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砂糖細工の船に乗って  作者: 酒田青
第二章 子供
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子供…図書室・2

「メアリー。ウィルソンさん。ホプキンスさん」

「もうたくさん! 止めて!」

 松子夫人は三毛をギュッと抱き締めた。スチュワートは呆然と立ち尽くしている。

「スチュワートさん、あなた」

 松子夫人は恐る恐るといった様子でスチュワートに近寄る。

「船の底へ行くべきよ」

 伸ばした手はスチュワートのやぼったいジャケットのポケットに入り込む。現れたのは銀の鍵だ。スチュワートの部屋の鍵だ。スチュワートは黙りこんだまま松子夫人を見る。

「ついて来なさい」

 松子夫人はスチュワートの上着の袖を少しつまみ、引っ張った。すると、スチュワートは素直に従った。

 三 毛は松子夫人に抱かれてゆらゆらと、ずらりと並んだ本棚の中を通りすぎていく。船の底というものについて、三毛は初めて知った。一体どういうものなのか見当もつかない。

 この図書館はいたって普通の図書館だ。ただ、広大で、多言語の本が無秩序な本棚の並びに従って納められている。船の人々にとって、本はほとんど暇潰しの道具だ。何しろ、この船では知識など何の役にも立たない。

 進展がない、交流がない、気力がないこの船では。

 一行は図書館の最奥部にたどり着いた。スチュワートはふらふらと揺れている。

 辺りは丸く本棚に囲まれている。ギリシャ神話とノルウェー神話の威厳ある全集がごちゃまぜに混ぜられて三毛たちを睨んでいる。

 本棚の間のわずかに覗く壁には地味なドアがあった。見逃してしまいそうな、つまらない造形の白いドア。

 松子夫人がスチュワートから取り上げた銀の鍵を鍵穴に差し込んだ。松子夫人は何か混乱した表情をしている。何故こんなことをしているのか分からないといった表情だ。

 鍵はカチリとなった。

 三毛は突然吐気に襲われた。ドアは開いていないのに、鍵が開いた途端、ドアの隙間から別次元の空気が漏れだしてきたのだ。

 臭い。

 松子夫人がドアノブを捻った。臭気がどっと外に漏れだしてくる。鼻の感覚がなくなりそうだ。

 中を見たら、狭い、やはり白い、何でもない部屋だ。なのに、臭い。

「入りなさい」

 松子夫人が命令口調でスチュワートに指で指示をする。もちろん少し離れたところから。

 スチュワートがふらふらと中に入ったことを確認すると、汚いものをつまむように銀の鍵をスチュワートへと返そうとした。

 しかし、手をスチュワートの間合いに入れたのが間違いだった。

「メアリー。君も一緒に来てくれなくちゃ嫌だよ!」

 スチュワートがにわかに朗らかな笑顔になって、灰色の目を輝かせた。そして、松子夫人の腕を素早くつかんだ。

「嫌!」

 松子夫人は強い力で中に引き込まれた。三毛がぼとりと床に落ちた。

「離しなさい! 離して!」

 松子夫人は狂人に捕えられたまま、幾度も足を踏み出した。もはやスチュワートに合わせて英語を使うのも止めてしまった。言葉が通じないということも認識せずに、彼女本来の言葉で叫ぶ。

 懸命に全身をばたつかせても、スチュワートの力の方が勝っていた。ローヒールの革靴は虚しく滑った。

 三毛が部屋に飛込もうとした。しかしその直前にドアは勝手にバタンと閉まった。

「やだ! スチュワートさん!」

 松子夫人の悲鳴が最後まで響いていた。しかし、すぐに声は消えた。ピアノのデクレシェンドのように段々と小さくなって、最後に何も聞こえなくなった。

 あれほどひどく臭った臭気も消えた。不思議だった。

 三毛はおろおろとドアにすがりつき、がりがりと爪を立てた。静かだった。

 

 三毛は何分も、何十分も白いドアの前に座り込んだ。白いドアの中からは全く音沙汰が無かった。静寂。それだけ。異臭もしない。するとしたら砂糖菓子ホテルの甘い香りだけ。

 松子夫人が連れていかれてしまった。

 どこに? 船の底に。

 船の底って? 分からない。

 スチュワートはおかしくなっていた。松子夫人に何かしたりはしないだろうか。

 スチュワートの言うメアリーは、ウィルソンは、ホプキンスは、一体何者だろうか。

 ここまで考えて、三毛はハッとした。黄色いカナリヤはどうしているだろう。

 三毛は小さく柔らかく無器用な足取りで走って、スチュワートの元いた場所を目指した。本の群れ。何だろう、この圧迫感は。何度も訪れたことのあるこの図書室には、思考の混乱が満ちていると感じてはいた。だけど、今ほど不快に感じることは無かった。スチュワートのせいかと思うが、それにしては本棚から異様なまでに重い空気が漂う。詳しく言えば本から。この秩序の無い大小の、新古の、くすんだ本の群れから追い立てられている感じがする。三毛はその不快さに吐気を覚えた。

 

 カナリヤはいた。相変わらず黙っていた。日差しは強く、黄色い色はもはや白にしか見えない。

 カナリヤはもう鳴かない。黙りこんでいる。あの時、何故突然鳴いたのだろう。スチュワートへの愛ゆえだろうか?

 いや、カナリヤに愛なんてあるのだろうか? あの夜の彼女の神秘性が、三毛に何かの錯覚を起こしたのだろうか?

「いいや。彼女には愛がある」

 三毛はビクリとして、後ろを振り向いた。女がいた。

「お前には愛はないよ。船の中にも愛はない」

 女は奇妙な格好をしていた。つばが異様に広い、派手な羽や造花が飾り付けられた黒いビロードの帽子を、顔が見えないくらい深く被っていた。見上げる形になる三毛にも、その目は見えない。

 それに、全身にボロを纏っていた。破れ、汚れた布切れを幾重にも重ねて、夏の暑さだというのにそれは全身を覆っていた。

「あたしはいつもここにいるよ。朝も昼も夜も、ここにいるよ」

 年齢不詳の女はキイキイと不安定な声でわめいた。口の中が真っ黒だ。黒く、酸に溶かされた虫歯が大きく開いた紫の唇の内側を縁取っている。

 この女は何だ。見たことがない。

「あたしは脳腫瘍だよ。いつも脳味噌の中にいるよ。それで、あのドアを開けるやつを見てるんだよ」

 三毛の考えることをすらすらと読み取り、すぐさま答える。三毛はその不気味さに体が硬直してしまった。

「あんたいつも高原松子と一緒にいるよ。トマス・スチュワートはいつもこのカナリヤと一緒にいるよ」

 女はカナリヤの籠をガシャンと乱暴に叩いた。カナリヤは慌てて羽を広げてばさばさと羽ばたいた。

 女の、節くれだった指が、黒ずんだ長い爪が異様だ。三毛はそればかり見つめてしまう。

 その手は歴史書の棚の布張りの古い一冊に伸び、ばさりとそれを乱暴に開く。

「スチュワート、錯乱。メアリーについて話す。ウィルソンについて話す。ホプキンスについて話す。高原松子、混乱。スチュワートを船の底に連れていこうとするが、錯乱したスチュワートによって連れ去られる。行き先はスチュワートの船の底」

 ケタケタと女は笑う。

「これ本当だよ。ここにそう書いてあるんだよ。船の底に行った奴らは、皆ここに書かれるんだよ」

 と、女は三毛にカビ臭い本を乱暴につきつける。三毛はとっさに逃げてしまった。

「船の底のこと、知ってる? あそこに行ったことある?」

 三毛は船の上部にしかいたことが無い。女が虫歯だらけの歯を見せて、にい、と笑う。

「あそこにいくと頭がおかしくなるんだよ。あそこにいくと、砂糖の臭いがぷんぷん強くなるんだ。それから、それから、声がするんだ。叫び声がするんだ。ぎゃああああ、って」

 女の声はますます不快な調子を帯びる。

「あたしの船の底はそうだったよ。ぎゃあああ! って、それしか聞こえないんだ。

 スチュワートの船の底も、ぎゃあああ、って聞こえるのかな。メアリーも、ウィルソンも、ホプキンスも、出てくるのかな」

 ケラケラ笑う。目が帽子で隠れて見えない。

 女が何を言っているのか分からない。おそらく、船の底には船の上には無い尋常ならざるものがあるらしいが、それがどういうものなのかがよく分からない。スチュワートのあのうわ言が関係してくるらしいのだが。

 三毛は突如現れたこの奇妙な女を見据えた。

 図書室にいつもいるらしいのに、今まで見たことが無かった。陰から、三毛や船の住人たちを観察していたのだろうか?

 三毛はゾッとして、あとずさった。どうして急に出てきたんだろう?

「それはね、子猫」

 女がまた三毛の思考を読み取ったらしく、三毛はビクリとした。

「ワクチンが来たからだよ」

 意味が分からない。女はゲラゲラと笑い、手にしている本を床に叩き付ける。


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