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吹かない風


 カローラワゴンは実にいい車だと思う。

営業車の代名詞みたいな車だが、なかなか気に入っている。

車検を三度も通った古強者だ。

低速で走っているとエアコンをつけただけでエンジンが止まるのには閉口するが、

それでも出版業界人特有の荒い運転にしっかりとついてきてくれる。

煙草嫌いの人間も乗るのだからと近頃禁煙車扱いにされてしまったが、

そんなことはお構いなしだ。

 携帯電話とインターネットで最近の若い連中は仕事を大半済ましてしまう。

わざわざ車をあちこち回る人間は、自分だけになってしまった。


 パソコンも得手でなく、携帯も上手に使いこなせないような人間は、

もはや化石と変わらないらしい。シーラカンスとあだ名されているのも知っている。

社内でおそらく自分と似た種類の人間は、編集長ただひとりだろう。


 何本後ろ指を差されようとも、自分には新しいことを憶える必要などないのだ。

若くない。三十まではまだ若いと思えたが、不惑の歳を迎えると、

若くないのだということをはっきり認識するようになる。

新しい材料を手に入れてどうこうしたいとは思わなくなる。

今まで十分に溜め込んだ、手持ちの材料だけで生きていたいと思うようになるものなのだ。


 近しく、感動した出来事などない。翻って、では絶望した出来事も近しくない。

人生は凪いでいる。強い風が吹き荒れる夜はもうこない。

歳を取るとはこういうことなのだと了解している。


 では編集長はどうか。自分よりさらに歳を重ねているのだから、

一層そうした兆候が強いと考えるのが自然であり妥当であろう。


 ところがどうか。

あんな餓鬼の書いた小説ひとつで、

蹴たぐりでも食らったようにころりとひっくり返ってしまった。

豹変といっていい。ハッピー・エンディングとは一体どういう小説なのだろうか。

こんなにも渇き切った自分にも、ある種の衝撃を与えうるものなのだろうか。


 カローラワゴンの古くさび付いたエンジン音が、頭の中で鳴り響く。

パワーウインドウもついていない骨董品だが、

そうだ、自分にはこれが合っている。合っているのだ。

変えてはいけない。自分を捻じ曲げるようなことはあってはならぬ。


「あなたには、もうついていけないの」

妻の一言が、脳裏に蘇った。もう顔も声も上手に思い出せないというのに、

その台詞だけがエンドレスのテープのように時折思い出されて責め立ててくる。


 これでよいのだ。変わることを拒否した人間なのだ。

もちろん意固地に我を貫いていれば人生うまくいくなどとは思わない。

まっすぐしか走れぬ車は、緩いカーブでも激突してしまう。

周囲にあきれられることもある。

それでも、今まで生きてこれたのは、

先も分からぬ人生の地図の上で、無闇に曲がるような愚かな真似をしなかったためなのだ。

下手に曲がれば、道を失う。それが四十年生きてきて唯一確かに学んだことだ。


 大通りを折れて県道に入る。このまま道なりに進めば、

少年のいる病院が見えてくる。

午後のラッシュに突き当たったか、さっきまで空いていた道は急に込み出した。

舌うちまじりに、車列の最後尾に車を寄せる。

と同時に、携帯電話の着信音が鳴った。

真美からだった。

「お父さん、お父さんはもう読んだ?」

何を、と問い返すまでもなかった。

吹かぬと思っていた風の気配を確かに感じた。

真美の声は小さく、いつもの真美の声ではなかった。

「私、やっと見つけたの。私のハッピー・エンディングを」


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