6. 入居者募集
階段を無言で下る。
カツカツという足音が遠い。
心臓が苦しそうに息継ぎをしている。
これは、運動のせいじゃない。あの、篠原勇気のせいだ。
なんであんな時間に……。
この件には、本当に関わってはいけなかったのかも……。
冷汗が、止まらなかった。
じっとりと濡れた額に、頬に、そして背中。寒気さえしてくる。
「……使う?」
リッセーが、ポケットから取り出したのは、汗拭きシートだった。
「あ、ありがと……」
受け取って、汗を拭った。
本当にリッセーは、気が利くというかなんというか。
カフスボタンの言い訳がなかったら……。もし、一人だったら……。
そう考えると、汗ふきシートの清涼感が、真冬の氷ようだった。
街灯も疎らな道。ふと見上げれば、星の光。それすらも誰かの視線に思えて、震えた。
「やっぱさ、ついてってよかったよ……」
寮から距離が離れた頃、リッセーが何か呟いた。
「え?」
その声に、振り返ると。
リッセーが、ふっと小さく息を吐いた。
「んー。ベランダにさ、土が散ってたんだよな。砂じゃなくて」
「……それが?」
「プランターか何かが、あったってことだよ」
「プランター……が、どうしたの?」
「それが、今は、ないわけだ。小野と一緒に消えたのかも……って考えたらさ。ヤバいモノ系かもなーって」
「ヤバいもの……?」
「草とかキノコとか、あんじゃん。気持ちよーくなれるヤツ」
「……嘘でしょ?」
「ハハハ……。そうだといいなー」
リッセーが、頭の後ろで手を組んだ。
「で、さ。クローゼットの床、変色してたよな。やたら薬品臭かったし」
「……え? あれ、変色してたの?」
「んー。多分、段ボールが置いてあったんじゃないかなー? 床板の途中なのに、ピタッと四角い跡だったしなー。あの匂いは、中身、多少漏れたのかもなー」
「あ。変な匂いといえば、部屋の床も、すごくツンとする場所があって……」
「あー……。なるほど……」
リッセーが、一瞬立ち止まった。
「……佐藤さん。今回は、この辺が引き際だぞ。多分……明日には、証拠隠滅だよ。アレ、もう、小野は消されてるわ」
リッセーは、まるで『おにぎりが売り切れてたわ』くらいの言い方だった。
「えっ……?」
理解が……追い付かない。
「まぁ通報したところで、現状だと、まともな捜索には、ならんだろうしさぁ……」
「それは……そうかも……ね」
確かに、証拠らしい証拠は、何も見つけられなかった。これじゃ、ただの行方不明事件よね。
「てか、本格的な掃除が入ったら、証拠なんて出んだろーしなー」
「そう……なの」
「何にせよ、オレが手助け出来るのは、この辺までだぞー? ここから先は、生命に関わるだろーしなー。もう、やめときなよー?」
「あ、うん。ありがとね。……今度、美味しいものでも奢るわね」
「お? マジかー! やったぜ! 久しぶりの寿司だなー」
「えっ? 寿司なの?」
「えっ? 寿司だろ?」
驚いてリッセーを見れば、リッセーも目を丸くしていた。
「ぷっ……あはは……! リッセーったらもう」
なんだか、気が抜けた。久しぶりに、ちゃんと笑った気がする。
こういう毎日だったら……よかったのに、ね。
▽
従業員用通用口の扉を開けると。
「おう。お疲れ」
そこに、白峰専務が、腕組みをして立っていた。
「あ、専務。お疲れ様っすー」
「お、お疲れ様です……」
リッセーは、本当に平然としていた。
何故そこまで動じないの……?!
私は、へたり込みそうになる脚に、必死で力を入れた。
「小野の部屋……なんか、あったか?」
「ん? ああ、ブランド物がたくさんあったかな? ね? 佐藤さん」
「……へっ? あ、そ、そうね……。ブランド物……たくさんあったわね」
「勇気から聞いたぞ? 忘れモンだと?」
「忘れものっていうか、失くし物っていうか、って感じすっねー」
「おい、オーリー。お前には聞いてねぇ。黙ってろ。……佐藤さん。何を忘れたって?」
「あ、これ、です。カフスを……」
慌ててシャツの袖口を見せる。
「ほぉ? そんなの、日中してたか?」
白峰は、片眉を上げて、顎を摩った。
「あ、いや、失くしていたことに、気付いてなかったので……。してなかったんだと、思いますが……」
「……そうか。まぁ、ご苦労さん。……ただな、あの部屋の件は、俺がやると言ったんだ。余計なことはするな。それにな。忘れ物をしたってんなら、先に報告するのが筋だろうが。違うか?」
「あ、は、はい……。そ、そうですね。大変申し訳ございません。なにせ、業務時間外に気が付きましたので……。失礼に当たるかと思いまして……」
「そぉか。気ぃ使ってくれた、と。……まぁいい。俺は、ただの従業員じゃあねぇ。労働基準法適応外だ。気にせず報告しろ」
「は、はい……。以後は、そのようにいたします」
ポンと、肩に手が置かれた。
このまま握り潰されそうな、大きな手。そして、温度を感じない手。まるで氷を押し付けられたように、身体の芯から凍えていく。
「じゃあ、俺は帰る。お前ら、どっちか残るんなら、最後のやつが施錠しとけよ」
「承知っすー。上、もう誰もいないんすか?」
「おお。いねぇよ。誰もな……」
――バタン!
乱暴に閉められた扉の音が、オンオンと社屋にこだましていった。
……。
「佐藤さーん。座ってないで、ほら、立って」
「……えっ?」
気付かぬ内に、へたり込んでいた……らしい。
「……ああ、うん。ごめん」
「ハハッ。まぁ、あんな風に詰められたらさ、しかたないって」
「……そ、そうね」
「さてと。サクッと終わらせて、帰ろうかー」
リッセーの手を借りて、立ち上がる。
廊下は、非常灯の薄緑と、闇が支配していた。
見慣れた光景のはずなのに、気味が悪い。小野の部屋の影響なのか、白峰専務の影響なのか……。
歩き出したリッセーの後を追って、震える脚で、無理やり歩く。
――小野くん、か。
確かに、褒められた人物ではなかった。でも、そんなに簡単に生命を奪っていいものなの……?
もし、それが本当なら、この会社は狂ってる。
「んじゃ、オレ営業部でちょっと片付けしてくるからさ。また後で来るよ」
「ああ、うん。おつかれさま……」
リッセーは、自分の部署室へと向かっていった。
私は、経理部屋で、また一人。
さっき見付けた、数少ない"証拠"の、コピーを取った。
念の為、USBメモリにもPDF形式で保存した。個人のUSBメモリに保存とか、コンプライアンスとしては最低だけど……。
とはいえ、こんな狂った会社に、そんなことを言われる筋合いはない。
この不自然な高額支払い履歴……前職の伝手を使ってでも、国税局に……。
それだけでも、上層部は自由に動けなくなるはず。その隙に、こんな会社、辞めてやる。
……そう、決意した。
そして、リッセーが呼びに来る前に、見付けた分は全て作業を終えることが出来た。
▽
翌日。
何食わぬ顔で、いつも通りに出社した。もちろん、証拠は自宅に保管してある。
――だから、何故呼び出しされたのか、見当がつかなかった。
「佐藤さん。ちょっと頼みたい仕事があるんだ」
白峰専務は、薄く笑顔を貼り付けていた。
「は、はい。なんでしょうか……」
「この紙、社内掲示板に貼っといてくれ。それと、社内メールにも」
「は、はあ……」
差し出された紙を手に取り、文面を見た。
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当社の自慢は、家賃一万円の格安社員寮。
バストイレ別。
自動給湯、ウォシュレット完備。
冷暖房付き。
四畳分の収納、四畳分のベランダ。
十四畳のワンルーム。
築十年。クリーニング済。
入居条件 : 専務の"業務外命令"に
忠実であること。
待遇 : 月給三十万から。
(副業可。応相談)
※長期入居者、大歓迎※
あなたも、いかがですか。
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紙を持つ手が、震えた。くしゃくしゃと、音を立てる。
「四〇二、空いたからよ。……なんなら、佐藤さん。あんたが入るか? 二週間もありゃあ入れるぞ」
にたりとした白峰専務の眼光が、突き刺さる。
「あ、いえ……。すぐに、作業します」
「はっ……。そうかい。じゃあ、くれぐれも頼んだよ。くれぐれも……な」
「は、はい。かしこまりました……」
一礼し、逃げるように専務室を出た。
――駄目だ。あの目……。まさか、バレている……?
コピーは、盗聴されていても平気なはず。だったら、なんで……。
ふと、天井を見上げた。
――そうだ。廊下には、防犯カメラがある。でも、あれはダミーだという話だったはず。その話が嘘で、むしろ……部署室にあったのだとしたら……。
この会社は、全部筒抜けだった――?
勝手に震え出す身体を、全く止める事が出来なかった。
掲示板の前に立ち、先程の紙を貼る。……つもりが、身体が言うことを聞かず、全然上手くいかない。
「ん? 佐藤さん。おはようさん」
「リッセー……」
「どしたん? ……顔色悪いな」
「いや……これを貼ろうと……ね」
「ふーん……」
リッセーは、サッと私の手から、紙を奪った。
「そっか……。後は、やっとくよ。任せな。……早く、帰るといいよ、もう。……具合、悪そうだし、ね」
そして、ふわりと哀しそうな笑顔を作った。
「いや、それ、メールもしないと……社内報に……」
私には、その表情の意味が……解らなかった。
「ああ、わかった。オレも全社メールは権限あるからさ。大丈夫。それもやっとく。だから……帰りなよ」
そう言って、リッセーは掲示板に紙を貼ると、営業部の方へ歩いていった。
何気ない会話……だったと思う。
でも……きっとこれは、色々意味が込められた言葉……。
ふらつく足取りで、私は私物だけを持ち……会社を後にした。
振り返ると……薄黒い社屋が、私を見下ろしていた。




