子供…三〇八二号室・2
寝室のドアを開け、薄緑色の小さなベッドに少年を寝かせた。少年はゼイゼイと息をしながら目を閉じていた。
どこからか、松子夫人が洗面器を運んできた。スカートのポケットからハンカチを取りだし、水で濡らして少年の顔を拭いてやる。再び水につけると、水面が色水のように赤くなった。
「この子は病気なのね」
胸を詰まらせたような、松子夫人の声。
「こんな状態でこの船に来たなんて、残酷すぎるわ」
松子夫人の足元で、三毛はその言葉の意味に気付いた。
この船に乗り込んだその時に、その人物の時間は止まる。
三毛が子猫であり続けるように、乗客たちが歳をとらないように、この少年は病気であり続ける。
血を吐く病気。息が出来なくなる病気。彼は船から降りない限り、そこから逃れられない。でも、船から降りる方法などありはしない。船は陸に着くこともなく、漂い続けているのだから。
三毛は悲しくて仕方がなくなった。少年の永遠の苦しみを思って、息が出来なくなった。
やっぱり、白い船は不幸の船だ。不幸を餌にして、動力にしているのだ。
三毛は老人を見た。老人は少年の為に水を持ってきていた。一口飲ませてやると、少年は落ち着いた。
やっぱり、おじいさんのいうことは間違いだよ。
三毛はこの上なく優しく、親切に振る舞う老人を見つめながら、心の中で叫んだ。
「ルームサービスを呼びましょう」
少年が落ち着くと、松子夫人は老人に言った。
「そうだね。スープでも飲ませよう」
少年の体は痩せ細っていた。棒きれのような手足が哀れな程だった。
松子夫人は広間に戻り、丸テーブルの上のメモに、万年筆で何かを書いた。そして、出入り口のドアの下の隙間に入れた。その瞬間、メモはスッと引き抜かれた。すぐに、ノックの音がした。
松子夫人はドアを開ける。だが外には誰もいない。卵のスープが入った皿を一つ載せたワゴンがポツンと取り残されていた。
松子夫人は慣れた様子でスープを取り、ドアを閉じて戻ってきた。それまでに起きた奇妙な物事について気にすることもなく。
三毛はその正体不明の者が、憎くなった。船に隠れている者、船を操る者、乗客たちを船へおびき寄せる者。
まるきり実体が見えなかった。それでも憎かった。