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砂糖細工の船に乗って  作者: 酒田青
第二章 子供
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子供…図書室・1

 図書室は四階にある。

 回廊から伸び、血管のように一つの階を網羅する白い何本もの廊下の先に、居住区域の隙間を埋めるような形で据えつけられている。

 肺の下の横拡膜の下のように、こちらに迫ってくるかのような白い壁が廊下を塞ぐ。

 五つの白い四角い両開きのドア。

 最上階――五階の植物園とは様相が異なっている。植物園の横に広い壁は、数本の廊下の集まる場所に悠々とある。

 しかし、図書館は各廊下を塞ぐ形で、廊下を圧迫するように存在するのだ。図書館に行くには廊下の突き当たりを目指せばいい。

 図書館は脳に似ている。たどり着くまでの道のりは思考に似ている。行き止まりの白いドアに行き着いた時には思考の行き詰まりを感じる。ドアを開いてみると――。

「頭が混乱してるんだ、メアリー」

 窓辺は輝く太陽光の反射でうるさいほどに物や人を照らす。黄色い小鳥も照らされる。小鳥は機械のようにぶれの無い動きで素早く首をふる。

「僕は頭が混乱しているんだ」

 スチュワートが背の低い本棚にもたれて頭を抱えている。灰色の目は濁っている。

 黄色いカナリヤは鳴かない。黙って首をふり、時々スチュワートの濁った瞳を見つめる。

「僕はするべき事をしたんだろうか? メアリー」

 銀縁眼鏡が白く光る。メアリーと呼ばれたカナリヤは黙っている。

「僕はそもそもどうして子供なんかに関わったんだろう?」

 スチュワートの眉間に深い皺が寄る。強い光が皺に濃い陰を作る。

「僕は誰とも関わりたくなんか無いのに」

 カナリヤの籠はスチュワートの左手の横に置いてある。カナリヤが黄色い輝きを帯びながら羽ばたく。

「僕は君とだけいられればいいんだ。そう、そうなんだ。なのに君以外の人と関わってしまった。許してくれ。許して……」

 消え入るような、弱々しい声。カナリヤは何も言わない。

 三毛はこの光景を、少し離れた場所にある椅子の上から眺めていた。隣にはぼんやりした目の男が座っていて、彼もまたスチュワートを見ていた。

 三毛はじろじろとスチュワートの仕草を観察して、何か異常だ、と感じていた。

 カナリヤを守ることに神経質になっているはずのスチュワートが、三毛がそばにいるというのに気付かないなんて。

 それに、少し言動が普通ではなくなっている。あの夜見た彼の独白はもっと静かだった。しかし今の彼は少し狂気を纏った話し方をしている。

 ピクリピクリとこめかみの血管が浮きだし、メアリー、と何度も呼ぶが、カナリヤを見てはいない。

 異常だ。気味が悪い。

「だから、そうなんだよ、メアリー。僕は君を心から愛してるんだ。そう、そう、3年も前からだ」

 スチュワートの目がギラギラと輝き出した。

「僕はね、僕は君とこうなったことがとても嬉しいんだ。ねえ、メアリー、メアリー」

 神経質な動きで空気に話しかけている。

「どうして泣くの、メアリー。僕を愛しているだろう、メアリー」

 三毛の隣の男は気味悪そうに椅子を離れた。スチュワートの声はますます大きくなっていく。

「君を抱きたかったんだ、メアリー! それの何がいけないんだ! 何故泣くんだ、メアリー」

 スチュワートはヒステリックに泣き叫ぶ。三毛は怖くなった。早く逃げ出したい。

「僕を捨てないで、メアリー! メアリーー!」

 絶叫が響きわたる。三毛は耳を塞ぎたくなった。たがが外れてしまったのだ。ギリギリで自分を保つタガが、フイにガチャンと落ちたのだ。

 静まり帰った図書館には、他に人がいるのかはよく分からない。三毛を包囲するのは眩しい窓と、後は本棚の群れ。

 本棚には情報が詰まっている。三毛には分からない何かの情報だ。船の人々は棚から一つ、詰まっているものを取りだし、パタンと開いて記号を目で追い、情報を頭に入れる。

 三毛にはそれがどういう作業か分かっている。

 己を混乱させるのだ。自ら思考の迷路に飛込んで、そのあと出られなくする作業をしているのだ。

 情報の海は人をまともにしているようには思えない。三毛の嫌う、混乱を、混沌を産み出しているだけのように見える。

 今のスチュワートがいいお手本だ。

「嫌だ、嫌だ、メアリー! 何で僕を怖がるんだよ。僕を嫌うんだよ」

 スチュワートが子供のような口調になってきた。もはや鳥籠なんて見ていない。黄色いカナリヤはスチュワートを見ている。スチュワートは床にしゃがみこんで、涙とよだれで汚れた顔を右手で覆う。

「嫌だよ……」

 三毛にはスチュワートが狂った理由は分かっている。少年だ。

 スチュワートもまた少年に何かを期待していたのだ。優しい何か。無垢な何か。自分を受け入れてくれる何か。

 だけど少年はその全てを裏切ったのだ。全てを拒絶して、スチュワートを含んだ全てを憎んで。

 ヒステリーというのは伝染するのかもしれない。

 少年の強い感情、激しい感情が松子夫人を怖がらせたように、少年の狂気はスチュワートの狂気を呼び起こした。

 三毛は図書館に来たことを後悔した。まさかあの後スチュワートが図書館に来るとは思わなかった。こんな状態に陥っている彼に出くわすはめになるとは。

「うううう」

 スチュワートが意味の分からない唸り声を上げている。

「うううう、メアリー」

 メアリーとはカナリヤのことではないだろう。

「メアリー」

 本棚に背をもたれかけてだらしなく座るスチュワートの、茶色い背広を見た。

 ズボンの股間が盛り上がっている。三毛はぞっと総毛立つような寒気を感じた。

「スチュワートさん……?」

 聞き覚えのある声が、スチュワートの前に立ちはだかる背の高い歴史書専用本棚の向こうから聞こえた。

「ウィルソンさん」

 スチュワートは子供のように体を縮めてそう呟いた。

「ウィルソン? 違いますよ」

 声の主は言う。

「ウィルソンさん、私は娘さんを愛しているんです。だから……」

「私は松子です」

 本棚の陰から出てきたのは松子夫人だった。三毛は驚いて、椅子を飛び下りて松子夫人の元に走った。もちろんスチュワートの近くを通らないように、本棚を一つ迂回して。

「三毛。いたの」

 松子夫人は昼までとは違ってこざっぱりとした格好になっていた。枯れ草色のワンピース。綺麗になでつけられた白髪混じりのくせ毛。

「ウィルソンさん。私がメアリーを犯しただなんて、とんでもありません。私とメアリーは愛し合っています。だからそれは正当な愛の行為です」

 震える声でスチュワートは怒鳴る。松子夫人は恐ろしそうに後じさる。

「どうしたんです? スチュワートさん。あの子に会いに行かれたんじゃないですか?どうなりました?」

 脅えながらも、松子夫人はスチュワートに話しかけ、ぎごちない微笑みを見せた。

「ホプキンスさん」

 スチュワートが今度は哀願するような調子で松子夫人を見上げる。

「私は間違ってはいません。そうでしょう」

「わけが分からないわ」

 松子夫人は三毛を抱き上げた。そして、そうっと後じさる。

 その途端、スチュワートが松子夫人に踊りかかった。松子夫人は鋭い悲鳴を上げ、逃げようとしたが、後ろからガッチリとスチュワートに押さえ込まれてしまった。

「何をするんですか。離して」

 松子夫人が悲鳴混じりに叫ぶ。

「メアリー、愛してる」

「私はメアリーじゃないわ!」

 松子夫人が身悶えする。腕の中の三毛はぎゅうぎゅうと締め付けられて息が出来ない。

「止めてよ!」

 松子夫人の悲鳴がこだました。だけど図書館は相変わらず静かだ。

 その時、鳥の声が聞こえた。歌うような、管楽器のような豊かな鳴き声。その後に、羽音。

 黄色いカナリヤが鳴いた。

 三毛は驚いて鳥籠を見上げた。流れるような綺麗な音が響きわたる。黄色いカナリヤは嘴を開いて、確かに歌っている。

 スチュワートが虚ろな目で鳥籠を見た。腕の力が緩んだ為に、松子夫人は転ぶようにしてそこから逃れ出ることが出来た。

「メアリー。ウィルソンさん。ホプキンスさん」

 カナリヤは歌を止め、また口をつぐんだ。今度はスチュワートが呪文を唱えている。

「メアリー。ウィルソンさん。ホプキンスさん」

 虚ろな目は、黄色いカナリヤを捉えている。

「メアリー。ウィルソンさん。ホプキンスさん」

「あなた狂ってるわ」

 松子夫人がぞっとしたようにスチュワートを睨んでいる。


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