船の人々…二〇五五号室・5
それまで無心に話していた松子夫人は、何かに気付いた顔をした。そして笑った。
「昼読んだ小説そのものじゃない、あの男。ねえ、三毛?」
恋の相手が猫なだけに、三毛は小説の男を笑えはしなかった。それに、二人の人の女に愛された彼と違って、カナリヤの男には、カナリヤ以外誰もいなかった。
松子夫人もそのことに気付いたようだった。真顔になって黙りこんだ。
しばしの沈黙のあと、口を開く。
「哀しいわね。哀しい人だわ」
そして、多弁を恥じるように、目を閉じ、椅子に深く沈み込んだ。
三毛も、目を閉じた。
三毛は、二〇五五室の中を想像した。
そこは、無機質な部屋だった。無地の灰色の絨毯とカーテン。硝子と金属で作られた家具。人間が住んでいるとは思えないくらい清潔だった。
ただ一つ、異彩を放つものが、丸い大広間の中央に置かれた硝子のテーブルの上に載っていた。丸い籠に入った、黄色いカナリヤ。
ひどく無口なカナリヤに話しかけているのはあの男だ。
栗色の髪を後ろになでつけ、銀縁眼鏡をかけた男は、時代遅れの堅苦しい背広を折り曲げてテーブルの前にしゃがみ、灰色の目でカナリヤを見つめる。
カナリヤは男がいることを分かっているのかいないのか、黙って翼を広げ、その柔らかい羽の一本一本を小さい嘴で櫛けずる。男は目を細める。
「僕たちは、恋人同士だ」
男は微笑んでいる。他の人間には決して見せない顔。
だが、小鳥は彼を意に介していない。狭い籠の中の止まり木を、行ったり来たり、気ままに遊んでいる。
「僕はね、君」
男は、あの高ぶった、こわばった喋り方を忘れ、この上無く穏やかな話し方をする。
「君が居てくれれば、寂しくない」
カナリヤはカタカタと止まり木を鳴らす。
「一生、僕の側にいて欲しい」
男の顔は、切実さに歪んでいた。
「夜、一緒に寝ましょう? 三毛」
ドアノブに手をかけた松子夫人が、三毛に懇願した。ドアの外はもう廊下だ。