7. 染色の街
あの部屋に行ってから、今日で、ちょうど一週間になる……のかしら。
その間……私は、出社していない。
当然、会社からの連絡は、毎日あった。最低限、一日に一度は応じた。
……でも、それが限度だった。
熱が下がらない。悪寒が止まらない。吐き気も酷い。
ほぼ、寝たきり状態だった。
築四十年超えの、六畳一間の安アパートで、ただただ苦しんでいた。
もちろん、病院にも行った。
でも、原因不明と言われる始末。
四○二号室の呪い……なのかしらね。
そういえば、小野くんも、原因不明の咳や発熱が……とか言って、時々休んでたわね……。
――いっそ、このまま辞めてしまおうか……。
私には、あんな会社に義理立てする理由もない。
むしろ……。
ふと、社員の面々を思い浮かべた。
あんな会社にしがみついて、人生を捧げるだなんて、馬鹿げてると思う。皆も早く辞めたらいいのに。若い子たちは、特に。
くるりと、寝返りを打つ。
作業机が目に入った。
あの時手に入れた証拠品は、まだ手元にある。机の引き出しの中だ。使おうと思えば、使える。
でも、白峰の動きが……気になる。
あの感じだと、私が何かをしようとしているのは、気付いていたと思う。
下手に動いて……勘付かれたら……。
でも、このままでも、よくないかも知れない……。
朦朧とする頭は、あまり働いてくれなかった。
ふと、スマホを手に取った。
気が向いた時だけの、確認。
光が、目に痛い。
バナーが、画面を繰り返し占拠していく。
……着信、十件。LINE通知、百二十四件。メール、二十四件……。
LINEは、ほとんどグループね。
今日も会社は、お元気そうで……。
「……あら。リッセーから……。なにかしらね」
リッセーからも、メール送信の件だとかで、あの翌日には何件か来ていたけど。
……最新のメッセージは、というと。
┌――――――――――┐
織瀬 おつかれさまー。
体調はどう?
よくなったらさー
とりま寿司いこうぜー 22:22
└――――――――――┘
寿司……。
そういえば、約束したわね。もう少しよくなったら、それもいいかもね。
そう思いつつ、連絡先を開いた。
画面をスクロールして、目当ての人物を探す。
――あった。
あまり気乗りはしなかったけど、この期に及んだら仕方がない。と、タップした。
コール音が鳴る。
『はい』
三度目のコール音の後、不機嫌そうな返事が聞こえた。
「あ、佐藤です。ご無沙汰してます」
しばらく声を出していなかった私は、なるべく丁寧に声を出した。
『どこの佐藤さんかな?』
「以前、そちらでお世話になっていた、佐藤廻です」
『あー。ヘッドハンティングされたとか、自慢して辞めていった佐藤さんかな?』
「その節は……って、上山さんは相変わらずですね……」
『どういう意味だ。……いや、そんなことより、今更何の用だ? こっちは誰かさんが急に居なくなってくれて以来、毎日残業なんだよ』
「まぁ、それは申し訳ないと思ってますけど……。あのままだと、一生出世出来ないかと思っていたので……」
『ふん。世間話やら中身のない謝罪ならいらん。用がないなら切るぞ』
「ああ、すみません。用は、あります。ちょっと、今の会社について、相談……というか。近い内に、お会いしたいのですが……。直近のご都合、いかがでしょうか」
『忙しいって言ってんだろ。……どうしてもってんなら、事務所に来い。受付には伝えとく』
「ありがとうございます。お忙しいところ、失礼いたいました」
『ふん。まぁ、十年以上勤めた古巣なんだ。存分に懐かしみに来い。じゃあな』
「はい」
と、返事をしている間に、電話は切れていた。
相変わらず、せっかちな人ね……。
時刻を見ると、正午過ぎだった。
シャワーを浴びて、外出準備をすることにした。
▽
古巣の上山公認会計士事務所。
所長の上山さんは、公認会計士資格を持つ税理士なのよね。
そのせいか、税理士資格をやっとの思いで取得した私の事なんて、雑用ぐらいにしか思っていなかった節があった。
中々の激務で十数年。すり減っていく毎日だったわねぇ。
築四十年超えのビルの一角。
その前に立ち、感慨深く懐かしむ……というより、いわゆる遠い目になってしまった。
自動ドアを通ると、簡素な受付カウンターがある。
「あ、本当に佐藤さんだ。お久しぶりです。早かったですね」
「村上さん。ご無沙汰ね。急に申し訳ないわね」
受付兼事務の村上さんは、懐かしい笑顔で出迎えてくれた。
キツイところもあったけど、いい子だったのよね。
今年で三十六歳だったかしら? そういえば、池上と同じ年齢ね。
そう考えると、ずいぶん違うわねぇ。やっぱり結婚してるから? それとも、池上がブラック企業の社員だからかしらね。
「では、こちらへどうぞ」
「ありがとう」
かつて慣れ親しんだ廊下を、かつての同僚の後に続いて、歩いた。
「こちらでお待ちください。上山所長にお伝えしますね」
「ありがとう」
案内された相談室も、逆の立場で入ると、不思議な気持ちだった。
こちら側の席は、入所の採用面接以来かしらね。
ぼんやりと、そんなことを考えた。
しばしの後、ガチャリとドアが開いた。
「本当にすぐ来たな。……よっぽどのことなのか」
「上山さん……お忙しいところ、ありがとうございます」
「……ん? お前、ずいぶん顔色が悪いな。本当にどうした? ……病気か? 別れでも言いに来たのか?」
「いえ、体調は……少し、悪いんですが……。今日は、これについての相談です……」
鞄から、証拠のコピーを取り出して、上山さんに手渡した。
カサリと乾いた音を立て、テーブルに置かれたそれに、上山さんが目を通していく。
「んん……? これは、裏金作りか、資金洗浄か……」
ふむふむと顎を摩りながら、上山さんは、呟きを漏らした。
「いえ……。もっと、闇の深いものかと……」
「……どういうことだ?」
上山さんの眼光が、鋭くなった。
「いえ……あの、相談……なのですが。国税監査を、この会社に入れたいのです」
あまり詳しく説明したくなかった。
あんな会社に、真っ当な人が、直接関わるべきじゃない。
「……なるほど。国税ね。だから俺のところにきたのか」
「はい。私は税理士資格を持っていますが、今の会社では経理を預かる立場にありません。それに、私には、国税局とのパイプがありませんから」
「ふん……。税理士として、というわけでもないんだろう? 何があったんだ、その会社で……」
「それは……」
耳奥に、あの音が蘇る。白峰の顔が、ちらつく。呼吸が、乱れる。
話せば、上山さんも危険な目に遭うかも知れない。
……でも。
落ち着いて考えれば。
これは、もう……巻き込んでしまっているのかも知れないのよね……。
「佐藤。全部話せ。事情も知らんでは、手伝う気にならんぞ」
「……わ、わかりました」
私は、ゆっくりと目を閉じた。
胸が、締め付けられていく。少し、下を向く。手に汗が滲んでいた。
細く締まった喉から、ゆっくりと……噛み締めるようにして、掴んでいた会社の実態を……ぽつりぽつりと絞り出した。
そんな私の話を、上山さんは、目を瞑り、腕を組み……ただ黙って聞いていた。
▽
私の話が終わると、上山さんは、短く「わかった」と言った。
あの人がそう言ってくれたのなら、監査は時間の問題だろう。
単なる税務署の任意調査ではない。
国税なら、強制執行だ。
監査の間は、いくら白峰とはいえ……動けなくなるはずよね……?
あわよくば、使途不明金の追求から、悪事が暴かれてくれないかしら……との期待もある。
そこまでいかなくとも、悪事の連鎖が止んだらいい。
私の張り紙で、犠牲者が増えるのは……。そんなこと、考えたくもない。
ふと、立ち止まり、振り返る。
事務所を後にした時には、もう夕陽が沈みかけていた。
空も、雲も、街並みも、ひたすらに赤く染め上げられていく。
この光景も、あと数時間で……全てが黒に染まるのだ。
――私は、染まりたくはない。
かといって、私に出来ることなんて、知れている。
アニメや漫画に出てくるような、ヒーローなんかじゃないんだから。
しょぼくれた、社畜のおっさんでしかない。
そんなことは、百も承知。
――ふうと、大きく息を吐いた。
……そうね。気分も変えたいし、このまま会社を休んで、週末にはリッセーと寿司でも行こうかしらね。
夕陽を背に、ふらつく脚に喝を入れた。
自宅アパートまで、あと少し。




