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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

悪役令嬢? なんですの、それ。私は、ただの悪女です。

作者: 岡谷あやこ
掲載日:2026/11/06

第1話 ウジ虫がわいております



 婚約者とのお茶会は、月に一度と定められております。

 定められているのは、回数と場所だけ。相手が時間どおりに現れることまでは、残念ながら定められておりません。

 王宮の薔薇園は、春の盛りでした。白い東屋の丸い屋根に陽が落ち、磨かれた銀のポットが、空の青をそのまま映しております。淹れたての紅茶は、とうに香りを失いました。侍女が二度、黙って取り替えてくれましたが、三度目は私《わたくし》が断りました。

 もったいないですもの。

 エルディア王国には、五つの侯爵家がございます。そのひとつに生まれ、なに不自由なく育ちましたのが、私、ヴィオレッタでございます。絹の衣も、宝石も、この薔薇園でいただく紅茶も、すべて民の税と領地の実りから成るもの。贅沢な暮らしと引き換えに、娘には役目が課せられます。

 家門のために嫁ぐこと。

 私の場合、お相手は王太子殿下でした。

「待たせたな」

 悪びれない声と共に、金の髪が東屋へ入ってまいりました。

 レオナール殿下。この国の王太子にして、私の婚約者です。半刻の遅刻に対するお言葉は、以上で終わりのようでした。殿下は椅子に深く腰掛け、長い脚を組み、焼き菓子をひとつ、無造作に口へ放り込まれます。

 顔立ちは、整っていらっしゃいます。ええ、それは認めましょう。

「来週から学園だな。お前も、少しは肩の力を抜くといい」

「ご配慮、痛み入ります。周辺諸国の言語の課題が残っておりますので、抜ける肩があるかどうか、怪しいところですけれど」

「また勉強か。そんなものは、できる者に任せればいいだろう」

 殿下は屈託なく笑われました。

 できる者。

 殿下の頭の中で、その言葉は誰を指しているのでしょう。扇の陰で、私はそっと息を吐きました。

 上位貴族、とりわけ五つの侯爵家には、国を代表する者としての責務がございます。自国のことは当然。周辺諸国の言語、歴史、法、贈り物の作法に至るまで、学ばなければなりません。王妃となる者には、さらに山のような勉学が待っております。

 現王妃陛下は、それをすべて全うなさいました。

 そして、陛下の隣で笑っていらっしゃるのは、別のお方です。

「父上と義母上を見ていると、思うのだ」

 二つ目の焼き菓子に手を伸ばしながら、殿下が続けられました。

「王にも、心を休める場所が要る。難しいことは、それに向いた者が引き受ける。理に適っているだろう?」

 国王陛下の寵愛を受ける側妃様は、子爵家のご出身です。本来ならば、王籍に名を連ねることすら憚られるご身分。それを陛下が押し通されました。責務はすべて免除。国を代表する知識は、お持ちではありません。ご本人はそれを幸運と喜び、王妃陛下に本気で感謝していらっしゃいます。野心は、かけらもございません。そこが、かえって厄介なのです。

 陛下は、それで良いと仰います。側妃は王を癒す存在であれば良いのだと。

 正直なところを申しますと、ふざけるな! という言葉しか思い浮かびません。

 王妃陛下とのご結婚は、政略でした。愛はなかったのかもしれません。ですが、その政略結婚で王太子の地位を固め、国王となられたのです。

 陛下は、お忘れのようですけれど。

 王妃陛下も、そのご実家も、他の侯爵家も、忘れてはおりません。

「理に適っている、とは存じませんでした。勉強になります」

 微笑んで、私は冷めた紅茶を口にしました。

 殿下は満足そうに頷かれます。皮肉という概念は、殿下の教育課程には含まれていなかったのでしょう。

 やがて、回廊の向こうから、書類の束を抱えた人影が近づいてまいりました。黒に近い栗色の髪。飾り気のない上着。東屋の手前で足を止め、きちんと一礼いたします。

「お話し中に失礼いたします。兄上、財務の決裁が今日までです。お返事がなければ、書記官が困るそうで」

「お前が見ておけ、アルベルト。得意だろう」

「署名は、兄上にしかできません」

 第二王子、アルベルト殿下。側妃様のお子で、半年遅れの同い年でいらっしゃいます。

 渋々と立ち上がった王太子殿下が、ご機嫌ななめに回廊へ向かわれる間、アルベルト殿下は私に向き直りました。静かな灰色の瞳が、取り替えられずに残った冷たいカップへ、一瞬だけ落ちます。

「兄が、お待たせしたようで」

 謝罪は、それだけでした。

 ただ、そのあと控えの侍女に、小声で新しい紅茶を頼んでくださったのです。それから、もう一度丁寧に礼をなさって、兄君を追っていかれました。

 湯気の立つカップが、私の前に置かれます。

 ――正直に申しましょう。

 王太子殿下より、第二王子殿下の方が、私の好みです。顔も、言動も、何もかも。王太子殿下より優れていらっしゃいます。

 私比、ですけれど。

 もちろん、口に出したことなどございません。我が儘の言える身ではありませんし、言うつもりもございません。私は侯爵家の娘です。

 ですが、もうひとつ、口に出していないことがございます。

 帰りの馬車の窓から、王宮の尖塔が遠ざかってゆくのを眺めながら、私は父の書斎で聞いた話を思い返しました。

 野望とは、尽きぬものです。

 側妃様の例を挙げ、伯爵家以下の貴族が、寵愛を足がかりにのし上がる企みを巡らせている。そのような報せが、複数の筋から入っておりました。知識は不要。煩わしいことは王妃に任せれば良い。王が例外を作ってしまったがために、都合の良い夢を見るウジ虫どもがわいてしまったのです。

 王太子殿下に嫁ぐのは、王国のため、家門のため、吝かではございません。

 で、す、が。

 私、側妃は認めませんわ。

 側妃を娶りたいのでしたら、辞退いたします。これは王妃陛下のご実家を除く、四つの侯爵家の総意でもございます。

 王妃陛下のご苦労は、存じております。ですが、次代がそれを引き継いで当然、というお考えには納得いたしかねます。息子が父を真似ると言い出す前に、止めるべきだったのではないでしょうか。

 愛するのは側妃だけ。国王に据えるのは側妃の子。

 あのお方が、いずれそう言い出すことは、今日の薔薇園を見ずとも、目に見えておりました。

 馬車が石畳の上で揺れます。膝の上で扇を開き、また閉じました。

 良識ある貴族家は、すでに動き始めております。王家も、王妃陛下のご実家も、預かり知らぬところで。

 私はただ、淑女らしく座っているだけ。

 もう、手遅れです。



第2話 ひとりの少女に群がる五人



 おかしい。

 そう気付いたのは、学園の楡《ニレ》の葉が黄色く色づき始めた頃でした。

 貴族の子女が、主に社交を学ぶために十五歳から十八歳まで通う学園。王都の北に建つ灰色の石造りの学舎は、小さな社交場であると共に、少々特殊な空間でもございます。常ならば言葉を交わす機会のない下級貴族と、接点を持てる場所。身分にかかわらず有能な者を見つけ、己の判断で友好を築く場所。

 同時に、親の目が届きにくい場所でもあります。

 もっとも、まったく届かないわけではございません。

 王族と、その婚約者には、王宮直属の影が護衛兼監視としてついております。それとは別に、上位貴族の多くは、子供がつつがなく学園生活を送れるように――実際のところは、しでかした失態を即座に把握できるように、家門の諜報員を送り込むものです。我が家も例外ではなく、専属の諜報員が私を見張っております。

 幼い頃からのことですので、慣れすぎて、もう気になりません。

 王族ともなれば、日々注目の的。視線を向けられるのが当たり前すぎて、影の存在など忘れていらっしゃるかもしれません。

 それでも、羽目は外しやすいのです。年頃の少年少女ですもの。多少の浮つきは、見て見ぬ振りをするのが作法でございます。

 ですが。

 昼下がりの中庭に、笑い声が響いておりました。噴水の縁に腰掛けた、亜麻色の髪の小柄な少女。その周りを、五人の令息が取り囲んでおります。

 王太子レオナール殿下。

 そして、その側近候補である四人の令息。財務卿家のユリウス様。騎士団長家のガレス様。外交官家のフェリクス様。宰相家のニコラス様。

「ミア、その菓子なら俺が取り寄せよう」

「いや、王都一の店なら僕が知っている」

「下がれ。ミアは俺と話しているのだ」

 王太子殿下に一応は気兼ねしつつ、それぞれが少女の気を引こうと躍起になっております。騎士の卵は剣の稽古を抜け出し、将来の宰相は書物を放り出し、財務卿のご子息は、どう見ても予算に見合わぬ小箱を差し出していらっしゃいました。

 見ていて、情けない限り。

 少女の名は、ミア。男爵家のご令嬢です。

 身分に関係なく友好を築くのは、むしろ結構。ですが、あれは友好ではございません。ひとりの少女に群がる五人。餌に寄る鯉でも、もう少し順番を守ります。

「ヴィオレッタ様」

 背後から、小さく名を呼ばれました。

 振り返ると、四人のご令嬢が並んでいらっしゃいました。

 財務卿家のユリウス様の婚約者、コルネリア様。騎士団長家のガレス様の婚約者、ベアトリス様。外交官家のフェリクス様の婚約者、イザベラ様。宰相家のニコラス様の婚約者、ルイーゼ様。

 いずれも見合った家柄の、政略による婚約者でございます。そして皆様、ご自身の役目を心得た方ばかり。

 噴水を見つめるコルネリア様の目は、帳簿の赤字を見つけた時のそれでした。

「先月だけで、贈り物が七回です」

「ガレス様は、今週二度、稽古を休んでいらっしゃいます」

「ニコラス様も、お手紙のお返事がぱたりと」

 淡々と並ぶ報告に、私は目を伏せました。

 一人なら、若気の至り。二人なら、悪い流行り。ですが五人、しかも一国の中枢を担うはずの五人となりますと、話が変わってまいります。

 少女の側に、悪意があるのか。背後に、どこかの家門がいるのか。夢を見るウジ虫の一匹が、とうとう学園にまで這い込んだのか。

 いずれにせよ、婚約者として、筋だけは通さねばなりません。

 致し方ありません。

 扇を手のひらに当て、ぱしんと閉じました。

 乾いた音に、四人のご令嬢が背筋を伸ばします。

「男爵令嬢に、ひとこと忠告いたしましょう。皆様、ご一緒に」

 噴水の向こうで、少女がまた、鈴を転がすように笑いました。



第3話 悪役、とは



 翌日の放課後、私たちは学舎裏の小さな温室に、ミア嬢をお招きいたしました。

 温室は人払いがしやすく、外から見えにくいのです。つまり、下級貴族の娘であれば、まず怯えます。格上の令嬢五人に囲まれ、逃げ場のないガラスの箱に通されるのですから。

 それも含めての、忠告でございます。

 ところが。

 扉を開けて入ってきた少女は、怯えませんでした。

 亜麻色の髪を揺らし、大きな瞳を見開いて、私たち五人を順繰りに見つめます。頬がみるみる上気していきました。これは羞恥でも、恐怖でもございません。

 感激、でございました。

「うわー、美人が勢揃い! さすが悪役令嬢たち、だよね!」

 ベアトリス様の手が、無意識に腰へ動きました。帯剣はしていらっしゃいませんのに。

 私は扇を広げ、作法どおりに口元を隠します。

「ミア様。本日お呼びしましたのは、殿方との距離について――」

「大丈夫、大丈夫! 私、隠しキャラ狙いなんだ」

 遮られました。

 侯爵令嬢の言葉を、男爵令嬢が。

 それだけで本来ならば大問題なのですが、あまりに悪びれない笑顔に、誰も咎める機を掴めません。

「五人には興味ないし、断罪にも興味ないし。安心して! 悪役令嬢も大変だよね。あの五人の婚約者だったばかりに、苦労するよね。ほんと、怒っていいと思う!」

 ひらひらと手を振ると、彼女はくるりと踵を返しました。

「じゃ、また! あ、今日の放課後イベント、遅れちゃう」

 扉が閉まります。

 ガラスの向こうを、亜麻色の髪が軽やかに跳ねて遠ざかっていきました。

 温室に、しばしの静寂が落ちます。どこかで水滴が、ぽたりと鉢に落ちました。

「……今、なんと?」

 最初に口を開かれたのは、ルイーゼ様でした。将来の宰相夫人と目される才媛が、呆然としていらっしゃいます。

「悪役、と聞こえましたわ」

「令嬢に、悪役。役とは、芝居の役でしょうか」

「私たち、舞台に立った覚えはございませんけれど」

 イザベラ様は四か国語に堪能でいらっしゃいますが、その知識の中にも該当する言葉はないようです。コルネリア様は、「隠しキャラ」と紙に書きつけ、じっと眺めておいでです。

 私も、閉じた扇を顎に当てました。

 悪女なら、わかります。

 殿方を手玉に取り、国を傾け、歴史書に名を残す女。賢く、強かで、恐れられる女。そういう方々でしたら、周辺諸国の史書にも数多く登場いたします。

 ですが、悪役?

 なにそれ。

 誰が、誰のために用意した役だというのでしょう。

 その夜、私は自室の窓を開け、誰もいない庭へ声をかけました。

「いるのでしょう。調べていただきたいことがございます」

 三日後の朝、枕元の小卓に、封蝋のない報告書が置かれておりました。

 我が家の諜報員は優秀です。優秀すぎて、私はいまだに顔を知りません。几帳面な細い文字が、用紙の上に整然と並んでおります。

『調査対象一、悪役令嬢。国内外の爵位、役職、組織、劇団、および隠語を照会するも、該当なし』

『調査対象二、隠しキャラ。キャラなる語は辞書になく、人名の可能性あり。国内にキャラ姓の貴族なし。南方に同名の駱駝商人あり。隠れてはいない』

『調査対象三、放課後イベント。当日放課後、対象は図書室の梯子から落下。宰相家令息が受け止める。梯子に破損なし。落下前に、対象が「よし」と呟いたとの記録あり』

 私は、報告書を二度読みました。

 最後の一文を、三度読みました。

 あの方は、知っているのです。いつ、どこに、誰が来るのかを。

 そして、もうひとつ。

 五人には興味がない、と彼女は言いました。あの顔は、嘘をついている顔ではございませんでした。ならば、なぜ五人に近づくのか。五人の他に、狙う相手がいるのか。

 隠れている、誰か。

 窓の外で、朝の鳥が鳴いております。私は報告書を畳み、燭台の火にかざしました。

 悪役の意味は、さっぱりわかりません。

 ですが、この学園には、私たちの知らない何かがおります。



幕間 ミアの好感度管理



 寮の小さな部屋で、ミアはベッドに転がり、手帳を開いた。

 前世で何度も周回した乙女ゲームの世界に生まれ変わったと気付いたのは、十歳の時だ。熱を出して寝込んで、起きたら全部思い出していた。この国の名前も、学園の中庭の噴水も、攻略対象の好きな菓子も。

 手帳には、ページいっぱいの数字が並んでいる。

「王太子、九十四。ユリウス、九十一。ガレス、九十。フェリクス、九十二。ニコラス、九十……今日の梯子で九十三かな」

 隠しルートの解放条件は、えげつない。

 攻略対象五人全員の好感度を、九十以上に上げること。ただし、百に届いたら、その相手のルートで確定してしまう。つまり、九十以上、九十九以下を全員分維持しなければならない。

 やり込み勢の間でも、悪名高い綱渡りだった。

「王太子がなあ」

 ミアは鉛筆で頬をつついた。

 メイン扱いのくせに、この王太子が一番ちょろい。ちょっと笑いかけるだけで、すぐ数字が跳ねる。あと六で確定だ。絶対に嫌だ。

「しばらく、王太子イベントは避けよっと」

 今日の悪役令嬢たちは、スチルで見るより何倍も綺麗だった。怒られるかなと思ったけど、やっぱり生で見られてよかった。

 だって、あの人たちは悪くない。浮気されたんだから、怒って当然だ。

 全部終わったら、ちゃんと手を離すから、あとは婚約者と好きにしてほしい。

 手帳の最後のページには、ひとりだけ、数字のない名前が書いてある。

 ミアはそのページをそっと撫でて、にまにま笑った。

「待っててね、私の推し」



第4話 最後の忠告



 作法というものがございます。

 婚約者の不行状に気付いたならば、まずは本人に一度、申し上げる。それを飛ばして家門を動かせば、こちらが礼を失することになります。

 ですから、一度だけ。

 初雪の舞った日の午後、私は王太子殿下の執務室をお訪ねいたしました。学園に与えられた特別室で、暖炉には薪が惜しみなくくべられております。机の上には、未決裁の書類が雪のように積もっておりました。こちらは、溶ける見込みがなさそうです。

「珍しいな、お前から来るとは」

 殿下は長椅子に寝そべったまま、手にした小さな刺繍の手巾を眺めていらっしゃいました。不揃いな縫い目の、薄紅色の花。どなたの作かは、尋ねるまでもございません。

 私は背筋を伸ばし、侍従が椅子を勧めるのを待たずに切り出しました。

「ミア男爵令嬢とのことでございます。殿下のお立場で、あのようなお振る舞いは、お控えになるべきかと存じます」

「嫉妬か」

「いいえ」

 即答いたしました。

 殿下は、少し面白くなさそうに身を起こされます。手巾を指先に巻きつけ、私を見上げました。金の髪が暖炉の火を受けて、たいそう綺麗に光っております。中身が伴えば、絵画にして飾りたいところでした。

「なら、話は簡単だ。お前は何も失わない」

「と、申しますと」

「俺が愛するのは、ミアだけだ。だが、正妃はお前だ。心配するな、その席は約束されている」

 薪が、ぱちりと爆ぜました。

 部屋の隅で、侍従が静かに視線を落とします。

「お前は有能だからな。公務は任せる。外交も、予算も、面倒な貴族の相手も。母上もそうしてこられた。立派に務まるだろう」

 殿下は、たいそう良いことを仰ったお顔をしていらっしゃいました。

 褒美を与えたつもりなのです。この方は。

「そして、将来はミア様を、側妃に?」

「当然だろう。父上がなさったことだ。誰に文句が言える」

 お答えに、迷いはございません。殿下は手巾の花を、指の腹で愛おしげになぞっていらっしゃいます。

「お世継ぎは、いかがなさいます」

「愛する女が産んだ子に継がせたいと思うのは、自然なことじゃないか。お前も子供を育てたいなら、養子でも取ればいい。俺が愛してやれない分、せめてもの慰めとなるだろう。当然、世継ぎにはなれないが」

 ――ああ。

 私は、目を閉じそうになるのを堪えました。

 怒りでは、ございません。

 強いて言えば、安堵でしょうか。ご自身のお口から、ここまで明瞭に、順序立てて、しかも証人の前で仰っていただけるとは。

 王宮直属の影は、私と殿下の両方についております。あの天井の梁の陰か、窓の外の雪の中か。慣れすぎて、私にも居場所はわかりません。殿下に至っては、そういうものがいることすらお忘れでしょう。

 そして、我が家の几帳面な諜報員も、今頃は細い文字で書き留めているはずです。

 私は、ゆっくりと微笑みました。

「ご意向、確かに承りました」

「わかればいい。お前は話が早くて助かる」

「恐れ入ります。ですが殿下、ひとつだけ」

 立ち上がり、ドレスの裾を整えます。

 そして、幼い頃から幾度となく繰り返してきた、完璧な礼をいたしました。

「ご忠告は、これで終わりです。二度といたしません」

 殿下は、もう手巾に目を戻していらっしゃいました。

「ああ、そうしてくれ」

 扉の外では、雪が本降りになっておりました。

 回廊を歩きながら、私は一度だけ窓に映る自分を確かめました。いつもどおりの顔です。頬の色ひとつ、変わってはおりません。

 その週末、王都の我が家に、三通の手紙が届きました。

 いずれも侯爵家の紋章入りで、差出人は四家のうち三家の当主。内容は、狩猟の誘いでございます。父は書斎でそれを読み、暖炉に放り込み、私を呼びました。

「言ったか」

「はい。お言葉は、すべて記録に」

「辞退は、いつがよい」

 父は娘の顔を見ず、炎を見ながら尋ねました。

 私は少し考えました。今では、早すぎます。まだ十五の少年の、口先の話。王妃陛下のご実家は若気の至りで押し切るでしょう。国王陛下は、何も理解なさらないでしょう。

 言い逃れのできぬ場で、あのお方自身の口から、もう一度。

 そのためなら、待つのは得意でございます。

「殿下が、ご自分で決めてくださいますわ」

 父は小さく鼻を鳴らしました。

「お前は、恐ろしい娘だな」

 褒め言葉として、頂戴いたしました。



第5話 帳簿は嘘をつきません



 二年目の春、最初に動かれたのはコルネリア様でした。

 財務卿家のユリウス様の婚約者である彼女は、伯爵家のご出身で、数字を愛する方でいらっしゃいます。茶会でも皿の数を数えておいでで、以前お尋ねしたところ、落ち着くのだそうです。

 その日、彼女は学園の小広間に、ユリウス様をお招きになりました。立会人は、双方の家の執事と、私。窓から差す春の光の中、磨かれた長机の上に、革表紙の帳簿が三冊積まれております。

「ユリウス様。こちら、昨年度のあなたの交際費の明細でございます」

「僕の交際費を、なぜ君が」

「両家の婚約契約書の第十二条に、相互の支出報告が定められております。お読みになりましたか?」

 ユリウス様は、読んでいらっしゃらないお顔をなさいました。

 コルネリア様は白く細い指で帳簿を開き、一行ずつ、乱れのない声で読み上げていかれます。

 銀の髪飾り。王都一の菓子店の特注品。南方渡りの小鳥と金の鳥籠。

 いずれも、婚約者である彼女のもとには届いておりません。

「合計額は、ユリウス様の一年分の交際費の四倍です。不足分は、財務卿閣下の私的な口座から出ております。お父君の署名を、真似ていらっしゃいますね。筆の入り方が違います」

 ユリウス様の顔から、血の気が引いていきました。

 財務卿のご子息が、帳簿で。

 私は扇の陰で、そっと感心いたしました。人は己の得意分野で最も油断する、というのは本当のようです。

「ご報告は、すでに閣下へ。不足分の始末は、閣下がお付けになるそうです。つきましては、婚約の解消を」

 コルネリア様は、一枚の書面を差し出しました。

 追い詰められた男の顔に、そこで、不思議な光が差しました。

「ああ、構わないとも」

 彼は書面を引き寄せ、胸を張ります。

「君には悪いが、僕にはもう、真実の愛がある。ミアは金で動くような女じゃない。彼女は、僕を選んでくれる」

 立会人の老執事が、ごくわずかに眉を動かしました。

 コルネリア様は、一度だけ瞬きをなさいました。

「左様でございますか。ご署名を、こちらに」

 ペン先が紙を引っ掻く音だけが、小広間に響きます。

 かくして、一組目は片付きました。所要時間は、四半刻。

 廊下へ出ると、コルネリア様はふっと肩の力を抜かれました。

「ヴィオレッタ様。あの方が、算術だけは得意だと褒められて喜んでいた頃は、少しだけ可愛かったのですけれど」

「存じておりますわ」

 コルネリア様は小さく息を吐き、手元の革表紙を撫でられました。その横顔は、もう次の数字を追っておいでです。

「私、たぶん来月には、別の縁談を比較検討していると思います」

「表にまとめましょうか」

「もう作ってございます」

 私たちは、顔を見合わせて小さく笑いました。

 その翌日のことです。

 中庭の楡の若葉の下で、ユリウス様はミア嬢の前に膝をついておられました。わざわざ通りかかる必要もなかったのですが、通りかかってしまいました。これも社交でございます。

「ミア、僕は婚約を解消した。すべて君のためだ。これからは誰に憚ることもない」

 ミア嬢は、きょとんと首を傾げました。

 それから小さな手帳を取り出し、ぱらぱらとめくり、何かを確かめていらっしゃいます。満足そうな笑顔が、いかにも無邪気でした。

「そっか、大変だったね! 九十六かあ。うん、いい感じ」

「ミア?」

「はい、一人クリア! あ、ごめんね、私これから用事あるから。またね!」

 手を振って、ぱたぱたと駆けていきます。

 春風が吹いて、若葉が一斉に裏返りました。

 膝をついたままのユリウス様は、しばらく動きませんでした。やがて、のろのろと顔を上げ、彼女の去った方を見つめます。

 その瞳に初めて、計算の色が浮かんでおりました。

 今までの贈り物の総額と、受け取った言葉の数を、頭の中で並べていらっしゃるのでしょう。

 お得意でしょう? 帳簿は。

 私は扇を閉じ、静かにその場を離れました。



第6話 誓いと、謝罪と



 二組目は、音もなく終わりました。

 騎士団長家のガレス様は、夏の演習で、警護の持ち場を離れられました。ミア嬢が足を挫いたと聞き、馬を飛ばして駆けつけたのです。足は、少しも挫けておりませんでした。

 騎士の家において、持ち場を離れることは、誓いを破ることと同義でございます。

 婚約者のベアトリス様は、泣きも怒りもなさいませんでした。父君の子爵様と共に騎士団長閣下の屋敷を訪ね、一礼なさっただけです。

 談判は、半刻もかからなかったと聞いております。庭に出された練習用の木剣が一本、へし折られて転がっていたそうですが、どなたが折ったのかは存じません。

「あの方を、嫌いではなかったのです」

 後日、訓練場の柵にもたれて、ベアトリス様は仰いました。陽に焼けた頬に、短く切りそろえた赤銅色の髪が風で揺れております。

「ただ、背中を預けられなくなりました。それだけです」

 私は何も申し上げず、隣に並んで、夕焼けの訓練場を眺めておりました。

 三組目は、少々賑やかでございました。

 秋の学園祭に、南の隣国から親善の使節団がいらしたのです。外交官家のフェリクス様は、案内役を任されておりました。語学に優れ、社交にも長けた方として、前途を嘱望されております。

 前途を嘱望されて、いらっしゃいました。

「この国の大切な方を紹介いたします! 私の、ミアです!」

 歓迎の宴の席で、フェリクス様は高らかに仰いました。

 煌々と燭台の灯る大広間に、一瞬、奇妙な沈黙が落ちます。

 隣国の老公使は、白い髭を撫でながら、当惑なさっていました。正式な婚約者の名を、閣下は事前の書簡でご存じなのです。さらに悪いことに、フェリクス様はミア嬢に、公使の胸に花を挿すようお勧めになりました。

 かの国において、独身の女性が男性の胸に赤い花を挿すのは、求婚の作法でございます。

 ええ。周辺諸国の礼法は、上位貴族の必修でございます。フェリクス様も、試験では満点を取っていらしたはずなのですが。

「おじいちゃん、これどうぞ!」

 満面の笑みで、ミア嬢が真紅の薔薇を差し出します。

 公使の護衛が、一歩前に出ました。

 その瞬間、柔らかな衣擦れの音がして、イザベラ様がすっと進み出られたのです。

 流れるような南方語でした。節回しに、古い詩の一節まで織り込まれております。

「閣下、我が国の若輩が、貴国の美しい作法に憧れるあまり、順序を誤りましたこと、お詫び申し上げます。この薔薇は、貴国の王妃陛下のご生誕を祝う敬愛の花として、お納めくださいませ」

 そして、彼女はミア嬢の手からそっと花を取り、銀の盆に載せて捧げ持ちました。かの国の、祝賀の作法そのままに。

 老公使の目尻に、深い皺が刻まれます。

「これは、まことに見事な。外交官殿のご子息は、良き奥方をお持ちになりますな」

 広間に、安堵の息がさざ波のように広がりました。

 イザベラ様は、深く優雅に礼をなさいます。

 そののち顔を上げて、南方語で、ひとことだけ付け加えられました。

「いえ閣下。その件につきましては、近く訂正のご連絡を差し上げます」

 フェリクス様は、南方語の成績も満点でいらっしゃいました。ですから、その意味はよくおわかりになったことでしょう。

 婚約解消の書面は、一週間後に交わされました。外交官家では、跡継ぎについて、親族会議が開かれているそうです。

 これで、三組。

 ユリウス様、ガレス様、フェリクス様は、それでもなお、ミア嬢の周りに立っておられました。少し間隔を空けて、少し自信のなさそうなお顔で。ミア嬢は、時折笑いかけ、手帳に何か書き込みます。数字を確かめるように。

 気付いているのは、私たちだけではございません。学園の空気は、すでに変わりつつありました。

 ある夕暮れのことです。図書室の高窓から西日が差し込む時刻に、私は書架の間で、見慣れた後ろ姿を見つけました。栗色の髪。飾り気のない上着。アルベルト殿下が、外交史の棚の前に立っていらっしゃいます。

 その通路の向こうから、亜麻色の髪がふわりと現れました。

「あっ、やっと会えた!」

 聞いたことのない、甘くとろけるような声でした。

 五人の誰に向けたものとは違います。

 ミア嬢の頬は薔薇色に染まり、瞳は星のように輝いておりました。

 気付くと、私の指の中で、扇の骨が小さく軋んでおりました。



幕間 監視日報



【学園内監視日報 担当・第七号】

 対象:ヴィオレッタ様。

 午前、授業に出席。外交史の小試験、満点。

 午後、茶会にて、コルネリア様より縁談比較表の提示あり。対象は三項目の修正を助言。

 夕刻、図書室へ。

 本来の目的は法制史の資料と推定されるが、対象は外交史の棚の前を、本日も通過した。今月、十一回目である。外交史の棚は、法制史の棚と逆方向にある。

 通過の際の歩調、通常より一割遅い。

 第二王子殿下は、毎週この曜日に同じ棚におられる。対象がこの事実を把握していないとは考えにくい。

 本日、男爵令嬢が第二王子殿下に接近。対象の持つ扇に、軽微な損傷を確認。修繕の手配を侍女へ依頼する。これで今年三本目である。

 なお、対象の第二王子殿下に対する感情については、当職の職掌外につき記載しない。

 記載しないが、当主様へのご報告の要否についてのみ、判断を仰ぎたい。

【当主様ご返信】

 知っている。本人が気付くより前から。

 引き続き、記載するな。

第7話 隠しキャラ

 秋の雨が、三日続いておりました。

 温室のガラスを細い水の筋が伝い、外の景色を歪めております。その日、私を呼び出されたのは、アルベルト殿下でした。こうして二人きりでお目にかかるのは、初めてのことです。もちろん、影と諜報員を数に入れなければ、ですけれど。

 殿下は椅子を勧めてから、ご自身は立ったまま、濡れた窓を見ておられました。

「兄の婚約者であるあなたに、このような話を持ち込むのは筋違いかと悩みました。ですが、他に適任が思い当たらない」

「ミア男爵令嬢の件でしょうか」

「お耳が早い」

 灰色の瞳が、こちらを向きました。

 心の臓が、ひとつ余分に打った気がいたします。無視いたしました。

「彼女は先日、私にこう言いました。『小さい頃、北の塔の裏で、ひとりで泣いてたんだよね。もう我慢しなくていいよ』と」

「お泣きになったのですか」

「七つの時に、一度だけ」

 殿下は、淡々と仰いました。

「それは、問題ではありません。問題は、誰も知らないはずだということです。さらに彼女は、こうも言いました。『今度、中庭の隠し扉から東棟に抜ける道で会おうよ』と」

 私は、扇を持つ手を止めました。

 学園の東棟は、かつて王家の離宮でございました。その抜け道の存在は、王族と、ごくわずかな近衛にしか知らされておりません。王妃教育を受ける私でさえ、聞いたのは昨年のことです。

 男爵家の娘が、知っていて良い話ではございません。

「他国の間者、という線は」

「調べさせました。何も出ない。金の流れも、背後の家門も。ただ」

 殿下は言葉を切り、口の端をわずかに下げました。困っていらっしゃるのです。この方の表情は、よく見ていないと、わからないくらいしか動きません。

 よく見ておりますので、わかります。

「彼女は、私の好きな茶葉も、苦手な教師の名も、母の誕生日も知っていました。その上で、とても嬉しそうに言うのです。『隠しキャラって、やっぱり隠れてるんだね』と」

 温室の中で、雨音だけが大きくなりました。

 隠しキャラ。

 南方の駱駝商人では、なかったようです。

 では、この方が。

 手の中で、扇がかすかに開いて、乱れた音を立てました。十年来、一度も失敗したことのない手癖です。私は何事もなかったように閉じ直しました。

 殿下の視線が、一瞬、私の指先に留まった気がいたします。

 気のせいでしょう。

「王家に関わる機密が、漏れている疑いがございますね」

 私は、侯爵令嬢の声で申しました。

「はい。ですので、調査の協力をお願いしたい。あなたの家の諜報員は、優秀だと聞いております」

「なぜ、父君に申し上げないのです」

 ごく当たり前の問いでした。

 殿下は窓の外へ、また視線を戻されました。雨に霞んで、遠くに王宮の尖塔が見えております。

「父に言えば、母の耳に入ります。母は、悪気なく、王宮中に話すでしょう。そういう人です」

 怒りも、卑下も、そこにはありませんでした。

「私は、母を嫌いではありません。父も。ただ、幼い頃から見ていました。母の代わりに夜更けまで書類を読む王妃陛下を。それをありがたいと笑っている母を。それを愛だと言う父を」

 静かな声でした。

「私は、母のような人を、この国に増やしたくない。母のために泣く王妃を、これ以上作りたくもない。――私が言うことではないのかもしれませんが」

 ああ、もう。

 私は、目を伏せました。

 これだから、私比なのです。

 顔でも、言動でも、何もかも。雨に濡れた窓を背にして、そのようなことを仰らないでいただきたい。

「殿下」

「はい」

「報告書の受け渡しに、当面、週に一度はお目にかかる必要がございます。場所は、図書室の外交史の棚の前などいかがでしょう」

 殿下は、数度瞬きをされました。

 そののち、ごくわずかに。本当に、よく見ていなければわからないほどわずかに、目元を緩められました。

「法制史の棚の方が、あなたには近いのでは」

「……外交史の棚の方が、人が少のうございますので」

 雨は、まだ止みそうにありません。

 温室を出て、傘を差す侍女の隣を歩きながら、私は考えておりました。

 悪役とは何か、いまだにわかりません。あの娘が何を知っていて、どこから来たのかも。

 ひとつだけ、わかったことがございます。

 あの娘は、私の国の機密を握っている。

 そして、私のものでもない男に、手を伸ばしている。

 おかしいですね。後の方は、怒る筋合いがございません。

 ですので、前の方を、徹底的に調べることにいたしましょう。



第8話 全員クリア



 外交史の棚の前で、週に一度。

 それが、一年続きました。

 報告書の受け渡しは、一分もあれば済みます。ですが、殿下は南方の水利法についての見解をお尋ねになりますし、私は東方の関税史についてご意見を伺います。気付けば、西日の位置が棚三つ分動いていることもございました。

 情報交換でございます。

 殿下が差し出してくださる焼き栗の袋も、情報交換の一環でございます。

 そうして迎えた、最終学年の秋のことです。

 四組目の幕引きは、宰相家のルイーゼ様でした。

「こちらが、王太子殿下の公務日程の写しです。外部に漏らしてはならないものでございます」

 銀髪を結い上げた才媛は、宰相閣下の執務室で、一通の書類を差し出されました。父に伴われた私も、立会人の席に座っております。

 ニコラス様は、未来の宰相として、王太子殿下の公務の下準備を任されておりました。そして、ミア嬢に頼まれるまま、殿下の行き先と時間を、お教えになっていたのです。

 偶然を装うために。好感度とやらを、調整するために。

 ルイーゼ様は、それを日付順にまとめ、余白に出典まで書き添えていらっしゃいました。

「愛する方のために、とニコラス様は仰るでしょう。ですが閣下、これは婚約者の不実ではなく、国事の漏洩でございます。私事としての解消をお認めいただくのは、むしろご温情かと存じます」

 宰相閣下は長い沈黙の後、深く息を吐かれました。

 四人目の側近候補も、これで退場です。

 ユリウス様は、父君の命で領地へ送られました。ガレス様は、騎士見習いからやり直しです。フェリクス様の跡継ぎの座には、十二歳の弟君が座られました。ニコラス様は今、自室で謹慎していらっしゃいます。

 王太子殿下の周りから、人がいなくなりました。

 特別室の机には、未決裁の書類が山脈を成しております。

 そして、当のミア嬢は。

「よし、全員クリア!」

 廊下の窓辺で手帳を閉じる姿が、実に晴れやかでした。

 それからの彼女は、もはや誰も見ておりません。五人のことも、周囲の視線も。亜麻色の髪は、第二王子殿下の行く先々に現れます。

 偶然、書物を落としました。

 偶然、雨に濡れました。

 偶然、お弁当を作りすぎました。

 そのたびに、殿下は書物を拾い、傘を侍従に持たせて差し向け、お弁当には毒味役を呼ばれました。礼儀正しく、完璧に、一切動じることなく。

「アルベルト様って、ガード固いなあ。さすが隠しキャラ!」

 ミア嬢は、心から楽しそうでいらっしゃいます。

 その日の夕刻、外交史の棚の前で、殿下は開口一番、仰いました。

「本日、彼女から手作りの菓子を差し出されました。受け取っておりません」

「左様でございますか」

「茶葉の銘柄を当てられましたが、今後は変更します」

 まるで、軍の配置換えのご報告です。夕日を受けた書架の間で、殿下はいたって真面目なお顔をなさっておりました。

「……なぜ、それを私にご報告を」

 私は棚の背表紙から目を離さずに申しました。殿下の声が、すぐ隣から落ちてまいります。

「あなたの扇が、今月二本折れたと、書記官が噂していたので」

 我が家の諜報員を、どう懐柔なさったのでしょう、この方は。

「修繕に出しているだけでございます」

「では、次の修繕代は私が持ちます」

 顔を上げると、灰色の瞳が、いつもより少しだけ近くにございました。西日のせいか、柔らかな色に見えます。

 私は、とても落ち着いた手つきで、書棚から一冊抜き取りました。

 上下が、逆でした。

 さて、面白くないのは、王太子殿下です。

 ご自身が小さな手帳の上で数字として管理されているなどとは、ご存じありません。ただ、あれほど笑いかけてくれたミア嬢の目が、弟に向いていることだけは、おわかりになったようです。

 側近は去りました。書類は溜まり、父王は弟ばかり褒め、王妃陛下の小言は増えました。

 愚かな人が焦る時、取る手は決まっております。

 自分がいちばん偉いのだと、皆の前で確かめようとなさるのです。

 初雪の朝、枕元の小卓に、細い文字の報告書が置かれました。

『王太子殿下、卒業前の王宮夜会にて、重大発表の意向。内容、男爵令嬢を側妃に内定する旨。王妃陛下へは事前の相談なし。国王陛下は「あれも男になった」と上機嫌』

 最後の一行まで読んで、私はベッドの上で身を起こしました。窓の外は、一面の白です。

 二年前の、あの暖炉の部屋を思い出します。

 殿下が、ご自分で決めてくださいました。

 私は呼び鈴を鳴らし、侍女に告げました。

「夜会のドレスを、仕立てます。いちばん良い絹で」

 その週の夕刻、外交史の棚の前で、殿下は細長い箱を差し出されました。

「お約束の修繕代です」

 蓋を開けると、黒檀の扇が収まっておりました。飾りは親骨の細い銀の線だけ。手に取ると、見た目よりもずっと重く、吸い付くように馴染みます。

「修繕代で、新品が届くとは存じませんでした」

「折れにくい材を選びました。それに、閉じた時の音がよく響きます」

 私は、顔を上げました。

 殿下は、書棚の背表紙を眺めていらっしゃいます。今日の天気の話でもなさるように。

 この方は、何をご存じなのでしょう。いえ、すべてご存じなのでしょう。

 私は扇を手のひらに当て、そっと閉じてみました。

 ぱしん。

 静かな図書室に、思いのほか澄んだ音が響きました。

「……良い品でございます」

「では、夜会で」

 殿下はごくわずかに目元を緩め、一礼して去っていかれました。

 頬が熱いのは、西日のせいでございます。



幕間 外交史の棚



 アルベルトが彼女を初めて見たのは、八歳の時だった。

 王宮の庭で開かれた、子供たちの茶会だ。側妃の息子である彼に、高位の子供たちは近づかない。親に言われているのだろう。だから彼は、大きな楡の下で本を読んでいた。

 そこへ、紫の瞳の少女が、まっすぐ歩いてきた。

「そのご本、三十二ページの年号が間違っておりますの。ご存じ?」

 同じ年頃の、小さな侯爵令嬢だった。兄の婚約者になる予定の娘で、言うだけ言うと、礼儀正しく一礼して去っていった。

 調べてみると、本当に間違っていた。

 それが、いつから別の意味を持ったのかは、覚えていない。

 気付くと、茶会の席で、彼女が扇の陰で息を吐く瞬間を見分けられるようになっていた。皮肉を言う時、右の口角が先に上がることも。冷めた紅茶を、もったいないと飲み干す癖も。

 見てはいけない相手だ。

 だから彼は見ない振りをして、兄の補佐に徹した。母が免除された分を埋めるだけの本を読み、王妃の書類の下読みをし、十年かけて、誰にも文句を言われない第二王子になった。

 何かを望むつもりはなかった。

 けれど、兄は自分で、その席を空けようとしている。

 アルベルトは自室の机に、一枚の書面を広げた。側妃制度の廃止について。今代限りとすることの明文化について。彼が何年もかけて、ひそかに書き直してきた草案だ。彼女の家の当主とは、すでに話がついている。

 ペンを置き、外交史の本の間に挟んだものを、そっと取り出す。

 折れた扇の骨が一本。

 あの諜報員が、「修繕不能につき処分」と書いて、なぜか彼の部屋の前に置いていったものだった。

「……本人には、言えないな」

 小さく呟いて、第二王子は十年ぶりに、少しだけ声を立てて笑った。



第9話 では、辞退いたします



 王宮の大広間は、千の燭台に照らされておりました。

 卒業を控えた子女と、その親である国中の貴族が一堂に会する、年に一度の夜会でございます。磨き込まれた床に、シャンデリアの光と、絹の裾の波が映っておりました。楽団の弦が軽やかに響き、給仕の盆の上で、発泡葡萄酒の泡が細く立ち昇っております。

 私のドレスは、深い菫色にいたしました。瞳の色に合わせ、飾りは最小限に。手にした扇は、修繕代としていただいた黒檀でございます。

 婚約者のエスコートは、ございませんでした。

 レオナール殿下は、亜麻色の髪の少女の手を引いて、段上に立っていらっしゃいます。ミア嬢は薄紅色のドレスで、なぜか広間の隅の方を、きょろきょろと見回しておられました。

 段の中央の玉座には、国王陛下。その左に、背筋の伸びた王妃陛下。右に、はしゃいだご様子の側妃様。

 私の父が、そっと私の隣に立ちました。少し離れて、他の三家の当主が、それぞれの位置におられます。

 殿下が、高らかに手を打ち鳴らされました。

「皆、聞いてくれ!」

 音楽が止みます。

 ざわめきがゆっくりと引いていき、千の視線が段上に集まりました。殿下は陶然としたお顔で、それをお受けになります。

「今夜は、私から重大な発表がある。ここにいるミア男爵令嬢を、私は将来の側妃に迎える!」

 扇の陰で息を呑む音が、方々で漏れました。

 王妃陛下の指が、肘掛けの上で白くなります。国王陛下は、にこにこしておいででした。

「父上がそうなさったように、私も真実の愛を貫く。もちろん、侯爵令嬢ヴィオレッタとの婚約は揺るがない! 彼女には、正妃として公務のすべてを任せよう。彼女はそのために教育を受けてきたのだからな!」

 殿下は段の上から、私を見下ろされました。二年前の暖炉の前と、同じお顔です。

 たいそう良いことを、仰ったお顔。

 人垣が、音もなく割れていきました。

 私はゆっくりと歩み出ます。絹の裾が床を擦る音が、静まり返った広間に長く伸びました。段の下まで参り、足を止めます。

 そして黒檀の扇を、手のひらに当てて。

 ぱしん、と閉じました。

「では、辞退いたします」

 自分でも驚くほど、よく通る声でした。

 殿下は、笑顔のまま固まっていらっしゃいます。

「……何を?」

「王太子殿下との婚約を。謹んで、辞退申し上げます」

 私は完璧な礼をいたしました。

「我が家は、当初より両陛下に申し上げております。後ろ盾はお引き受けする。ただし、次代に側妃は認めぬと。殿下は、たった今、皆様の前で、そのお約束を反故になさいました」

「馬鹿な。そんな約束、俺は――」

「婚約の折に、両陛下がお受けになったお約束でございます」

 父が、一歩前へ出ました。

「当家は、王太子殿下への支持を、本日をもって取り下げる」

 広間の東から、ひとつ、低い声が重なります。

「当家も」

「当家も同様に」

 西から。北から。四つの侯爵家の当主が、まるで天気の話でもするように、順に頭を下げました。

 王権は、五つの侯爵家に支えられております。どれほど忘れていようと、それは変わりません。

 王妃陛下のご実家の当主だけが、青ざめた顔で立ち尽くしておられました。

「なっ……父上! 母上!」

 殿下が振り返られます。国王陛下はきょとんとなさり、王妃陛下は、目を閉じていらっしゃいました。

 追い詰められた殿下は、傍らの少女の手を握り直します。それが最後のよりどころだとでも言うように。

「構うものか! 俺にはミアがいる! そうだろう、ミア!」

 千の視線が、一斉に亜麻色の髪に注がれました。

 ミア嬢は、ぱちぱちと瞬きをなさいました。そして、とても申し訳なさそうな、けれど正直そのもののお顔で、仰ったのです。

「え、無理です」

 広間が、凍りました。

「私、第二王子狙いなので。ごめんなさい、王太子ルートは入らないように、ずっと九十八で止めてたんだけど、なんで? これ、発表イベントなんてなかったのに」

 殿下の手が、するりと解かれます。

 どなたかの持つ盆の上で、杯がカタカタと鳴りました。

 私は黒檀の扇で、そっと口元を隠しました。

 ここまでは、さすがに計算しておりません。

 見事な二重奏でございました。

 そこからは、もう、ただの騒ぎです。側妃様が甲高い声で何か仰り、国王陛下が慌てて立ち上がり、貴族たちのささやきが波となって広間を満たしていきました。王太子殿下は段の上で、棒のように立ち尽くしておられます。

 その人波の間を、ひとりの青年が、静かに歩いてまいりました。

 飾り気のない礼装。栗色の髪。

 アルベルト殿下は、騒ぎの中、誰にも目を向けず、私の前で足を止められました。そして、左手を、そっと差し出します。

「お疲れでしょう。外の空気を吸われますか」

 エスコートのお申し出です。

 婚約を辞退したばかりの女に、たった今この場で。

 これがどう見えるか、この方がおわかりでないはずがございません。

「……ひどい方」

 小さく申し上げて、私はその手を取りました。

 手袋越しの手のひらは、思ったよりも温かく、ほんの少しだけ、強く握られました。

 背後で、国王陛下の声が響きます。混乱の中で、そのお声だけが、なぜか弾んでおりました。

「そうだ、アルベルトがおるではないか! そうだ、それがよい!」

 満面の笑みが、目に浮かぶようです。

 陛下。

 本当に、よろしいのですか?



第10話 望みどおりの王命



 夜会から七日後、王宮の評定の間に、五つの侯爵家の当主と宰相が集められました。

 高い窓から冬の薄日が差し、長机の上に積まれた書類の束を、白く照らしております。私は辞退の当事者として、父の後ろに控えておりました。

 書類の束は、影の報告書でございます。

 国王陛下のご命令で開示されたそれは、私が想像していたより、さらに分厚いものでした。王太子殿下が男爵令嬢に贈った品の目録。学舎の裏手での逢瀬の日時。暖炉の前で仰った「俺が愛するのはミアだけだ」のお言葉は、一言一句、そのままです。

 読み上げる書記官の声が、淡々と響きます。

 段下に立たされたレオナール殿下の顔が、赤くなり、青くなり、やがて色を失っていきました。

「な、なぜ、こんな……どこで、誰が」

「殿下」

 宰相閣下が、静かに仰いました。

「お生まれになった時から、お側におりました」

 影が、でございます。

 殿下はその場で、ご自分の周囲の空間を、初めて見回されました。十八年目にして。

 加えて、我が家をはじめとする各家の諜報員の報告が、同じ事実を裏付けております。さらに、コルネリア様の帳簿、ルイーゼ様の日付表、イザベラ様の外交文書の写しが、整然と添えられました。皆様、本当に几帳面でいらっしゃいます。

 寵愛の事実は、否定しようがございませんでした。

 王妃陛下のご実家の当主が、苦しげに口を開かれます。

「若気の至りと、なにとぞ」

「公衆の面前で、四家との約定を踏みにじったのです。もはや、若気では済みますまい」

 私の父の、低い声でした。

 それで、決まりました。

 レオナール殿下は、廃太子。王籍を離れ、臣下として伯爵位を与えられ、北の辺境へ下ることとなります。

 王家の血を引く方への処遇としては、寛大でございましょう。少なくとも、書類の山からは解放されます。

 残るは、もうひとつの件です。

 次に呼び入れられたミア嬢は、夜会の時と同じように、きょろきょろと周囲を見回しておられました。ただ、その頬の色は、少し薄くなっております。

「あのう、これ、断罪イベントですか? 私、悪役令嬢じゃないんですけど」

 書記官のペンが、一瞬止まりました。

 宰相閣下が、一枚の紙を取り上げます。

「男爵令嬢。そなたは、学園東棟の抜け道を、どこで知った」

「えっ」

「第二王子殿下の幼少時の私事は。王家の茶葉の入手先は。王太子殿下の、生後三か月の時の熱病については」

 ミア嬢は、ぱちくりと瞬きをなさいました。

「え、だって、攻略本に……」

 そこで初めて、彼女は言葉に詰まりました。

 周囲を見ます。冬の薄日。積まれた書類。じっと見つめる、大人たちの目。誰ひとり、助け舟を出してはくれないようでした。

 私には相変わらず、彼女が何を言っているのかわかりません。

 ただ、その小さな顔から、すうっと何かが抜け落ちていくのは見えました。

「間者の証拠は、ない」

 宰相閣下が、書類を置かれました。

「だが、知りすぎている。野に放つわけにもいかず、処断する理由もない。扱いが難しい」

 長机の周りに、沈黙が落ちます。

 頃合いでしょう。

「恐れながら」

 私は半歩進み出て、扇を閉じたまま、膝を折りました。

「発言をお許しくださいませ。王太子殿下は夜会の折、この方を『真実の愛』と仰せになりました。そこまでのお心を、無下になさるのはいかがなものでしょう。陛下ご自身も、真実の愛を重んじていらっしゃると伺っております」

 玉座の国王陛下が、ぽかんと顔を上げられました。

「辺境は、機密を守るにも、監視を置くにも、都合の良い土地と聞きます。伯爵となられる第一王子殿下の婚約者として、共に赴かれるのが、お二人の真実の愛を全うする道かと存じます」

 私は、心からの善意の微笑みを浮かべました。

 父が、咳払いをひとつ、なさいました。たぶん笑いを噛み殺したのでしょう。

「おお、それは良い! 愛する者同士だ、それが良いではないか!」

 国王陛下が、晴れやかに手を打たれました。

 王命でございます。

 ミア嬢の口が、ゆっくりと開きました。

「え、ちょっと待って。第一王子と辺境? それって――」

 彼女は自分の手帳を、ぎゅっと胸に抱きしめます。視線が宙を泳ぎ、やがて、がっくりと肩が落ちました。

「……第一王子のバッドエンドルートかあ」

 誰にも聞こえないほど小さな声でした。私が聞き取れたのは、諜報員に鍛えられた耳のおかげでございます。

「まあ、王太子も嫌いじゃないけどさあ。顔はいいし。ちょろいし」

 またしても、意味がわかりません。

 ただ、バッド、というのは、良くないという意味でしょうか。辺境の風土についての感想かもしれません。

 評定の間を出る時、段の脇で、もうひとり放心している方を見かけました。かつて王太子であった方です。その傍らを、私は完璧な礼で通り過ぎました。

 振り返った先で、国王陛下は上機嫌に、宰相閣下へ話しかけておられます。

「さて、では立太子の儀を急がねばな! アルベルトも喜ぶであろう。あれも、母に似て素直な子だ」

 陛下はまだ、ご自分が勝ったと思っていらっしゃいます。

 これから四つの侯爵家の当主が、何をお持ちするのかも知らずに。



幕間 エンディングのその先



 北へ向かう馬車は、ひどく揺れた。

 窓の外は、灰色の空と枯れた原野ばかりだ。向かいの席では、元王太子が毛布にくるまって、まだ呆然としている。ミアは膝の上で手帳を開いた。

 好感度の数字が、ページいっぱいに並んでいる。

 ゲームなら、卒業式でエンディングだった。スタッフロールが流れて、タイトル画面に戻って、次の周回。その先のことは、攻略本のどこにも載っていない。

 馬車が石を踏んで、がたんと跳ねた。お尻が痛い。冷たい隙間風が首筋に入る。

 お尻が痛いルート、なんて、ゲームにはなかった。

 ミアはしばらく、数字を見つめていた。

 ユリウスは領地に送られた。ガレスは見習いに戻された。あの綺麗な人たちは、婚約者に浮気されて、一年以上も我慢していた。ボタンを押せば、セーブに戻れると思っていた。全部、数字だと思っていた。

 ここには、リセットボタンがない。

 ――現実なんだ。

 言葉にしたら、喉の奥がぎゅっとなった。

 自分がやったことなのだ。誰のせいでもなく。

 しばらく泣いて、鼻をかんで、それからミアは手帳の新しいページを開き、鉛筆を握った。

 辺境。北の寒冷地。ゲームの設定資料によれば、地下に鉱脈がひとつ。あと、前世の記憶に、寒い土地でよく育つ芋の話。冬越しの保存食。手洗いの習慣。

「ねえ、レオナール様」

 毛布の塊が、のろのろと動いた。

「読み書きと計算、得意ですか?」

「……なんだ、急に」

「いや、たぶん得意じゃないですよね。じゃあ、一緒にやりましょう。領地経営。王太子の時サボってたやつ」

 元王太子は、信じられないものを見る目でミアを見た。

 ミアは笑った。少し鼻声だったけれど、いつもの笑顔だった。

 もう、攻略対象ではないのだろう、この人は。

 でも、嫌いじゃないし。

 馬車は揺れながら、スタッフロールの向こう側へ、走っていった。



第11話 陛下の誤算



 国王陛下の私室には、側妃様の好きな百合の香りが満ちておりました。

 その部屋に、四つの侯爵家の当主が揃って入ってこられたのは、雪の降りしきる朝のことです。父に伴われて同席を許された私は、壁際で扇を閉じたまま立っておりました。隣には、宰相閣下。そして窓を背に、アルベルト殿下。

「おお、よく来た。立太子の儀の相談か!」

 陛下は上機嫌で、長椅子から身を乗り出されました。

 父は一礼し、革の書類挟みを卓上に置きます。

「第二王子殿下の立太子を、四家は支持いたします。ただし、こちらの条件をお呑みいただきたい」

「条件? なんだ、申してみよ」

 陛下は書類を開かれました。そして、数行読み進めるうちに、笑顔のまま首を傾げられます。

「……側妃制度の廃止?」

「はい。今代限りとし、法に明記いたします」

 父の声は、領地の境界線でも確認するように平らでした。陛下の指から、書類の端がわずかに滑り落ちます。

「待て。待て、待て。それでは、エレーナはどうなる」

「側妃様の身分は、ご存命の間は保証いたします。ですが今後、公の場へのご出席はお控えいただきます。公費は半減。お子である第二王子殿下は、王妃陛下の養子として立太子いたします」

 百合の香りが、ふいに重く感じられました。

 陛下の頬が、ひくりと動きます。

「な、何を言う。アルベルトは、エレーナの子だぞ。余の、愛する者の子だ。余は、あれを王にしてやれると喜んで――そんなもの、当人が認めるはずがなかろう! アルベルト、言ってやれ!」

 窓辺の青年が、静かに前へ出られました。

 雪明かりを背負って、灰色の瞳は凪いでおります。殿下は卓上の書類の最後の一枚を、指先でそっと示されました。

 そこには、すでに署名がございました。

 飾り気のない、まっすぐな筆跡で。

「草案を書いたのは、私です、父上」

 陛下は、口を開けたまま固まりました。

「父上は母を愛されました。それを否定はいたしません。ですが、王の愛は私事ではありません。父上が例外を作られたせいで、夢を見る者が国中にわきました。兄もそのひとりです。王妃陛下は二十年、母の分まで書類を読まれました。母は今も、そのことを王妃陛下に心から感謝しております。悪気は少しもありません。父上が、それで良いと仰ったからです」

 声は、少しも荒らげておられません。

「あの例外の、最後の結果が、私です。ですから、私が閉じます」

 雪が窓を叩く音だけが、室内に響きました。

 国王陛下は、助けを求めるように四人の当主を見回されます。誰も、目を合わせはいたしません。宰相閣下を見られました。宰相閣下は、書類の別のページを差し出されました。

 そこには、陛下の側近四名の解任について。第二王子殿下が二十歳を迎えられるまでの国政を、五侯爵家の合議に委ねることについて。王妃陛下のご実家は議席を保持するものの、議決権を制限することについて。

 そして、第二王子殿下が二十歳を過ぎた時点での、譲位について。

 国王陛下は、それをご覧になりました。

 そののち、ゆっくりと、ずっと昔に誰かに言われたことを思い出すようなお顔をなさいました。

「余は……王だぞ」

「はい、陛下」

 父が、深く頭を下げます。

「五つの侯爵家が、そうお支えしてまいりました」

 その日、陛下は長いこと、ペンを取られませんでした。

 それでも、夕刻には署名がなされたと聞いております。

 私室を辞した後のことです。

 東の回廊を抜ける途中、冬枯れの中庭に面した小さな温室の前で、私は足を止めました。百合の鉢に囲まれて、華奢な女性が小首を傾げております。側妃エレーナ様です。その前に、アルベルト殿下が立っていらっしゃいました。

「アルベルトが王太子になるのですって? 陛下から伺いました。本当におめでとう」

 少女のような声でした。四十に近いお年のはずですが、その笑顔には皺ひとつ刻まれておりません。苦労というものを知らずに過ごしてきたお顔です。

「母上。私は王妃陛下の養子になります。母上は今後、公の場には出られません」

「まあ、そうなの。それは助かるわ。あの席は作法が難しくて、肩が凝るのですもの」

 軽やかに仰ってから、エレーナ様はふと、胸の前で手を合わせられました。

「王妃様には、改めてお礼を申し上げなくてはね。難しいことを全部引き受けてくださって、本当にありがたいわ。子爵家の娘に、あれは無理ですもの。私、運が良かったのね」

 温室のガラスの向こうで、百合が揺れております。

 嫌味では、ございません。本気で仰っているのです。

 下級とはいえ貴族の娘です。王族の礼儀作法の重さも、王妃の務めの大変さも、よくご存じなのです。ご存じの上で、免除されて幸運だったと喜び、肩代わりしてくれる方に心から感謝していらっしゃる。

 立ち聞きは、作法に反します。それでも、私の足は動きませんでした。

 殿下は、ゆっくりと片膝をつかれました。そして、母君の小さな手を両手で包まれます。

「お礼は、私から申し上げます。母上に、悪いところはありません。免除すると決めたのは父上です」

 いつもと同じ、静かなお声でした。

「ですから、母上が免除された分は、これから私がお引き受けします。ひとつずつ」

「まあ、大変よ。お勉強は、ほどほどになさいね」

「はい。大変なのは、七つの時から知っています」

 そう仰って、殿下はほんの少しだけ、笑われました。

 エレーナ様は、よくわからないというお顔のまま、それでも嬉しそうに息子の髪を撫でていらっしゃいます。

 悪気のない方でございます。誰を陥れたこともございません。ですが、その幸運の分だけ、夜更けの執務室の灯りが増えたのです。ウジ虫どもの夢も、この方の幸運から生まれました。

 今も、許してはおりません。

 ですが、そのお手を振り払わぬ方を、私は選んだのだと思います。

 音を立てぬように、私は回廊を引き返しました。遠回りにはなりますが、よろしいでしょう。遠回りは、慣れております。

 王妃陛下にお目にかかったのは、その翌日のことです。

 後宮の奥の、小さな執務室でした。書棚に囲まれた部屋に、暖炉の火は細く、机の上には今日の分の書類が、整然と重ねられております。王妃陛下は、いつもと同じように背筋を伸ばして、ペンを走らせておられました。私の幼い頃から変わらぬ姿です。髪に、白いものが増えました。

「座りなさい、ヴィオレッタ」

 私は礼をして、勧められた椅子に腰を下ろしました。

 息子を退けた女が、その母の前に座っております。

「ご報告が遅れましたことを、お詫びいたします」

「結構。遅れたのではなく、私に知らせなかったのでしょう。賢明です」

 ペン先が止まります。

 王妃陛下は、初めて顔を上げられました。怒りも、憎しみも、そこにはございませんでした。ただ、ひどくお疲れの目でございました。

 王妃陛下のご苦労を、私は存じております。尊敬もいたしております。この方の背中を見て、私は王妃とは何かを学びました。

 ですから、申し上げなければなりません。

「陛下。ひとつだけ、お伺いしてよろしいでしょうか」

「申しなさい」

「止めるべきだったのは、いつでしたか」

 暖炉の薪が、かさりと崩れました。

 長い沈黙でした。王妃陛下は、窓の外の雪に視線を移されます。

「あの子が六つの時でしょう。父王の真似をして、侍女を側に置くと言った時。私は、書類が忙しくて、笑って済ませました」

 ひどく静かなお声でした。

「多少愚かでも、私が制御していれば、あの子は王になれました。愚かな王など、歴史にいくらでもおります。支える者がいれば、国は回る。私は、支えることばかりが上手になって、あの子を叱るのを忘れたのです」

 何も、申し上げられませんでした。

 王妃陛下はペンを置き、引き出しから一枚の書面を取り出されました。養子縁組の届出でございます。

 ご自身の署名が、すでにございました。

「第二王子の教育は、私が見ます。あれは勉強熱心だから、手間がかからないでしょう。実務も、当面は私が見ましょう。五家の合議など、三日で書類が滞りますよ」

 自分の息子を退けた、その相手を、息子と呼ぶ。

 それが、どれほどのことか。

 私は椅子から降りて、床に膝をつきました。王妃教育で叩き込まれた、もっとも深い礼でございます。

「お教えを賜りたく存じます。王妃陛下」

 頭上で、ふ、とかすかな息の音がいたしました。

「お前は、怖い娘ですね。ヴィオレッタ」

 顔を上げると、王妃陛下は、もう書類に目を落としておられました。その口元がほんの少しだけ、緩んでいたように思います。

「さあ、お下がりなさい。――第二王子が廊下で待っています。先ほどから、用もないのに三回通りました」

 部屋を辞すると、回廊の端に、栗色の髪の青年が立っておりました。

 窓の外を見ている振りをしていらっしゃいますが、窓の外は雪で真っ白です。何も見えはいたしません。

「殿下。ご用でしょうか」

「はい」

 殿下は、こちらへ歩いてこられました。いつもより、ほんの少しだけ足早に。

 そして、私の一歩手前で立ち止まられます。

「すべて、片付きました。ようやく、私の話をしてもよろしいでしょうか」

 灰色の瞳が、見たことのない熱を帯びておりました。

「二人きりで、お時間を。ヴィオレッタ嬢」

 初めて、名を呼ばれました。

 手の中で、黒檀の扇が、ぱきりと音を立てました。折れにくい材のはずでしたのに。



第12話 ただの悪女です



 春が来て、薔薇園に花が咲きました。

 三年前と同じ白い東屋で、同じ銀のポットが、空の青を映しております。違うのは、向かいの席の方が、約束の四半刻前からお待ちでいらしたことです。

 アルベルト王太子殿下は、私の到着と同時に立ち上がり、ご自身の手で椅子を引いてくださいました。

 侍女がお茶を淹れて、すっと下がります。影は、きっと今日も梁の上でしょう。我が家の諜報員も、薔薇の茂みあたりに。

 婚約の手続きは、雪解けと共に調いました。五家の合議で、誰も異を唱えることなく。

 そして本日が、初めての、月に一度のお茶会でございます。

「月に一度では、足りないと思うのですが」

「定めでございます、殿下」

「改正の発議を検討しています」

 殿下はカップの縁を指でなぞりながら、国政の話でもなさるように仰いました。

「殿下」

 真顔でした。この方は、真顔で、こういうことを仰るのです。

 私は紅茶で喉を湿らせました。熱うございます。ちょうど良い温度で、私の好きな東方の茶葉です。

 殿下は、ご自分のカップには手もつけず、ずっと私を見ていらっしゃいます。

「いつから、ですか」

「はい?」

「あなたが、私を選んでいたのは」

 カップが、受け皿の上でかちりと鳴りました。

 春の風が、東屋を吹き抜けます。薔薇の香りが、急に濃くなったように感じました。

「何のお話でございましょう。今回の件は、すべて家門と王国のためでございます。第二王子殿下を推しましたのも、四家の総意で」

「ええ。それは本当です。あなたは大義のために、嘘ひとつつかなかった」

 殿下は頷いて、卓の上で手を組まれました。

「ただ、辞退の場に夜会を選んだのはあなたです。辞退の直前まで、私の草案の進み具合を三度も確認された。外交史の棚の前を、図書室の記録によれば、入学以来二百回以上通られている。法制史の棚と、逆方向なのに」

 我が家の諜報員を、本当に、どう懐柔なさったのでしょう。

「偶然でございます」

「扇は、合計で九本折れました」

「……材質の問題かと」

 殿下の口元が、かすかに緩みました。逃がしてくださるおつもりは、ないようです。

「ヴィオレッタ」

 ああ、もう。

 名前を呼ばないでいただきたい。敬称を落とさないでいただきたい。

 殿下は椅子から立って、卓を回って、こちらへいらっしゃいました。私の隣に片膝をつかれます。王太子が、東屋の床に。

「殿下、お召し物が」

「八歳の時に、本の誤植を指摘されました」

 低く、穏やかなお声でした。

「三十二ページです。あの日から、ずっとあなたを見ていました。扇の陰で息を吐く癖も、皮肉を言う時に右の口角が先に上がることも、冷めた紅茶をもったいないと飲み干すことも。見てはいけない人だと思いながら、十年」

 知りません。

 そんなお話は、どの報告書にも、ございませんでした。

 いえ。おそらく、わざと、ございませんでした。あの几帳面な諜報員が、ずっと黙っていたのです。

 顔が熱い。

 これは、紅茶のせいです。

「ですから、あなたが私を選んだのでなくとも、構いませんでした。王妃の席に座る者として、私を選んだ理由が、適任だっただけでも。それで十分でした。生涯、大切にするつもりでした」

 殿下の指が、私の手を取りました。手袋越しではなく。

 白く薄い皮膚に覆われた、骨の上に静脈が浮き出る、骨張った手。そこから伸びる、節張った長い指。整えられた爪。しなやかであれ。すべらかであれ。そう教えられ、日夜念入りに手入れが施されている私の手とは、全然違う。けれども、同じくらい温かい指が、指の背を、ゆっくりとなぞります。

「でも、どうやら、そうではなさそうなので」

 灰色の瞳が、すぐ近くで、ほんの少し悪戯っぽく細められました。

 そのような顔、私は存じません。

 そのような顔をなさる方だなどと、十年、聞いておりません。

「側妃は持ちません。法にもしました。万が一、私が法を破るようなら、あなたが私を廃してください。あなたなら、完璧な手続きでやれるでしょう」

「……そのような愛の告白が、ございますか」

「世界でいちばん怖い人に、一生側で見張っていてもらいたいと言っています」

 そして、殿下は私の指先に唇を落とされました。

 ゆっくりと。

 一本ずつ。

 蝋燭に火を灯すように、殿下の唇が触れた指先に、熱が帯びていく。

「愛しています、ヴィオレッタ。今日までの分は、これから毎日、お支払いします。十年分ありますので、覚悟してください」

 落ち着きなさい、ヴィオレッタ。

 あなたは五つの侯爵家のひとつの娘です。王太子を退け、国王を黙らせ、王妃陛下と差し向かいで話した女です。

 私は、呼吸を整えました。

 整いませんでした。

 手を引こうとしたら、離していただけませんでした。空いた手で扇を探しましたが、卓の上の扇は、いつの間にか殿下のもう片方の手の中にございました。

 本当に、油断ならないお方でございます。

 これは、想定していなかった事態でございます。ですが、淑女は常に冷静に。常に微笑みを。

 理想は、口角を左右対称で上向き四十五度。

 それが難しい時は、扇を用いるのが常套手段。淑女の奥の手でございます。

 ですが、扇がございません。

 隠すものが、ございません。

「……いつ、から」

 自分のものとは思えないほど小さな声が、口から出ました。

「はい」

「いつからかと、お尋ねになりましたので。お答えいたします」

 私は、真っ赤な顔のまま、なるべく威厳のある声を作りました。

「三年前の、冷めた紅茶を、取り替えてくださった時です」

 王太子殿下の婚約者だった少女は、それを誰にも申しませんでした。我が儘の言える身ではないと、弁えておりましたので。

 ただ、外交史の棚の前を通っていただけです。

 ただ、忠告を一度で止めただけです。

 ただ、機が熟すのを待って、正しい手続きで、正しいことをしただけです。国のために。家門のために。

 ――そして、ほんの少しだけ、私のために。

 殿下は一瞬、言葉を失われました。そののち、それはそれは嬉しそうに、声を立てて笑われました。私が初めて聞くお声です。

 そのまま、当然のように隣の椅子を引き寄せて、ぴったりと座られました。手は、離してくださいません。

 どうやら本当に、毎日お支払いになるおつもりのようです。

 しばらくして、侍女が銀の盆に一通の手紙を載せてまいりました。北の辺境からの便りでございます。

 宛名の字が、元気いっぱいに踊っております。

 封を切ると、薄い紙に、丸い文字がびっしりと並んでおりました。雪解けと共に領地に芋を植えたこと。手洗いを広めたら冬の熱病が減ったこと。鉱脈の当たりをつけて、試し掘りを始めたこと。元王太子は読み書きと計算を一から学び直しており、「やればできる子」であること。

 そして最後に、こうございました。

『この前は本当にごめんなさい。迷惑をかけたことは、ちゃんとわかってます。ここは現実だって、やっと思えるようになりました。でも、今の一番の推しは悪役令嬢のヴィオレッタ様です! 幸せになってください!』

 私は、手紙を二度読みました。

 覗き込んでいた殿下が、私の肩越しに首を傾げられます。殿下の髪が、頬に触れました。

「悪役令嬢。彼女は、よくその言葉を使いましたね。結局、どういう意味なのでしょう」

 さあ、存じません。

 悪役令嬢についての諜報員の報告は、今も『該当なし』のままでございます。誰かが用意した芝居の、誰かが書いた台本の、憎まれ役なのかもしれません。

 ですが、もしそうなら、おかしな話です。

 私は誰に頼まれたわけでもなく、すべて自分で選びました。何を見逃し、何を待ち、誰を切り捨て、誰の手を取るのか。その責めを負うのも、私自身でございます。

 他人の用意した役など、ひとつも演じた覚えはございません。

 手紙を畳み、私は殿下の手から扇を取り戻しました。

 手のひらに当てて、ぱしんと閉じます。薔薇園に、乾いた音が響きました。

 そして、扇の陰で右の口角を上げて、私は申し上げたのです。

「悪役? なんですの、それ。私は、ただの悪女です」

 殿下が、実に満足そうに笑って、私の口角に口づけを落とされました。

 扇を、もう一本、新調する必要がありそうです。



番外 悪役令嬢の会



 それから、一年半ほどが過ぎた秋のことです。

 王宮の小さな茶室に、五人の女が集まっておりました。月に一度の、内々の茶会でございます。卓上には焼き菓子と、書類の束と、なぜか剣の手入れ油が並んでおります。

「では、本日の議題です。前回の比較表の、その後について」

 コルネリア様が、革表紙を開かれました。

 彼女は昨年、財務局の書記官とご結婚なさいました。王太子殿下の下で決裁に追われていた、平民上がりの痩せた青年です。比較表の評価項目は三十二。家柄の欄だけが最下位で、他はすべて満点だったそうです。

「夫は毎晩、家計簿を一緒につけてくれます。とても、幸せです」

 頬を染めるコルネリア様に、私たちは拍手をお送りしました。

「ベアトリス様は、いかがです」

「先月、近衛の副隊長を拝命しました。女では初めてだそうです」

 赤銅色の髪の彼女は、短く仰って茶を飲み干されました。その膝の上に、見慣れない手巾がございます。縫い目が、ずいぶんと不器用でした。

「それは」

「ガレスからです。見習いから、やっと正騎士に戻ったと。もう一度、背中を預けてもらえるまで、毎年手合わせを申し込むそうで」

「お受けになるのですか」

 私の問いに、ベアトリス様は手巾を畳みながら頷かれました。

「手合わせは受けます。今のところ、全勝です」

 口の端が、少しだけ上がっておりました。全勝の間は、見込みがあるということでしょう。

 イザベラ様は、南の隣国へ赴く使節団の、副使に任じられました。かの老公使が、わざわざ書簡で指名してこられたのです。

 ルイーゼ様は、宰相閣下の補佐官として、合議の議事録をすべて取り仕切っておいでです。閣下は最近「息子より嫁の方が」と呟かれたのち、嫁ではなくなったことを思い出して、ひどく落ち込まれたそうです。

「ところで、ヴィオレッタ様」

 コルネリア様が、革表紙の陰で目を光らせました。

「王太子殿下の支払いの進捗は、いかがでしょう」

 紅茶を吹くところでした。

「な、何の話でございましょう」

「侍女たちの間で、もっぱらの噂でございます。毎日欠かさず、十年分をお支払いだとか。単純計算で、完済まであと八年と六か月ですね」

「利息の取り決めは、ございまして?」

 イザベラ様が、たいそう優雅に首を傾げられます。

「私でしたら、複利を提案いたします」

「皆様」

 四人の才媛が、揃って真顔でこちらをご覧になります。

 私は黒檀の扇を開きました。三代目でございます。折れにくい材ではあるのですが。

 顔を隠しながら、私は卓上に目を落としました。茶室の使用届が置いてあります。会の名称の欄に、几帳面な字で記されておりました。

『悪役令嬢の会』

 言い出したのは、ルイーゼ様です。意味はわからないけれど響きが良い、と。ミア嬢の手紙から取った名だそうです。

 誰が用意した役なのかは、今も存じません。

 ただ、あの日の温室に集められた五人は、それぞれ自分の足で、役の外へ歩いていきました。

「では、次の議題に」

 コルネリア様の声に、私たちは背筋を伸ばします。

 国を回すのは、なかなかに忙しいのです。



エピローグ 第七号



 婚礼の朝は、晴れておりました。

 アルベルト殿下が二十歳を迎えられた、次の春。譲位の儀と、私たちの婚礼が、同じ日に執り行われます。五家の合議が三日で書類を滞らせ、王妃陛下が二年間それを捌き続けられた、その結末でございます。

 花嫁の控え室には、各地からの祝いの品が積まれておりました。

 ひときわ大きな木箱は、北の辺境からです。開けてみると、ごろごろとした芋が詰まっておりました。その上に、鈍く光る鉱石がひとつ。添えられた手紙には、例の丸い文字で、豊作と鉱山の開業が報告されております。

 その下に、もう一枚ございました。

 読み慣れない、ひどく下手な字です。けれど、一字の誤りもありません。

『即位を祝す。伯爵領の本年度決裁は、すべて期日内に完了した。レオナール』

 短い文面でした。

 あの方が、期日内に。

 私はしばらく、その不揃いな署名を眺めておりました。それから丁寧に畳んで、祝いの品の目録に挟みました。

「お嬢様、お支度を」

 振り返ると、長年仕えてくれている侍女が、白い手袋を捧げ持っておりました。

 地味な顔立ちの、目立たない女です。幼い頃から側におり、紅茶を淹れ、傘を差し、扇の修繕を手配してくれました。名前を呼ぶと、ひと呼吸も置かずに返事をいたします。

「こちらが、本日の式次第でございます。ご確認を」

 差し出された覚書に、私は目を落としました。

 几帳面な、細い文字が、用紙の上に整然と並んでおります。

 手が、止まりました。

 見慣れた文字でございました。

 枕元の小卓に、幾度となく置かれた文字。『該当なし』と記した文字。

 ゆっくりと、顔を上げます。侍女は、いつもと同じ表情で立っております。

「……第七号」

「はい、お嬢様」

 ひと呼吸も置かない返事でした。

 控え室に、遠くの鐘の音が届きます。

「いつから」

「お嬢様が三つの時より」

「私が、窓から庭に向かって声をかけた夜は」

「お部屋の、お嬢様の後ろにおりました。寝台を整えておりましたので」

 私は、深く息を吸いました。

 悪女でございます。王太子を退け、国王を黙らせた女でございます。

 十七年、毎朝、諜報員に髪を結わせておりました。

「殿下に、扇の骨をお渡ししたのも」

「修繕不能品の処分でございます。処分先は当職の裁量です」

「どう懐柔されたのです」

「焼き栗を」

 真顔でした。私の周りには、真顔の者しかおりません。

 そののち、侍女はごくわずかに、口の端を緩めました。十七年で、初めて見る顔です。

「本日をもちまして、当家の監視任務は完了いたします。つきましては、王妃付き侍女への転属願いを、提出してございます。受理には、王妃陛下ご自身のご署名が必要でございます」

「私の署名、ということですか」

「はい。本日の午後から、お嬢様は王妃陛下でございますので」

 差し出された書面には、もう署名欄に小さな印がつけてありました。

 私は、声を立てて笑いました。花嫁が控え室で笑う声としては、少々不作法だったかもしれません。

 ペンを取り、署名いたします。そして、手袋に手を通し、立ち上がりました。

 扉の向こうで、栗色の髪の青年が、約束の四半刻前からお待ちのはずです。今日の分の支払いを、携えて。

「参りましょう」

 黒檀の扇を、手のひらに当てて。

 ぱしんと閉じて、私は歩き出しました。

【監視日報 最終 担当・第七号】

 対象:ヴィオレッタ様。

 本日、婚礼および即位の儀、滞りなく完了。対象の所作に誤りなし。歩調、通常より一割速い。

 黒檀の扇、四代目。損傷なし。

 なお、対象の国王陛下に対する感情については、当職の職掌外につき記載しない。

 記載しないが、当職の十七年の所見を、二行のみ付す。

 対象は、悪女である。

 そして、たいへんお幸せである。




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