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砂糖細工の船に乗って  作者: 酒田青
第二章 子供
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子供…一〇二五号室・2

 不意に、絹子が身を翻した。

「どこに行くの」

 繭子が尋ねるが、返事はない。

 絹子は、青いドレスを揺らしながら、部屋を出ていった。一言も話さずに。

 繭子と三毛はその場に残された。繭子は唇を噛んだ。

 絹子がいなくなってしばらくしてから、ようやく繭子が動きだした。繭子は三毛に気付いていないようだった。椅子にふらふらと倒れ込み、靴のままクッションに乗って体を丸めた。まるで子供のような姿だった。

 辺りはまだ、真っ赤なままだった。繭子はその色に完全に溶けこんでいた。赤い日差しを目に受けて、眩しそうに何度も瞬きをした。

 手に持った鋏をその光にかざして、ふっと力を抜いた。旧式の鋏は横向きのまま勢いよく床に落ち、派手な音を立てた。繭子はそれを聞いた後、しばらくぼんやりと背もたれに寄りかかっていた。それからゆっくりと目を閉じた。

 不思議とこの風景と、疲れ果てたような繭子の丸い姿勢とは調和していた。三毛は見とれた。だけど、何か悲しかった。

 三毛は一声鳴いてみた。繭子はぴくりとも動かない。

 三毛は必要とされていない。三毛はひとしきり繭子を眺めると、窓枠の前の椅子を足場にして、静かに入ってきた所から出て行った。

 

 一体、何があの二人の間に起こったのかはよく分からない。二人が花のことでイライラと言い争うのを見たことがあるが、今見たことほどに深刻では無かった。

 何かが起こったのだ。姉妹の中で。

 ――過去?

 三毛はスチュワートを思い出した。姉妹も過去に捕われ始めているのだろうか。

 それならば、何故今になって?

 三毛が赤く染まる白い甲板に飛び出すと、太陽が揺らめく海の中へ静かに沈んでいくのが見えた。三毛は形もおぼろになった太陽を見た。瞳を細くして、無限に繰り返されるある一日の終りを見つめた。

 綺麗だと思った。

 甲板の遠い手摺に黒い影のような人物がいるのが見えた。確かめなくても分かる。あの細く小柄なシルエットは、絹子だ。

 絹子は手摺から身を乗り出すようにして下を覗き込んでいた。下にあるものがあるとすれば海だ。それ以外に何があるというのだ。

 海ならばわざわざ見下ろさなくても、窓から、ドアから、この甲板から見渡せる。ならば、絹子が覗いているのは海ではない。他の何かだ。

 三毛は子猫の単純さで絹子の元に駆け寄った。何を見ているのかが気になった。

 随分遠いところにいるが、柔らかい足取りで急いで走ると、すぐに絹子の足元についた。三毛は絹子のハイヒールに寄りかかった。絹子の足がぴくりと動くのが分かる。三毛の毛が絹子の足に擦りつけられて、さかさになでつけられるのが分かる。

 小さい三毛は手摺の間から簡単に体を抜け出すことができた。あぶなっかしい足つきで下を覗く。

 下は真っ暗だった。それはそうだ。もう太陽は弱まっている。おまけに、船に光が差すのは姉妹の部屋がある右舷側だから、こちらの左舷側の海には船の濃い陰が出来る。

 目を凝らしても何も見えない。海の音が遠く聞こえる。遥か下に波のようなものが見える。

 三毛の体が突然浮いた。驚きながら宙を移動すると、目の前に絹子の無表情な顔があった。美しいが、何かが足りないように思わせる。

「三毛は」

 絹子は三毛を高く掲げてから低い声で話し始めた。

「あの子のお知りあいかしら。あの子供に会ってみたいんだけれど、あなたを仲介に、あの子の部屋を訪ねても良いものかしら」

 三毛はぽかんとした。先ほどまでの騒動は忘れたかのように、絹子はまた別のことを考えていたらしい。

「あの子は子猫が好きかしら。あなたと一緒に行けば、私のことを気に入ってくれるかもしれないわね」

 絹子は僅かに口の端を上げた。笑ったらしいが、さっきから絹子の表情に変化がないのが三毛は気になった。

 どうやら三毛をだしに少年に近付こうと思っているらしいが、その考えは甘い。

 今まで三毛は何度も彼と接触してきたが、良い待遇を受けたことは一度もなかった。

 止めた方がいいと三毛は思うのだが、絹子はそんな三毛の意思に気付きもしない。

 そんな事情もともあれ、別の問題がここにはあることを、三毛は伝えられない。

「夕暮れね」

 絹子は太陽をちらっと見ると、何の前触れもなく歩き出した。

 三毛は絹子の胸元に押し付けられて何も見ることが出来なくなった。冷えて少し湿った絹子の肌は心地いい。三毛は、カツカツ鳴るハイヒールや、海や空気の立てる音を聞いた。

 キイ、という古びた金具の悲鳴がした。絹子は硝子戸を開けて砂糖菓子ホテルに入って行った。

 

 絹子は少年の部屋をノックした。

「小さなドアね」

 丸みをおびた白いドアは、カーブした壁に秘密基地の入り口のように張り付いている。

 中から足音が聞こえる。

「はい、どなた?」

 ドアが半分開いた。低い枠に頭をぶつけそうになりながら顔を出したのは、松子夫人だ。松子夫人は絹子を見て目を丸くした。

「あら、あなたは」

 絹子は微笑んだ。松子夫人は困ったように笑った。

「何のご用……」

 言葉の途中で、あ、と悲鳴に近い声を上げた。中で何かが割れたようだ。松子夫人はまた同じ笑顔で、

「何かご用でしょうか」

 と尋ねた。絹子はただにっこりと笑っている。人形のように。

 室内をさっと振り返った松子夫人は慌てながら、

「あの、今とても大変で、あの子に会いたいのなら今はあんまり適切ではないと思いますわ」

 絹子はそれを聞いても動かない。微笑みを絶やさない。そういえばさっきから一言も喋っていないようだ。

「三毛もさっきまでここにいたのですけど、危ないから外に出したんです。ですから」

 松子夫人はハッとしたように後ろを振り向いた。

「また今度いらしてください。今日はあの子に会いにいらしたんでしょう?」

 松子夫人は取り繕った笑顔で絹子を見た。絹子は人形になってしまったかのように動かないし、話さない。

「あの……」

 松子夫人は眉をひそめて絹子に声をかけた。絹子だけが魔法にかけられてしまったかのようだ。ぴくりとも動かない。腕の中の三毛はもぞもぞ落ち着きなく手足を動かし、絹子と松子夫人の顔を交互に動かしている。

 突然、バシャン、と水の弾ける大きな音が聞こえた。松子夫人は素早く中にひっこんで、何か小声で話をしていたが、すぐに戻ってきた。

「そういうことですから、どうか……」

 松子夫人は微笑むと、絹子の瞬きと共に上下する扇のような睫毛を見つめ、ドアを静かに閉じた。すぐに慌ただしい足音が聞こえた。

「あの人、いつもいるのかしら」

 ドアが閉じた途端、急に石にされる魔法が解けたかのように絹子は滑らかに身じろぎをし、首をかしげ、不満そうに口をつきだした。

「あの人に用はないのに」

 絹子は仕方ないわ、と呟き、白い廊下を歩き出した。

「ねえ三毛」

 絹子が三毛を見下ろした。三毛は少し緊張して絹子を見上げた。絹子は何を考えているのだかさっぱりわからない。

「あなたと一緒に植物園に行くのも悪くないと思うのよ。どうかしら?」

 絹子はほとんど感情のこもらない顔で言った。三毛は渋った。あそこは絹子にまつわる嫌な思い出がある。あまり気が進まない。

 絹子は三毛を見て、また口を開いた。

「ああ、音楽室がいいわ。ピアノを弾きましょう」

 急に提案を翻したのは三毛の気持ちが分かったわけでは無いだろう。

「そう、それがいいわ。私がピアノを弾いて、チェンバロを弾いて、三毛はそれを聞いていればいいわ」

 絹子は目的を持った者の確かな足取りで、回廊に向かって真っ直ぐ歩いた。

 松子夫人が慌てていたのには訳がある。例によって少年が意味のない怒りにかられて暴力を振るい出したのだ。松子夫人は今、その収集に取り掛かっているのだ。

 昨日から覚悟はしていた。少年は松子夫人をまた拒否するだろうし、乱暴に振る舞うだろうと。

 だが、覚悟があれども物事は簡単には進まない。

 

 昨夜は三毛と共に松子夫人が少年を見張っていた。少年はすやすやと、今までに無いほど安らかに眠っていた。顔色もいい。

 船に現れたのが一昨日の朝。血を吐いたのはそれからすぐと、その夜。安静と食事とが効いたのか、少年は少しずつ回復していた。

 これなら大丈夫だろうと、松子夫人は少年の寝室の座り心地の良くない椅子を離れ、三毛を付き従えて広間のソファーに座った。

 革張りのソファは冷たく、気持ちがよかった。松子夫人はうとうとと眠り込んだ。三毛は起きて、かけずりまわっていた。


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