運命はノックしない
運命はノックをしない。
誰の言葉だったか。
きっと誰にとってもそうなのだろう。予兆を示しず、突然に湧き上がって人間を振り回す。
妻が出て行ったのも唐突であった。
妻は、大事にしていた。その自覚があった。
元来ぶっきらぼうな自分だ。しかし妻には、とことん惚れていた。惚れたものには弱い。
仕事には荒かったが、それは懸命さのもう一側面である、と思っていたし、妻もそうだと認めてくれていた。
家庭ではその分努めて優しい振る舞いをしていた。
しかし、唐突に、妻は冷めた。
妻にとっても、きっと思いがけないものだったのではあるまいか。
真美にすら、あまり執着はないようだった。新しい場所で、新しい生活をしたいと言い出した。引き止めたが、聞かなかった。まったくの取り付く島のない格好で、頑なであり、そんな妻を見たことはなかった。
「真美には、なんと言ったらいい」
「幸せを掴んでね、と言ってあげて」
ただそれだけだ。残した言葉は少なかった。次の日には荷物をまとめ、真美と特段の別れの席も設けることはなかった。
妻には、男がいたのだろう。
月並みな展開だが、そう考えるのが自然だ。
妻の心はつっかえ棒で支えられていたのだと思う。予兆はなくとも、内に潜めたる何かがあり、それは家庭だとか結婚だとかいうつっかえ棒によって支えられていたのに違いなかった。
そして唐突に、棒は外された。あるいは、支えきれず、折れたのか。判断するには材料が足りなかった。
人間にはみな、そうしたつっかえ棒があるのだろう。皆さまざまな荷物を抱え込んでいる。それらは責任であるとか、義理であるとか、いろいろな名前はつけられてはいるが、捨て去ることも難しく、それなしで生きることは許されず、さまざまなつっかえ棒を用いてその重さに抗うのだ。
そして、何かのはずみで、棒はぽきりと折れてしまう。
真美の心の支えを奪ったのは、なんなのだろう。
車はいくつかのトンネルを抜け、すっかり山の奥に入った。しばらく左右に砂防ダムのダム湖が現れる。
アクセルを緩めて、湖の景色に少し見とれた。
湖を抜けると間もなく、シゲさんのいる病院が見えてくるはずだ。
山から押し寄せる木々に、
押しつぶされてしまうのではないか。
そう思えてしまうほど、建物は森の中に沈んでいた。
蔦か何かが押し寄せた木々の上にはびこって一層陰鬱に見えた。
以前から、こうだったのか、記憶が曖昧だ。とにかく、何年かぶりに訪れた。ひどく様子が変わったようにも思えるし、相変わらずにも思える。
シゲさんの病室は一番上の階に移されていた。シゲさんの希望で、定期的に部屋を変えているのだという。
「探しましたよ」
開口一番そういうと、シゲさんはベッドの上から腕だけをあげて手をゆっくり振った。
「一年中同じ景色じゃ、嫌んなっちまうからねえ」
「確かに」
上着を抜ぐと、ふっと力が抜け、スツールの上にどすんと崩れた。
「お疲れみたいだな」
ベッドの脇に置かれた鏡に、自分の顔が映った。確かに一気に老け込んだ気がする。
シゲさんのほうがかえって元気にみえた。
「急ぐんだろう?」とシゲさん。「気遣いや挨拶は抜きだ。本題にとっとと入ろうじゃないか。俺に、何をして欲しいんだい?そのベッドから動けない坊やと、肉弾戦でもするのかな?」
シゲさんは同じくベッドに張り付きっぱなしの体を震わせて笑った。
「娘の話はしたことがなかった気がします」
自分の声が、自分のものでないように聞こえる。
「ハッピー・エンディングを読んでから、おかしくなりました」
ほう、とシゲさん。
「詳しく、話してごらん。小さな話でもいい、こんな寝たきりの年寄りにも、力になれることがあるかもしれない」
詳しく話す、といっても正直まだ自分でもどこまでの話なのかが定かでない。定かではないがとにかく話した。よもやまに話すより他しようがない。話しながら、これは全て夢ではあるまいかという気すらしてきた。
「ふうん、面白いな、しかし真美ちゃんだったかな、性急にことを運ぶことはないと思うよ」
なぜなら、とシゲさん。
「ハッピー・エンディングの最終話が投稿されるのは、まだ少し先らしいからね」
「先?」
「そうさ、儂も読んでいる。流行には目が無くてね」
血の気が、すっと引いた。