子供…一〇二五号室・1
船は茜色に染まっていた。
白い船は容易に空の色と同調する。しかしその存在自体は、空とも海とも混ざりあう事はない。
儚いようでいて強固な存在感を持つ砂糖細工の船は、ふらふらと、音もなく海の上を漂う。少しずつ少しずつ、船は東に向かう。夏の気候は変わらないが、少し乾いた風が船の周りの空気に紛れ込むようになってきた。
陸に着いた日からたった二日で起こり始めているこの風の僅かな変化に、当然船の住人は気付きもしない。それに、彼らは船がどこに向かうのかなどということに興味を示さない。
三毛は戸惑いながら、夕暮れが作り出す目の前の真っ赤な風景に見いっていた。
「繭子さん、三毛が来たわよ」
赤い色に染まりきらない、青ざめた絹子が紺の簡易なドレスの裾をつまんでひび割れた鏡を眺めた。何人もの絹子を映していた大きな、派手な木彫の枠にはまったこの鏡は、音もなく緩やかに再生し、その中では実像通りの気取った絹子がくるりと回っていた。
「繭子さん。かわいい三毛が来たわよ。会わなくていいのかしら」
絹子は鏡に近寄って自分の顔を凝視しながら、黒々とした睫毛に触れ、新しく塗りなおした紅い口紅を唇に馴染ませた。
部屋は滅茶苦茶だった。
花びらが絨毯のように床に敷きつめられていて、折れた丸坊主の薔薇が、あちらこちらに散らばっている。
いくつもあった花瓶は全て割れ、花びらの砂糖漬けの入った壺も、瓶も、全て床に落ちていた。
額縁に入れて部屋の壁に飾ってあった、女の横顔を描いた絵葉書は、もはや人間だとは判別できないほどに細かく、乱暴に千切られていた。
絹子がよく座っていた大きな藤の椅子は倒れ、長い刃傷が荒々しく網目を歪めている。
これらの傷付いた品々がゆっくりと再生していく。その姿は不気味だった。ただ、花だけは蘇ることもなく、弱りきった姿で床に散っていた。
部屋の奥に、真っ赤な女が立っていた。赤い、少し子どもじみたワンピースを着ている。首筋も、腕も、足も、真っ赤な太陽光を浴びていた。腰に巻き付いている赤いリボンが揺れた。
「聞こえないのかしら。繭子さん」
絹子がこの場に不釣り合いなゆったりとした調子で話した。
背中を向けている繭子は鋏を右手に持っていた。小さなその手には不釣り合いな大きさだった。
黒い物が周りに落ちていた。艶のある、黒い、長い――髪の毛。
繭子の長かった髪の毛は首の位置でばっさりと断ち切られていた。
奇妙な光景だった。
三毛は出窓の上で凍りつき、動けなくなっていた。
散乱した赤い部屋も、背中を向けた繭子も、この場に不釣り合いな落ち着きを見せる絹子も、何かが狂っている。
「あなた、まだすねているの。……ああ、こんなに散らかしてしまって。片付けるのは私たちなのよ。壊したホテルの備品は直っても、元の場所に戻ってくれることはないんだから……」
絹子が溜め息をつきながら花びらの一枚を拾った。
「これ、また食べられるかしら」
繭子はまだ姿勢を崩さない。鋏は強く握り締められ、鋭い刃がギラギラと光った。
三毛は帰ろうと思った。気まぐれにやってきたこの場所は、間違いだった。
だが、絹子が急に近付いてきて、三毛をさっと抱き抱えた。三毛は宙ぶらりんの状態で、薔薇の強い香りのする部屋を移動した。つかつかと歩く絹子のハイヒールは、散った花びらを践みつけ、香りはそのたびに強まった。
「さあ、繭子さん。三毛が来たんだから、機嫌を直しなさい。ほら」
絹子が繭子の前に回り込んで、艶然と微笑み、三毛を差し出した。三毛は繭子の顔を見上げた。その途端、背中の毛が逆だった。
逆光のせいもあるが、繭子の顔は暗く、いつもの華やかさは無かった。化粧気が無く、かさついた唇が目に付く。
虚ろな黒目勝ちの目が怖かった。三毛をじっと睨んでいる。いつもの繭子ではない。
「ほら」
絹子は三毛を繭子の胸に押し付けようとする。だが、だらりと下がった繭子の両腕は動かない。静かな狂気がそこにあった。
絹子の態度が次第に冷えていくのに三毛は気付いた。
「いい加減にしなさいよ」
絹子の声が上から聞こえたかと思うと、三毛はそのまま手を放された。繭子の髪の毛の一山に向かって勢いよく落ちる。
慌てて受け身の姿勢で着地して、二人を見上げた。姉妹は睨み合っていた。
絹子が皮肉のこもった綺麗な笑顔を作った。
「あなた、いつまでこんなこと繰り返すのよ。私、もうあなたが暴れるのに付き合うのはうんざりだわ」
すると、繭子の口が微かに動いた。幽霊のように、ゆらりと体を揺らす。
「何て言ったの? 聞こえないわ」
「あなたのせいよ……」
かすれた声で、繭子は呟いた。絹子は笑顔を崩さない。
「私のせい? 何のことを言っているの?」
「あなたが思い出させるからでしょう」
「あら、そうだったかしら」
絹子は、思い出せないわ、と呟いた。繭子の目が見開かれる。
「耳の中でずっと響いているのよ! あなたはあの人を殺せと私に言ったわ」
繭子は今度ははっきりと言った。三毛はびくりとその言葉を聞いて、繭子の目を見つめた。次第に光が戻り始めている。むしろ、爛々と輝いている。
「あなたねえ」
絹子は呆れた、と言うように首を傾げた。
「あれはあなたが、あなたの意思でやったのよ」
「違うわ!」
繭子は声を荒げる。
「あなたが命令したのよ」
三毛は絡み付く長い髪の毛から逃れた。そして、ようやく床を踏んだ。姉妹を見上げる。
絹子は微笑んでいる。繭子は人形のように無表情だ。
「今になって、罪を私に被せるというの」
「私は本当のことを言っているわ」
「私は何もあなたに言ってないわよ。あなたが急に彼に飽きて、それで殺してしまったんだわ。忘れたの?」
「飽きただなんて、よくもそんなこと言えたわね」
「なあに?」
絹子は左手で右肘を支え、頬に掌を添える。この場に不自然な微笑み。三毛は後ずさる。
「あなたが城内さんをたぶらかしたんだわ。そうよ。私分かっていたのよ!」
繭子が裸足の足で地団太を踏む。切れた髪が舞い上がる。握った鋏が危うく繭子の足をかすった。
「私が? まさか」
絹子が声を漏らして笑う。
「私があの人を?」
繭子の唇が歪む。白い並びの良い歯が異様に輝いている。
「私、城内さんを愛していたのに。愛していたのに。あなたが私から取ろうとしたの!そうよ!」
繭子の潰れた叫び声が響いた。赤い部屋はしんと静まり帰った。
「愛していた?」
絹子が不思議そうに笑う。
「まさか。あなた、あの人を愛してはいなかったでしょう?」
「愛していたわ!」
繭子が声の限りに叫ぶ。
「嘘よ」
絹子がクスクスと笑う。
「あなたが愛せるのはあなただけだわ」
突然、部屋が静かになった。繭子の動きが止まった。絹子は笑顔を崩さない。
「何を言っているのよ」
繭子が震える微かな声で怒鳴る。
「だって事実よ」
絹子はふっと息を漏らす。
「私は自分しか愛せない?」
「そうよ」
絹子は笑う。繭子が顔を歪めて、大粒の涙をこぼした。
「城内さんを愛していたわ。誰よりも、誰よりも、愛していたわ」
繭子が泣きじゃくる。
「でも、やっぱりあなたは自分を選んだじゃないの」
絹子は口を尖らせる。この会話を真剣に捕えてはいないといった態度だ。
「違うわ」
「何が違うの」
「私は私よりも城内さんを愛していた」
「あら、そうなの」
「ふざけるのはよして」
「ふふふ」
「私、あなたよりも城内さんが大切だったわ」
その途端、絹子の笑顔が仮面のように固まった。そして、ゆっくりと表情が消えた。
「私、あなたを置いて城内さんと結婚するつもりだった」
繭子は絹子の能面のような顔を睨みつけながら言った。絹子の目は虚ろになった。音が消えた。
三毛は訳が分からず、二人の顔を交互に見比べた。三毛には会話の内容が掴めなかった。




