船の人々…一〇二五号室・2
「ああ、優しいわね三毛は。でも、不安なの。お花がないんだもの。もっと慰めて欲しいわ」
巻き付けた袖の上から、三毛をきつく抱き締める。三毛はもういい加減解放してほしいのだが、姉妹とは仲良くしておかなければならないからそう邪険にはできない。またしても繭子の為にニャーンと鳴いてやる。
「繭子さん、大丈夫だと言っているでしょう? この調子なら船は二、三日中には新しい土地に着くわ。お花ならその時手にはいるわよ」
枯れた白百合を右手で撫でながら、藤椅子に身を沈めた絹子が言う。紺のサマードレスの裾が乱れ、組んだ足の肉感的なふくらはぎが溢れた。
「それにお茶があるでしょう。薔薇とハーブのお茶。それで生きて行けるわ」
「そうだけど……」
繭子はまた沈んだ顔で三毛の小さな頭に頬を寄せた。三毛はのどを鳴らしながら薄目で二人の姉妹を見つめた。
三毛はこの二人が花だけを食べて生きていることを知っている。薔薇の花びらの砂糖漬け、花びらのお茶。絹子が生けてある花をちぎってそのまま食べているのも見たことがある。花の香りも無くてはならないものだ。姉妹はとにかく花に触れ続けていることで命を保っているのである。
三毛はこの部屋の香りが好きだ。ちょくちょくお邪魔して、姉妹の命の源である花の香りを少しだけ頂きに来る。ここに漂っているのは、本物の、自然の花の香りだ。三毛はうっとりするようなこの部屋の香りを胸一杯吸い込み、後は姉妹と適当に遊んであげて、もっと居心地のいい部屋に行く。
繭子の心配症には我慢がならない。ちょっとしたことで動揺し、三毛をべたべた構おうとする。
絹子は謎めいた女性だ。彼女は何を考えているのかさっぱり分からない。いつも余裕の笑みを浮かべ、来客に対しては、三毛のような粗末に扱われ勝ちな子猫だろうと丁寧に受け入れる。不思議な女性だ。三毛がこの部屋を訪れるのは、香りのためだけではないようだ、と三毛自身自覚している。
不意に、絹子が立ち上がった。円い部屋を取り囲む四つの白いドアの一つを開けて滑るように中に入り、間もなく何かを手にして出てきた。
「花が枯れたんだもの。私達には花の香りが必要だわ」
琥珀色の液体の入った香水のビンを高く掲げ、一吹きした。三毛はギャッと叫んで繭子の手を逃れ、そのまま窓に突進して大騒ぎしながら出ていった。生きた花の香りが良くても、香水の香りはどうしても駄目だ。三毛はまた太陽が激しく照り付ける外にいることになってしまった。
中から姉妹の声が聞こえる。少し笑っているらしいので、三毛はさっきの自分のまぬけな姿を思い出して羞恥を覚えた。
「三毛ったら、香水は嫌いなのね」
「おかしかったわね、三毛ったら……」
「これからしばらく花の替わりに香水の蓋を開けて置いておかなくちゃならないわ」
「じゃあ三毛はその間来てくれないわね……」
「また泣くの? 繭子さん。こちらから会いにいけばいいじゃない」
「だって、三毛はいつも誰か私達以外の人のところにいるんだもの……。見付かりっこないわ」
「もう、繭子さん、泣かないで。花を買って、香水をしまえば三毛は帰ってくるわ」
「……そうね」
「それに、三毛が私達以外の人といるのは食べ物のためよ。私達は花しか持たないから。三毛にはお肉やお魚が必要なの」
「ええ」
「三毛は私達の猫よ」
「ええ」
最後の繭子の言葉に元気が戻ったことに、三毛は少し戸惑った。三毛は姉妹の猫になったことは一度もない。これからもなるつもりはない。
三毛は、過ごしやすい別の部屋を訪ねようと、ホテルの正面入り口に向かった。