子供…三〇八二号室・3
松子夫人はもはや震えと悲鳴が止まらなくなっていた。悲鳴でそれらの音をかき消そうとした。だが、なぜか消えてくれなかった。
松子夫人は手探りで元出てきた場所を探した。ガクガクと揺れる足は中々言うことを聞いてくれなかった。
やっとのことで、開いたままのドアが見付かった。ここに来てから大して歩いてもいないのに、あのまとわりつく情景のせいで見付からなかったのだ。
松子夫人はあわててあの白い小部屋に駆け込む。
終りの情景が目に飛込む。
あの納屋の前に、年老いた下男らしき老人が悲しげな顔を下に向けて立っている。
その眼前で、メアリーの父、ウィルソン氏がスチュワートを殴っている。細身の体を思いきり捻って、全力で何度も拳を振るう。
スチュワートの眼鏡のレンズはひび割れ、片方の耳から外れている。顔も赤黒く腫れ上がっているが、それでもウィルソン氏はスチュワートを殴るのを止めない。ウィルソン氏は泣いている。
もう一人の使用人がぐったりと虚ろな目をしたメアリーを抱き抱え、ウィルソン夫人は死人のように青ざめたままそれに付き添う。
屋敷にたどり着き、メアリーが中に運びこまれると、ウィルソン夫人が突然引き返してくる。そして、叫ぶ。
「そいつを殺して!」
スチュワートは独房にいる。出獄の時が来たらしく、粗末な囚人服を脱いでいる。
それから、きちんと畳まれたあの古ぼけた背広を着る。眼鏡はあの銀縁眼鏡だ。
看守が来て、スチュワートに告げる。迎えが来たぞ、と。
「メアリーですか?」
頬のこけたスチュワートは俄かに明るい表情になる。看守が溜め息をついて、首を振る。
ホプキンス夫人だった。気まずそうに、武骨な刑務所の出入口に立っている。
「お久しぶりです。ホプキンスさん」
スチュワートがおずおずと話しかける。ホプキンス夫人は彼から目をそらす。
「これ、預かってたから」
つきだしたのは鳥籠だ。中にはスチュワートのカナリヤがいる。
「メアリー!」
スチュワートが微笑む。ホプキンス夫人は顔をしかめる。
「もうメアリーと呼ぶのはやめなよ」
「何故です。彼女はメアリーですよ」
ホプキンス夫人はイライラと黙りこみ、少しして、さっとその身を翻した。
「用事はそれだけだから」
「待ってください」
「うちにはもう近寄らないでね」
ホプキンス夫人は横目でそう伝えた。スチュワートの顔から笑顔が消える。
「ああ、あんたの親もどこかへ引っ越したらしいよ。多分あんたから逃げてるんだね」
スチュワートはカナリヤの籠を呆然と提げたまま、立ち尽くす。
「じゃあね」
ホプキンス夫人は去って行った。
全ての情景は消えた。松子夫人は呆然としていたが、すぐにハッとして白いドアを開けた。そして、三毛の待つ図書室に戻ってきたのだった。
「あの男は異常者よ」
松子夫人は、今度は冷静に、静かな怒りのこもった口調で呟く。老人は黙ってレモネードを飲む。
「彼の気の毒な面も確かに見ましたわ。家族に恵まれず、社会に認められなかった。最後には全てから捨てられてしまったわ。でも」
松子夫人はまた泣きそうな表情になる。
「あんな小さな女の子を……、無理矢理……」
感情を押し殺し、元の冷静な顔になる。
「自分本位の犯罪者なんです。彼は。子供を危険な目に会わせる……」
「だからここに来たんだね、マツコ」
「そうです。あんな男を子供の側に置いてはおけません。何をするか分からないから」
「心配しなくても大丈夫だよ」
松子夫人は顔を上げる。
「彼はあの子が狂暴に暴れているのを見て、いたく傷付いたらしいんだ。錯乱したのもそのせいだと思う。多分、錯乱から回復してあそこから出てきても、この子には寄り付きもしないよ」
老人は微笑んだ。それからレモネードの最後の一口をゴクリと飲み干した。
「ほっとしましたわ、私……」
「そうか」
松子夫人は考え込むように空のグラスを見つめた。
「スチュワートさん、今日少しだけ親しく話しかけて下さったんです。親しみのような物を感じ始めた矢先だったのに、あんな……」
最後の言葉は続かなかった。
「トマスは悪い男だってわけじゃないと思う」
老人は静かに言う。
「あの子の様子を気にかけていたのだって、純粋な親切心があったからだ。私はそんな気がする」
老人は、長い長い溜め息をついた。
「ただ、不幸で、弱いんだ」
「弱いということは、悪いと言うことと同義になることもあります」
松子夫人はきっぱりと言う。
「私もまさか彼があの子に、メアリーに対して持っていたような感情を抱いているとは思いません」
濡れたハンカチを揉みしだく。
「ただ、あれほどに弱い人間を、力無い者のそばに置いてはおけないと思うんです」
「そうだね。私も同意するよ。ただ、マツコ、分かってくれ」
老人が真剣な目で松子夫人を見つめる。松子夫人も見つめ返す。
「私たちも弱い人間だ。彼程ではなくても、弱い」
「そうですわね」
松子夫人は頷く。
「私たちも彼に勝るとも劣らない奇妙な過去を背負っている。彼のように自ら陥った、おぞましい物ではなくても」
三毛は驚いて老人を見た。老人と松子夫人との間では、互いの過去について口にするのは禁句のはずだったが。
「ええ、そうですわね」
松子夫人は力強く答えた。三毛は思わず松子夫人を見た。
「私、強くなろうと思うんです。あの子を守りたい。メアリーの虚ろな瞳を見たとき、急にあの子のことが頭に浮かんだんです。心が荒んで、体もボロボロのあの子が。
私、あの子を守るために強くなります。トマス・スチュワートのように、我が身可愛さにあの子を傷付けるようなことは絶対にしませんわ」
松子夫人は決意していた。口を真一文字に結んで、しっかりと老人の目を見据えていた。
老人は微笑んだ。白い髭が揺れた。
「それはいいことだ。私も強くなるよ、マツコ」
二人は微笑み合った。
松子夫人はソファから立ち上がった。
「あの子に会いに行ってきます。……大人しくしています?」
「ああ、今は眠っているよ。昼間は大変だったけれど」
老人が苦笑した。
「また暴れたのね」
松子夫人は悲しそうに微笑む。
「悪魔のようにね」
老人はニヤリと笑う。松子夫人は目を丸くした。
「おじいさんは、強くなろうとしなくても強いわ。私なんて、スープをひっかけられただけで泣いてしまったのに」
松子夫人は老人を少し見つめて、それから少年の寝室へ向かった。小さなドアを開け、頭を屈めてくぐる。
「いや、マツコ。私も死ぬほど怖かったよ。彼をどうしていいか分からなかった」
老人が小さな声で呟き出すのを三毛は聞いた。
「私は弱いよ。本当に強くなれるのか、心配だ」
老人の顔は、例の疲れに満ちていた。三毛は彼をじっと見つめた。
ドアは開いていたので、三毛は松子夫人を追って寝室に入り込んだ。薄暗い部屋には、砂糖の香りと、血のような汚れた臭いが満ちていた。
松子夫人は少年の眠るベッドの脇にしゃがんで、じっと彼を見つめていた。その目には、今までの松子夫人に見たことが無いほどに強い光が宿っていた。
三毛は、松子夫人が少し三毛から離れたところに行ってしまったような気がして、少し寂しくなった。でも、同時に、ある部分で近付いたようにも感じられて不思議な共感を得た。
三毛は動かない松子夫人を残し、寝室を出た。
三毛には、スチュワートの凶行の意味も、その行為自体も理解できなかった。それは子猫であるがゆえでもあるし、三毛が人間では無いからでもある。
三毛は純粋に、スチュワートの除け者にされ続けた人生を哀れんだ。可哀想な人。それが松子夫人の船の底での話を聞いて、抱いた感想だった。
――弱いことは悪いことと重なる時もある。
三毛は松子夫人のこの言葉が、頭から離れなかった。