兆候
会社についた田所。
しかし編集長の様子がおかしい。会社全体の空気もどこか違っていた。
少年の吐き捨てた言葉が蘇ってくる。
「相変わらずの重役出勤だな、田所君」
会社に着くなり、編集長が出迎えてくれた。
待ち構えていた、と言ったほうがよいか。
「昨日は徹夜でしてね、午後出勤の許可はもらっていたと思いますが」
「いいさ、いや、いいんだ。そんな瑣末なことはもうどうでもよくなった」
鬼編集長らしくもなく、表情は柔和だった。右手には新聞が握られていた。
「君が担当のハッピー・エンディングが、記事に取り上げられているぞ」
「おや、テレビでもやってましたよ。仕組んだような早さですね」
「仕組んだのさ、私から働きかけたんだ。ある程度だがね」
どおりで早かったわけだ。しかし編集長がそんなお節介をした話は聞いたことがない。
「担当として、鼻が高いですよ」
適当な返事をして、編集長に背中を向けた。
上着を椅子にかけながら机の上のガラクタをのける。
仕事にかかろうとしたその手を、編集長ががしんと掴んだ。
「君は、読んでいないって聞いたが、本当か」
「ええ。ご存知なかったですか?奴さんの条件で、
校正その他一切手出し禁止なんでね」
つまり、編集者としての仕事などほとんどやっていないということだ。
少年が社内用パスワードを使って勝手に小説サイトに投稿してしまうだけなのだから。
通常、素人でもない限りこんなことはしない。
小説は編集者と作家が二人三脚で作り上げていくものだ。
今回はそんなものを一切無視した格好だ。
お叱りが飛ぶかと思ったが、編集長の表情は、そういう空気のかけらもなかった。
「なぜ、読まない。あれは、百年に一度の名作だ。
この歳になって心をここまで揺らされる事態が起きるとは、露とも思わなかった」
「読めとおっしゃるんでしたら、お断りしますね。
読んじゃいませんが、俺はどうせ青臭い恋愛物語だろうとあたりをつけています。
そういう小便くさい話は嫌いなんで」
「何を言っている、そんなレベルの話じゃあない。
全ての人間の深いコンプレックスをゆすぶってくる、そういう物語だ。」
ほうっておいたら、編集長は泣き出すのではないか。そう思った。
声を震わせ、目には力がない。
編集長はこんなに老けていただろうか?自分より一回り年かさだから無論若いはずもないが、
もっと活力といったものがあったように思う。
「妻に出ていかれてから、君は荒れ出したな」
編集長の手が伸び、今度は肩を掴まれた。
「出ていく前から、生意気でしたがね。それがどうしたんです?」
「そんな君に、私はいつも冷たかった。今ここでそれを詫びたいと思う」
編集長は机の上に倒れかかるようにしてこうべを垂れた。
面食らって、言葉がすぐには出てこなかった。
「一体どうしたってんですか」
「あの作品を読んで、幸せとは何かを考え直したんだよ」
「それはそれは結構なことです。しかし、仕事ができないんですが」
「構わん、仕事なんて所詮、生きるための付録に過ぎない」
まったくどうなってやがるんだ。仕事以外に趣味もないような中年が、
理解不可能な発言を繰り返している。
そういえば、社内全体の空気がどこかおかしい。
静かだ。みな、葬式にでもしているかのように、大人しい。
いや、気のせいだろうか。
とにかくこの場にいたらこっちまでおかしくなってしまう。
「外回りに行ってきますよ、仕事なんざ外でもできる」
「おお、行っておいで。無理はしないように」
編集長の優しい言葉を背中で受けて、外へ出た。
口やかましいこと以外取り柄などない男だと思っていたが、
こうなってしまうと、おぞましいくも思えてくる。
営業車に乗り込むと、またひとつ少年の言葉が脳裏に閃いた。
「僕はこれで人を幸せにも不幸にもできる」
そうだ、確かにそう言っていた。そして、もうひとつ続いていた。
「殺すことも」
まさか、な。
いつもは調子の悪いエンジンが一発でかかった。さて、どこに向かうか。
といって、行くべきところはひとつしかない。
あの少年とはなるべく顔を合わせたくはなかったのだが。