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砂糖細工の船に乗って  作者: 酒田青
第一章 船の人々
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船の人々…二〇五五号室・7

 それでも三毛は、男を尾行することを選んだ。三毛は男の開いた後の硝子戸の隙間に滑り込もうと、光の模様の一部になりながら静かに走った。

 男の足元に素早く張り付き、開いたドアをすり抜けようとしたとき、カナリヤの視線に気付いた。三毛をまた見ていた。

 月は満月に近付いていた。明るい夜、明るい星。三毛は硝子戸の側に立ち尽くして空を見た。こんな夜は本当に素敵だ。

 男は船の先端に立っていた。片手を手摺にかけ、揺らさないように、そっと鳥籠を下ろした。真剣な顔、壊れ物を扱うような慎重な手付きで小さな戸口を開いた。黄色い鳥を肩に乗せる。

「素晴らしい夜だ」

 男は独り言のように呟く。もちろん、カナリヤに語りかけているのだ。カナリヤは男の肩でじっと動かず、物静かに止まっている。

 真っ白な、だだっ広い甲板の中、男の真っ直ぐな細い背中は儚いもののように見えた。

 一方の三毛も、巨大な屋根と厚い硝子壁の下では、ちっぽけな存在だった。

 男の肩のカナリヤだけが、二人のことを知っていた。

「メアリー」

 男が囁いた。カナリヤはそっと男の方を見る。その姿は生き物と思えないほどに神秘を帯びていた。

「僕が君と出会った時のことは覚えているだろう? 君は毛が生え揃い始めた雛鳥だった。君は僕が住むアパートメントのお隣さんの家で生まれた。君は声が出なかった。カナリヤなのに、歌えなかった。だから、処分されそうになった。僕は君を愛していたよ、出会ったその日から。声の出ない君を、僕は愛さずにはいられなかった。だから、雛の内から引き取った。僕は出来損ないだ。とうとう論文を完成させることが出来なかった。父や周りの連中に僕の存在を認めさせるには、それしか方法は無かったのに。メアリー、僕は学者になりたかったよ。学者になって、僕をないがしろにした連中を見返してやりたかった。でも、僕は出来損ないだ。駄目だった。君を愛したのは君に烈しい同情心が起きたからだ。救ってやりたいと思った。でも、今救われているのは僕だ、メアリー。君がいることで、あの酷い事件での死ぬような苦しみを耐えることができた。今も、君がいるからこそ、このろくでもない船で耐えていけるんだ」

 小鳥は、この独白に近い男の言葉を聞いているのだろうか? 肩にとまったカナリヤは、微動だにせずに遠い海を見つめる。水面がキラキラと輝いている。

「僕らがこの船に乗った日も、月はこんなに明るく輝いていた。綺麗な夜だったよ。だけど僕にとっては苦しい夜だった。何故僕は船に乗らなければならなかったのだろう? こんな陰気な船に。君を道連れにして。僕には未だに分からないんだ」

 男が手摺に寄りかかる。カナリヤを床に降ろし、カナリヤはよちよちと鳥籠の中に入った。

 男が振り向く。三毛が驚くような優しい表情だった。しゃがんで、そっと籠の入り口を閉じる。

「もう疲れたのか? じゃあ、部屋に帰ろうか」

 鳥籠を持ち上げる。男がこちらにやってくるのを見て、三毛は慌てて柱の陰に隠れた。

 男とカナリヤは滑るように前を通りすぎた。硝子戸は開き、閉じた。

 三毛は不思議な思いで立ち尽くしていた。

 あまり好きではない男の風変わりな愛情の正体を見てしまった。だが、ちっとも歪んでいるようには感じなかった。

 三毛はカナリヤのことを考えた。彼女は完全な神秘だった。とても美しかった。

 三毛は、カナリヤと自分について考えた。カナリヤと男の関係、三毛とホテルの住人たちの関係。カナリヤの男に対する完全な愛情、三毛の不明な感情。

 難しい問題が多すぎた。三毛は明るい甲板の中央に進み出た。海は穏やかだ。月も星も三毛に優しい。三毛はそこに座る。

 今夜はここで寝よう。今日は疲れてしまった。それに涼しいし、全てが三毛に優しい。

 三毛自身について考えよう。

 明日について考えよう。

 三毛は目を閉じて海の音を聞いている。


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