船の人々…二〇四七号室・2
奇妙なロビーだ。カウンターが無い。一面に椅子とテーブルが広がり、簡易な作りの本棚がひとつあるばかりである。
丁度良く古びた本棚は、松子夫人の席の後ろの角に、L字型に取りつけてあった。右側二段目の左から三番目が一冊分空いている。抜けた本は黒壇の丸テーブルの上に置いてあった。花を象った象牙のしおりが挟んである。編みかけのクリーム色の細かいレースはテーブルから垂れ、本に乗った真鍮のかぎ棒を重石にして、ようやく落ちずに済んでいた。
松子夫人はさっさと歩いて席に着いた。クッションの効いた椅子に体を沈め、三毛に手をさしのべる。三毛が膝に飛び上がろうとして身を屈めると、松子夫人の手が三毛の胴体をさっと掬い上げた。三毛は大人らしく振る舞えないことに少し不満を覚えたが、微かにお香の香りのする松子夫人の膝にのせられると安心感を覚え、おとなしく丸くなった。
「ねえ、三毛。私また本を読んだの。どんな話か聞いてくれる?」
松子夫人が三毛を撫でながら言う。三毛は背中をそっと撫でられるままになっている。
「ある男がいるの。男は雌猫に恋をしてるのよ。奥さんなんてどうでもいい位にね。そういうのって、理解できる? 私は三毛が好きだけど、猫に恋をする気持ちというのは分からない。第一三毛は雌だし、まだまだふわふわのちっちゃい赤ちゃんだもんね」
三毛は少し不満げに薄目を開ける。赤ちゃんじゃない。
「男の周りにはね、二人の女がいるの。一人は奥さん。もう一人は元奥さん。二人は男を取り合いしてるの。でも、さっきも言ったように、男は猫のことを一番愛してるから、奥さんのことなんて大して想ってないの。元奥さんなんて尚更ね。でも二人は男を愛してるのよ。報われない愛。可哀想ね。二人はお互いに憎しみあい、様々な策略を巡らすの。そして、男の取り合いは、男が大事にしてる猫の取り合いに発展していくの。男はただただ猫のことが心配でたまらない。女たちなんかどうでもいい。ただ猫が恋しい」
松子夫人は口許の皺を深くして微笑み、三毛ではない何かをぼんやりと見ていた。
三毛は、この話の主旨が分からない。松子夫人が三毛にこの話をした意図も分からない。ただ、その猫はどんなに美しい猫だっただろうと思うのみである。
「三毛!」
三毛はびくりと上半身を起こした。松子夫人が三毛を睨んでいる。
「三毛! あんたはどうしてよその人のところに行くの。あんたは私がご飯をあげてるんでしょう。あんたは私の猫でしょう!」
松子夫人は顔を覆って泣いた。三毛は呆然とした。松子夫人がこんなに取り乱すところを見るのは初めてだった。
「三毛、私はあんたが好きなのよ。私にはあんただけなのよ」
夫人は三毛を胸元に抱き寄せる。三毛は少し息苦しくなった。
「恋をしてるんじゃないわ。でも、あんたがこの世で一番好きなのよ。お願い、よその人のところに遊びに行かないで!」
三毛は困惑した。松子夫人までも、絹子と繭子のように三毛を所有しようとしている。松子夫人は三毛が一番好きな人で、一番気が合って、三毛が不愉快になるようなことは一度も無かったはずだけれど――。




