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砂糖細工の船に乗って  作者: 酒田青
第二章 子供
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子供…三〇八二号室・2

「家庭教師のトマス・スチュワートさんよ。メアリー、ご挨拶を」

 母親らしき女性の横で、メアリーがはにかんだように笑う。まだ6、7歳くらいなのか、納屋の場面の時よりも幼い。

 大きな暖炉が目につく。輝くシャンデリア、絵画、意匠を凝らした古典的な家具。裕福な家だ。おそらく、納屋の横にあった屋敷だろう。

「こんにちは、スチュワートさん」

 メアリーが舌っ足らずに挨拶をして、透明がかった白い小さな手を差し出す。深い青の目が細まる。

「始めまして、メアリー」

 スチュワートの声がするが、姿は見えない。これもスチュワートの視点の映像だ。

 心臓が激しく鼓動するのが聞こえる。松子夫人のものではない。スチュワートの心臓だ。

 松子夫人は耳を塞ぐ。まるでスチュワート自身になった気分だ。気味が悪い。

 目の前に差し出されたスチュワートの手はメアリーの手を中々はなさない。

 メアリーは戸惑ったようにスチュワートを見上げる。メアリーの両親はにこにこと微笑んでいる。

「可愛いお嬢さんですね。ウィルソンさん」

 上擦ったスチュワートの声。

 

「君は家庭教師をしている方が合っているよ。天職だと思うな」

 身なりのよい青年がスチュワートに話しかけている。グレーの上着のポケットから金鎖がこぼれているのが見える。

 スチュワートは彼の前で陰気に口を結んでいる。

「君はちょっと……、学者向きじゃないと思うんだ」

 男はいかにも同情しているというような演技をする。スチュワートは拳を握り締める。

「ホフマン君、次の学会について話がある」

 年老いた威厳ある男が青年に近寄ってきた。

「じゃあな。頑張れよ」

 青年は老人と共に去る。スチュワートは何も言わず、そのまま凍りついている。

 

「先生、もうお勉強は嫌よ。遊びましょう」

 メアリーがスチュワートの腕に抱きつく。

 熊の縫いぐるみに高価なフランス人形、天蓋付きの大きなベッド。ここはメアリーの部屋だ。

 メアリー一人には不釣り合いな程大きなマホガニーの机に座った彼女の横に立つスチュワートが、機嫌よく笑った。

「メアリー、君は遊んでばかりじゃないか。勉強をしてくれなくちゃあ、私がウィルソンさんに叱られるんだ」

「パパは怒らないわよ。私には優しいの」

 メアリーが血色のよい白い顔を綻ばせる。赤ん坊のような丸顔だ。

「君には優しくても私にはそうじゃない。さあ、勉強だ。簡単な引き算だからやってみよう」

 メアリーと一緒にいるときのスチュワートはこの上なく幸せそうに見える。

 

「母さん」

 スチュワートは目の前のやせぎすの中年の女に話しかけている。

 保守的な地味なドレスを身に纏った彼女は椅子に沈みこみ、冷酷そうに見える灰色の瞳を分厚い本に落として読み耽っている。

 スチュワートのことは無視だ。

「博士号を取れないと、話す価値もないって言うのか。ねえ、母さん」

 冷えきった沈黙は止まない。

 

 スチュワートはメアリーに執拗にキスをする。質問に答えられたご褒美だと言って。

 メアリーは少し成長している。スチュワートのキスを避けようとするが、スチュワートはフェイントをかけてメアリーの額に唇を押し付ける。メアリーは顔をしかめる。

 メアリーの部屋は密室だ。愛らしい柄の壁紙やベッドや机が、いやによそよそしく見える。

 

「やあ、ホプキンスさん」

 血色のいい小太りの女が松子夫人の目の前に現れる。今までの人々より服は粗末で、髪型もだらしない。

 どこかの玄関だ。メアリーの家とも、スチュワートの家とも違う。

「お宅で生まれたカナリヤの雛はどうですか?順調に育っていますか?」

 スチュワートの声がする。女は少し困ったような顔付きをして、

「あのね、一羽鳴かない雛がいるのよ。私もカナリヤは商売で繁殖させてるんだし、その雛を処分しようと思ってて」

「え」

「可哀想だから、あんた、引き取ってくれない? 隣人のよしみでさ」

 ホプキンス夫人は上目遣いで懇願する。

「あんた引っ越してきたばかりなのに、図々しいとは思うけどさ」

 どうやら、ここはスチュワートの新居のようだ。

「僕、鳥を飼ったことがないんです」

 スチュワートの戸惑ったような声。

「簡単よ。私、教えるから。ね、お願い」

「……分かりました。引き受けましょう」

「ありがとう! トマス、あんたならそうしてくれると思ってた。あんた優しいから……」

 スチュワートの控え目な笑い声がする。

 

 スチュワートはメアリーのいない部屋で、ありとあらゆる物の臭いをかぐ。ベッド、枕、ブラシ、人形、壁、床……。

 スチュワートは洸惚とその作業に没頭する。

 

 スチュワートは弱々しいカナリヤの雛にメアリーと名付けた。

 研究もそっちのけで餌を与えている。ホプキンス夫人が世話を手伝いに来て、スチュワートに細々とした説明をしている。スチュワートがたまに冗談を言うと、ホプキンス夫人が陽気に笑う。

 

 スチュワートは、ホプキンス夫人といるときだけ普通の青年らしく見える、と松子夫人は思った。彼には心を開ける人間が少ないのだろうか。

 メアリーは明らかにスチュワートを避けている。怯えらしき感情が顔に表れている。

 彼女はスチュワートから離れた場所に椅子を置いて授業を受けているのだが、スチュワートは気にしていない。むしろ上機嫌だ。

 

 カナリヤのメアリーは目に見えて美しく成長してきた。

 ホプキンス夫人はスチュワートを大袈裟に誉め、スチュワートはそれを聞いて微笑んでいる。

 

 人間のメアリーも輝くばかりに美しくなっていた。幼いのは相変わらずだが、顔立ちがさらに整い、手足がすらりと伸びた。何と無く、色香が漂う。

 メアリーは相変わらずスチュワートを避けている。授業中、顔色が冴えない。

 スチュワートはやはり何かにつけてメアリーに触る。

 髪、頬、腕、背中。

 

 ここまで来ると、運命の時の近さに松子夫人は脅え始めた。何とかここを出なくては。目を閉じて、壁だけを感じるのだ。そうしないと、見てしまう。

 松子夫人は何も見えないままに、出口らしき方向に向かってそろそろと歩いた。

 だが、聞こえてくるのだ。

 

「メアリー。ちょっと早く来てしまったようだね」

 スチュワートの楽しそうな声がする。

「こんにちは、スチュワート先生」

 メアリーは警戒している。

「こんにちは、メアリー」

 さくさくという、芝生を踏む音。

「どうしてきょろきょろしているの、スチュワート先生」

 小さな足が、芝生をゆっくりと踏む。後退りをしているのだろうか。

「いや、別に何でもないんだよ」

「変よ」

「そんなことはないよ。……おや、メアリー、いい香りがするね」

「何もつけてないわ。何の香りもしないわよ、先生」

「そうだね。君自身の香りだ。良いね。素敵な香りだ」

「そんなに顔を近付けないで」

「いいじゃないか。君の香りは素晴らしいよ」

「やめてよ!」

 小さな、何かが何かにぶつかった音。沈黙。

「君はおいたが過ぎるね」

 スチュワートの声が変わった。

「お仕置きだ」

 よだれをすする獣のような声だ。

「やめてよ、せんせ……」

 メアリーの言葉は最後まで聞こえなかった。

 沈黙と、芝生を踏む音と、木戸が激しく閉じられる音が続け様に松子夫人の耳で響いた。

 くぐもった激しい悲鳴が聞こえる。服が引き裂かれる音が聞こえる。スチュワートの荒い息遣いが聞こえる。

 すすり泣きの声が聞こえる。


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