめる少年の上で固まっていた。
ようやく三毛はそっと歩いて、少年の顔に近付いてみた。少年の褐色の肌と三毛の癖のない柔らかい毛が擦れあった。
鎖骨に前足を並べ、片足ずつ少年の顎に乗せる。三毛は少年を見下ろす。二人の視線がかちりと合った。
一瞬、少年が少し笑った。三毛は嬉しくなった。
三毛は鳴いてみた。小さな声で、ささやくように。
すると少年は腕を上げ、船の中で三毛に触れてきた手の中でも一番小さな掌で三毛を撫でた。頭を撫でられる三毛が目を閉じると、小さく声を漏らして笑った。
三毛は何故か、涙が出そうになるくらい嬉しくなった。
不意に、少年の視線がどこかに滑った。三毛が視線を辿ると、その先ではソファにきちんと座り直した松子夫人が、驚きの混じった微笑みを浮かべていた。少年は視線をそらした。
「具合がいいのね」
松子夫人がささやいた。
「気持悪いの、治った?」
少年はすねたような表情で三毛を見て、背中を撫でた。
「言葉が分からないというのは不愉快かしら」
少年は眉根を寄せて、険しい顔を作った。松子夫人は黙りこんだ。少年は外国語を聞くのが嫌らしい。
三毛は不機嫌に口を尖らせる少年の気分を元に戻そうと、その厚い、硬い唇に口許を寄せて、舐めてみた。途端に少年は破顔し、かすれた声で笑った。松子夫人もほっとしたように微笑んだ。
松子夫人は優しい笑顔を浮かべながらテーブルの上のメモ帳と鉛筆に手を伸ばした。それからしばらく考え込んで何かを書きつけ、それを部屋のドアの方へと持っていった。
朝食だ。三毛は舌を出して口周りを舐めた。少年は不思議そうに三毛と松子夫人を見つめる。
松子夫人がメモをドアの下に滑り込ませると、すぐに向こう側に抜き取られた。ほどなくして、ノックの音が聞こえる。松子夫人がドアを開いたが誰もいない。銀の蓋を被せたワゴンが一つあるきりだ。
三毛は空腹を我慢できずに少年の上で落ち着きなく足踏みした。少年は驚いた目で、松子夫人が閉じたドアと、運ばれてくるワゴンを見つめた。
この食事の習慣は三毛たちにとっては慣れたものだが、少年には驚異と不可解を抱かしめたようだ。不安に満ちた目でドアを見ている。
コトン、という硬質な音が鳴り、少年は急に脅えたように起き上がった。三毛が転がり落ちた。
松子夫人が湯気の立った朝食をテーブルに並べていた。いんげんのスープ、強い焼きたての香りを放つパン、金色に透き通る紅茶。床には二つの深皿が並べられた。松子夫人が作った、木製の三毛の皿だ。ちゃんと黒い漆も塗ってある。
三毛は姿勢を立て直して皿へと走り寄った。松子夫人がワゴンの皿とカップを手にして、一つに鮪のフレークと鶏肉のささみを入れ、暖かい山羊乳をもう一つに入れる。三毛は入れられる先からかぶりついた。
幸せな時だ。三毛は、久々の穏やかな朝食に幸福感を抱きながら山羊乳を舐めた。
だが、少年の気分はそうは行かなかったようだ。
いつの間にか立ち上がった彼は、早足でドアに向かった。ノブを荒々しく回し、ドアを開け、廊下を見渡して、小さな怒りの声を上げた。松子夫人がビクッと彼を見た。三毛も、口許を白く濡らした顔を少年に向けた。
松子夫人が少年に駆け寄り、肩に触れた。少年はすぐにその手を払って、不機嫌そうに戻ってきた。歩きながら、ささみをゆっくりと噛みしめる三毛をじっと見つめる。三毛はドキドキと心臓を鳴らした。
また、騒動が起きるのではないだろうか。
しかし、その場は無事に収まった。松子夫人に背中を押され、出来立ての朝食を食べるよう促されると、少年は意外にもおとなしくソファに座った。それからすぐパンを手に取り、あっという間に一つ平らげてしまった。腹が減っていたのだ。
思えば彼は船についた時から腹にたまらない病人食しか口にしていなかった。そうでなくとも、少年が船にやって来る以前の暮らしは決して腹を満たしてくれるようなものでは無かっただろう。
少年は痩せ細っていた。パンを慌ててかじり、スープをスプーン無しで勢いよく飲み干すその姿は哀れを催した。
三毛は食べるのを止め、彼をじっと見つめた。少年は、松子夫人の分にまで手を伸ばしている。松子夫人は三毛と同じく哀しそうな目で、少年がカチャカチャと忙しい音を立ててスープを飲むのを見ていた。
彼が最後のパンにも手をつけたのを見ると、松子夫人はまたメモを取りだし、走書きをしてドアに向かった。
しかし結局、少年は食べたものを全部吐いてしまった。収縮しきった彼の胃袋は、三人分もの食事を受け付けなかったのだ。
九個目のパンを掴んだ瞬間、少年は苦しげに胸を押さえた。松子夫人が急いで少年をバスルームに連れていくと、三毛の耳にはうめき声と、液体が固体にぶつかる不快な音が届いた。しばらくして、少年は松子夫人に付き従われ、青ざめて戻ってきた。
「お昼になったら、ちゃんと食べられるわよ」
松子夫人は、空の皿が並ぶテーブルをぼんやりと眺める少年を慰めた。通じはしないが、少年は松子夫人を意味ありげにじっと見上げて、ソファにぐったりと崩れ落ちた。
そのまま、午前は過ぎてしまった。
三毛は何と無く自分の食べ物を食べられなくなってしまい、皿には山羊乳とささみが少し残っていた。テーブルの上には何もなくなっていた。三毛はソファに横たわる少年の足にくっついて横たわっていた。
だが、昼食はスムーズに済んだ。少年はサンドイッチと紅茶を、慎重すぎるほど慎重に、一人分だけ食べた。松子夫人もそれを見て、満足そうに久々のまともな食事を取った。少年を気遣って朝食を食べないようにしていたのだ。
紅茶を飲み干した少年は、三毛をまた自分の胸に載せてソファに寝転んだ。松子夫人は本を取り出して読み始めた。穏やかな食後の一時だった。誰も彼も満足しきって、何一つ警戒していなかった。
しかし、少年は食べたことによって、ゆっくりと回復し始めていたようだ。このあと、また新しい騒ぎを引き起こしたのだから。
しばらく休んだ少年は、むくりと起き上がって三毛を床に落とした。三毛は起き上がって、キョトンと少年を見た。
少年は楽しそうに笑っていた。三毛も何と無く嬉しくなって、軽快な声で彼に呼び掛けた。
途端に、少年の笑顔はスッと消えた。そして驚く三毛に向かって、飢えた獣のような声で威嚇した。三毛はびくりと後ずさった。
それを見た少年は、にやりと笑って、最大音量で吠えた。三毛は慌ててその場から逃げた。
何のつもりだろう?立ち止まって振り返ると、少年は悪魔のような笑顔で三毛を追い掛けてきていた。
ぞっと背筋が寒くなった。
三毛は足を早めた。少年はゲラゲラと笑いながら三毛を追い立てる。右へ、左へ。三毛は全速力で逃げ惑う。少年の手が三毛の尻尾をかする。三毛は、部屋の隅へ隅へと追い立てられていく。三毛は恐怖に駆られている。少年は笑っている。
松子夫人は呆然とそれを見ていた。これは鬼ごっこなのだろうか。三毛を助けるべきなのか、少年に楽しませてやるべきなのか。
三毛はドアの開いたままの寝室に駆け込んだ。少年も中に入った。何故かドアは閉じられた。
しばらくして、三毛は鋭い悲鳴を上げた。
行き止まりに追い詰められた三毛はあっと言う間に少年に捕えられた。少年は三毛を掴んだまま辺りを見渡すと、部屋に置きっぱなしになっていた松子夫人の裁ち鋏を裁縫箱から取り出した。くくく、と声を出して光る鋏を見つめる。その目は三毛へと滑った。三毛は脅えた。
殺される。
大声で叫んだ。怖い。助けて。
三毛は暴れた。少年は鋏の鋭い先端で何度もつついてきた。少年はにやにやと笑い、三毛が嫌がってニャアニャア鳴くのを見て喜んでいた。
この子供はおかしい。狂っている。