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砂糖細工の船に乗って  作者: 酒田青
第二章 子供
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子供…三〇八二号室・1

 ノックの後すぐに、くぐもった返事が聞こえた。しばらくして、白い小さなドアが開く。

「どうしたんだ、マツコ」

 白い老人は微笑んだ。

 ここは三〇八二号室。少年の部屋だ。図書館での出来事のあと、松子夫人は真っ先にこの部屋に向かった。右手には三毛を抱き、左手にはカナリヤの入った鳥籠を提げて。

「マツコ。顔色が酷く悪いよ。どうしたんだ」

 老人が怪訝な顔をする。三毛が松子夫人の顔を見上げると、顔は青ざめ、乾いた唇はギュッと閉じられていた。

「入りなさい」

 老人に促されるままに、松子夫人は部屋に入った。

 硝子のテーブルの上には冷たいレモネードの入ったグラスが二つ、並んでいる。

 三毛は松子夫人と共に、広間の薄緑色のソファに座っていた。鳥籠は部屋の隅の棚の上。老人は松子夫人の向かい側に深く身を沈めていた。

「スチュワートさんはいらっしゃいましたか?」

 松子夫人は硬い口調で尋ねた。

「ああ、彼を診察しにね」

 と、老人は寝室のドアを指して微笑んだ。

「もう呼ぶべきではありませんわ」

 松子夫人は少し震え始めている。三毛は松子夫人により密着して寄りかかった。「何故」

 老人は何度か瞬きをして髭をもぞもぞ動かす。

「彼は以前、子供を強姦したことがあるんです」

 部屋がしん、と静まりかえった。

 ここは初めから賑やかでも無かったが、三毛には、松子夫人には、老人には、その一時の静けさが耳にしみた。

「そうか」

 少しして、老人が話しだした。

「どうして知っているのかな、マツコ」

「図書室で」

 松子夫人は急に息をするのも苦しそうにたどたどしいしゃべり方になった。

「彼に会ったんです。偶然。何故かは分からないけれど、錯乱していました。私に対して、メアリーだとかウィルソンだとか言って。その時はよく分からなかったんですが」

「ああ。それから?」

「私、彼を船の底に連れていった方が良いと思ったんです。何やら過去のことで苦しんでいると、その話しぶりから分かったものですから、正気に戻るためには船の底に行かせて、内省させてあげるのが一番だと思ったんです」

「錯乱の理由は何と無く分かるよ。マツコのしたことは正しいことだ。

 過去のことで錯乱したときには過去に向き合うことが大切だ。それには船の底はぴったりだからね」

 老人は白い髭を持ち上げて笑った。だが、話がそのまま綺麗に収まらなかったことは老人にも分かっている。

「それで?」

「スチュワートさんから彼の部屋の鍵を取りあげて、図書室のあのドアを開けてスチュワートさんを押し込んだんです。でも、いきなり彼が私を捕まえて、私、あの部屋に閉じ込められてしまったんです。気付いた時には船の底にいました」

 松子夫人の体の震えが大きくなる。

「あなたはスチュワートの船の底に行ってしまったんだね」

「そうなんです」

「他人の過去を、見てしまったんだね」

「ええ」

「怖かっただろう」

「ええ」

 松子夫人の目から熱い涙がポタポタとワンピースの膝に落ちた。松子夫人の激しい息遣いが部屋じゅうに響いた。

「あそこには抽象的な物と、具体的な物があるね。それから観念的な物と、象徴的な物が」

 三毛は意味が分からず老人を見た。老人も三毛を見た。

「夜見る夢みたいにしっちゃかめっちゃかな世界だってことなんだよ、三毛」

 悪戯っぽく笑う。その説明で三毛にも少し理解できた。しかし、老人が三毛に話しかけたのは、松子夫人が喋れなくなってしまったために生まれた沈黙を埋めるためである。

 松子夫人は泣きじゃくっていた。老人の差し出した白いハンカチに顔を埋めて、激しく鳴咽を漏らしていた。

「あんな……、あんなにおぞましいこと……」

「落ち着いて、マツコ。レモネードを飲みなさい」

 勧められるがまま、松子夫人はグラスを口に付けた。手は震えているし、うまく飲めずにむせてしまった。

「落ち着いたら、トマス・スチュワートについて話してもらうよ。そうしなければいけないと思ったから、私に会いに来たんだろう?」

 老人がゆっくりとそう言うと、松子夫人は泣き腫らした赤い目を手に持った空のグラスに落とし、コクリと頷いた。

 

 松子夫人の話は、不気味さと不快に満ちていた。

 松子夫人が白い部屋に閉じ込められると、閉じられたドアの向かいの壁に何かが見えてきた。白い壁は次第に複雑な陰を作り出し、やがて一枚のドアが出来た。

 松子夫人はスチュワートにずっと抱き締められていた。体臭と息遣いが不愉快だった。

 身をよじるが、スチュワートは無言で松子夫人を抱き締めたままピクリとも動かない。

 松子夫人は空いた手を後ろに伸ばし、新しいドアの取っ手を握った。

「さあ、あなたの望む世界はそこにあるから、とっととそこに行きなさい!」

 ドアを出来る限りの力で強く押した。ドアは大きく開いた。

 スチュワートの腕の力が緩んだ。そして、松子夫人の体から離れた。

「メアリー……」

 スチュワートが呟いた。松子夫人は自由になった体を彼から遠く離し、振り返った。

 プラチナブロンドの愛らしい少女が、目の前にいた。

 水色のドレスとフリルのリボンを揺らして、松子夫人とスチュワートに笑いかける。

 両脇に草木が生い茂る細い道が、少女の後ろに続いている。少女は小さな白い手を振り、踊るような足取りでどこかの陰へと駆け込んでいった。

 松子夫人は夢を見ているような気分でそれを見つめていた。

 突然、隣にいたスチュワートが、

「メアリー!」

 と叫んで走り始めた。異様なまでの喜び様だった。そして、あっと言う間に見えなくなった。

 松子夫人は他人の内部の亡霊を見た恐ろしさにしばらく立ちすくんだ。しかし、すぐに気を取り直し、帰ろうと振り返った。船の底から帰ろうと思えば簡単に帰れる。

 だが、振り返ったとき、一つの情景が松子夫人の目の前に飛込んで来たのだった。

 

 広い芝生の庭が見える。大きな煉瓦作りの屋敷が見える。屋敷の陰に、納屋が見える。

 大きな屋敷の立ち並ぶ町並みが見える。太陽が柔らかく照っているのが分かる。春だ。

 次第に、音も聞え始めた。

 鋭い鳥の鳴き声、遠くから聞こえる馬のいななき、風が木の枝を揺らす音。

 納屋の前に、スチュワートと先程の少女がいる。おそらく、メアリーが。

 スチュワートがメアリーの小さな背中をいきなり抱きすくめた。メアリーが悲鳴を上げようとすると、スチュワートは片手で口を塞いだ。それから足で納屋のドアを開き、暴れるメアリーを中に乱暴に放り込むと、ドアの隙間から用心深く辺りを見回した。誰もいないことを確認すると、スチュワートは興奮した面持ちでドアを乱暴に閉めた。

 

 松子夫人は絶句していた。この後の情景は見えない。しかし、それは、スチュワートの凶行を示すのに十分だった。

 また別の情景が見える。

 

 スチュワートは先程の屋敷とは違う家の室内にいた。くすんだ壁紙が目につく。

「博士号はいつになったら取れるんだ?」

 野太い、威張り散らした英語が聞こえる。

 髭の生えた油光りした中年の男が目の前にいる。

「黙ってないて答えろ! この出来損ない」

 男は松子夫人を指差す。

 どうやらこの情景はスチュワートの目で捉えられたもののようだ。

「僕は努力してるよ、父さん」

 震えるスチュワートの声。

「出来損ないがいっぱしの口をきくんじゃない」

 スチュワートの父親はスチュワートを軽蔑した目で見る。

「私は二十六の時には既に3つの博士号を取った。なのに何だ! お前はもう30にもなって、一つの賞与もないじゃないか!」

 スチュワートの視点が下を向く。無意味な足踏みや、指が開いたり閉じたりしているのが見える。

「お前は我が家の恥だ」

 父親の苛立った声が聞こえる。

 

 松子夫人は連続して見える情景から逃げようと、やみくもに走った。最初の場面だけでも十分だ。見たくない。早く逃げたい。

 しかし、また別の場面が松子夫人を巻き込む。


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