奔走
どうしていつも、忘れてしまうのだろう。
少しガタが来たとはいえ、
十分に健康な体を持っており、
当面生活にさしたる不安もない。
そして、家族がいる。
妻はいなくなってしまったが、
まだ娘がいる。
辞書を引けば違うことが書かれているに相違ないが、
幸せとはこういうことなのだ。
しかし、あの少年にとっては、
そうではないらしい。
認めなくてはならない。
あの少年は天才なのだ。
しかしあの天才は、当たり前の幸せを知らぬのだ。
人を惹きつけることはできても、
導くことはできないのだ。
殺意とは静かなものだと言っていたな。
家に帰ってから靴下を脱ぐのと同じくらい、決まりきったことのように、 ただ殺そうと思うものなんだ。
そうとも言っていた。
分かる気がしてきた。
真美にもしものことが起きたら、もっとはっきりとそれを感じることだろう。
しかし今はそれどころではない。
電話は繋がらない。
何度かけても繋がらない。
家に取って帰ろうか。
しかし、家にはおるまい。
真美の声には覚悟があった。
友達のところか?
しかし真美の友達など、
誰一人知らない。
焦れば、事態はさらに悪化する。
大人は、焦らない。焦ってはならない。
子供のように無闇に動いて、
傷口を開くような無様はしない。
整理しなくてはならない。
しかし一人ではそれもできそうもなかった。
頼りになりそうな人間?
しかし、こんな事態に対処しうる人間はいるだろうか。
シゲさんの名前が真っ先に脳裏に閃いた。
あの少年がある種の天才であるならば、シゲさんもまた、そうである。
シゲさんのところへいこう。
ここからならそう遠くない。
飛ばせば一時間といったところか。
電話をしながら事情を説明し、
知恵を借りればいい。
シゲさんならどうにかできるのか、定かなものではない。
しかし、他に頭が回らなかった。ハンドルをひねり、アクセルを踏み込む。旋回しおえてから、通話ボタンを押した。
電話をかけると、すぐに繋がった。久方ぶり、というやや寝ぼけた声が電話口から聞こえてきた。
「余計な挨拶は抜きにしますよ」
「いつもは挨拶してるみてえだな、用件だけ聞いて切るじゃないか」
「そうでしたね、とにかく簡単に事態を説明します」
「ハッピー・エンディングのことなら、少しだが知っているよ。そのことじゃないのかい?田所くんの担当だとか」
太い息がこぼれた。
「さすがですね」
「寝てばかりいるからなぁ、パソコンたぁ偉いもんだ。私のような人間にも世界を見せてくれる。もっとも、生きた情報とは言い難いがね。ところで、田所くんは岬アナは好きかね?」
「岬?朝の番組によく出てますね。別に好きではないですが。
しかしそれが何か?」
「私はわりとタイプだったんだなぁ。可愛らしいし、ドジがいつまで経っても抜けないところが、
たまらなく愛おしくてね」
「そうですか」
「朝彼女を見るとな、また今日が始まってくれたと感謝できる。健康な人間には分かるまいがね」
朝の番組は、これから始まる憂鬱な仕事の合図であった。
自分も病に倒れればきっと、
そう感じるのだろう。
「しかしもう見ることができなくなってしまって残念だ」
「残念?」
そうだ。しかし田所くんが好きではなくてよかった。好きな人の死は、たとい、テレビの中だけの存在でも辛いものだから。
シゲさんはそう答えた。
「今日の朝まですこぶる元気そうでしたが」
「そうだな」
「事故ですか、自殺ですか?」
「そうだなぁ、自殺だろうと思う」
「何故です?」
告白したんだとよ、とシゲさん。
「番組の司会の男、ちょっといい男だったろ?ナイスミドルというのかな。好きになってしまったらしいのさ」
「失恋くらいで死ぬだなんて」
それなんだがなぁ。惚けたような声が鳴る。
「田所くん、告白を受けたらしいんだ司会の男は。オッケーをもらえたから、死んだんだとな」
エンジンが少し焼けた匂いを放ち始めた。スピードメーターなぞ見るまでもなく、法定速度を越えている。これで警察に捕まったら笑い話にもならない。
大きな交差点から山に向かう道に折れる。ここからはしばらく信号もあまりない道だ。
「事故しないようにな、かなり飛ばしているようだが」
「気を付けましょう。いや、
今の話を聞いて少し冷静になりました。つまり、事態は最悪だってことです」
腹を括らなくてはならない。
岬アナを殺したのは、間違いなくハッピー・エンディングだ。
朝の番組中に、彼女はまだ読んでいないから読むと言っていた。
「シゲさんの知恵を貸していたたきたい。勝手ながら、今もうそちらに向かっています」
「構わんよ、年中暇しとる。
しかしどうやら、田所くんの周りにも、何か影響が出たようだな」
「ええ。とにかくついてから
ご説明しますよ、一切合切。
簡便にいうと、シゲさんだけが頼りです」
携帯電話の音が途切れがちだ。
「こんなジジイに頼るなんざあ、相当ひどい事態なんだな」
電話の向こうのシゲさんの声にはざあっと雑音が混じる。
車の速度を出しすぎなのかもれないと思ったが、アクセルを緩めなかった。
「この事態に、タイトルをつけるなら、なんだい?」
「そうですね、まさしく、ハッピー・エンディングってところですよ」
ちょっとくらい車飛ばしてみたところで大した意味はない。しかし急がずには
おれなかった。