5. 四〇二号室
コンビニでは、飲み物と、おにぎりを買った。
そして、社員寮まで徒歩で向かう。
「で、一応聞いときたいんだけどさ。告発って、外部組織にって意味だよね?」
その、十五分程度の距離。リッセーが、軽い調子で訊く。
「……そうね」
告発だなんて、私も初めての経験だ……。
想像すると、じわりと全身が汗ばんでくる。こんな経験、しなくて済むなら、しない方がいい。本当に、そう思う。
「ふーむ……。となると、相当決定的なものでも発見しないと、無理だろうなー。あんまり期待できんぞー? なんか出なそうだしなー。ハハッ」
いつものクレーム対応や、営業計画を語る時と、リッセーは、変わらない様子で軽い。
私には、それが頼もしくもあり、少しだけ……恐ろしくも感じられた。
「決定的なもの……ねぇ。でも、リッセー的には、小野君は……」
「うーん。拉致られたのか、消されたのか、だと思うなぁ……」
社員寮で、本当にそんなことがあるとしたら、心底恐ろしいわね……。
でも、それだけじゃない。あの部屋は、何かがおかしい。とにかく不気味なのよね……。
「ねぇ、リッセー。あの部屋、色んな噂があるけど……」
「噂? あー……。事故物件的な話かぁ……。アレさ、色んな噂過ぎるだろ?」
街灯の光で、リッセーがぼやけて見えた。
「そうねぇ……」
私は、朝、その噂の一端を体感した。
耳の違和感は、確実にあった。空気も、重い気がした。
でも、事故だとか怪我だとかは、していないのよね。
まぁ、あんな部屋に住むんだとしたら、眠れないのは確実でしょうけど。
「なーんか、わざと攪乱してる気もするんだよなぁ……」
「攪乱……?」
「そうそう。まぁ、小野の前にいた奴も、同じような感じでいなくなったのは覚えてるよ。ある日突然、来なくなった。二年前くらいだっけなー。佐藤さんが入社する、少し前かな?」
「……そう、なんだ」
「それ以前のことは、オレも分かんないなー。オレも入社して五年だしさー。小野の前の奴は、オレの入社前から居たわけだし。昔の話は、中井次長にでも聞くかどうか……っと。もうこの辺から、変なこと言わない方がいいかもな」
「あ、うん。わかった」
気が付けば、寮が見えてきていた。
あと百mくらいかしら。こんな所から警戒するだなんて。
リッセーは、普段緩そうな割に、ずいぶん慎重なのね。
一体、どんな人生を歩んだら、こんな風になるのかしら……。
▽
「いやー。しっかし、佐藤さんもうっかりしてるとこあんだねぇー」
寮の階段を上りながら、リッセーが大声を出した。更に、いつもよりオーバーアクションだ。コンビニの袋を振り回しているほどだった。
「ごめんねぇ、付き合ってもらっちゃって」
私もそれに倣って、大きめの声を出した。
天井から赤い光が、チカリとこちらを射抜いている。
朝は気が付かなかったけど、ドアの間隔毎にカメラがあるみたいね。
――見られてる……。
そう気付くと……次第に、脚が感覚を失っていく。雲の上を歩いているみたいだった。
「ハハハ。いいって。夜食奢ってもらったわけだし? ちゃんと付き合いますって! ボタン探し」
でも、リッセーは何食わぬ顔だ。
その明るい声色に、何とか正気を保たせてもらった。
四〇二号室の前に着いた。
合鍵を、右手に握る。
――あの音が、蘇る。
心臓が、激しく躍る。……でも、今は一人じゃない。
ガチャリと、鍵を開いた。
あれ? 朝来た時は、鍵は開いてたはずよね?
いや、これは、自分で閉めてきたのだった。ああ、何か、混乱してる……かも。
ぞわぞわする。背中を冷たい羽毛で撫でられている気分だった。
ギイィと、慎重に扉を開いた。つもりが、バッと開く。……何で?!
眼前は、ぽっかりと開いた、黒。
目隠しをされたかのように、真っ暗だった。
息を、飲んだ。
意を決して、一歩、踏み込む。
――空気が、重く……澱んでいた。
耳の奥で、何かが……反響する。
知らぬ間に、呼吸が浅く短くなっていた。
「暗いなー。電気どこだろ」
リッセーの、少し気の抜けた声に、ハッと我に返る。
異様な雰囲気に、呑まれていたみたいね……。
「あ、ちょっと待って」
パチリと、玄関横の電気を点けた。
暗闇から浮いて出てきたのは、昼間と大差ない、部屋。
そして、耳に残る……重たい何か。
「ほーん。ここが、小野の部屋かぁ」
リッセーが、ゆっくりと部屋を見渡した。
「ん? 耳鳴りみたいなのしてきたなー。んー……。とりま窓開けよ」
そして、カラカラと窓を開けた。
「うーん。風もないし、空気の入れ替えもクソもないなー。なんか、変な匂いしない? この部屋」
「え? リッセーもそう思う?」
「タバコ臭いってのかなー」
そう言いながら、リッセーはベランダにしゃがんだ。
「……うーん。ボタンないなぁー」
「そうねぇ……」
どうやら、演技らしかった。
そうだった。監視の目があるかも知れないから、核心に触れる会話はするなって、リッセーが言っていたわね。
私も、昼間に開けた場所、歩いた場所を順番に見て回る。どうにも、ドーンドーンと、耳の奥が煩い。脚が、竦む。
昼間は、ただ見に来ただけだった。
でも、今は違う。
不正や、反社会的行為の痕跡を見つけにきたのよ。そう気持ちを奮い立たせて、床を這うように見る。
――ツンと、鼻腔に刺激臭が刺さった。思わず声を上げそうになったけど。
「……床にはなさそうねぇ」
そう言ってごまかしながら、ウォークインクローゼットへ。
ガラリと開け放つと、やはりブランド物たちが出迎えた。高そうなものなのに、ごちゃっと置かれている。
配置は……朝と変わっては……いない、みたい。
クローゼットの床が、ツートンカラーになっているのも、変わってない。
「……佐藤さん、あった?」
ベランダから戻っていたリッセーが、背後に立っていた。
「うーん。床にはなかったから、ここかしらねぇ」
「そっかー。あ、ちょっとどいて」
リッセーが、クローゼットにしゃがみ込んだ。
「……んー。お? あー……。む? ちがうかー……」
そして、ボタンを探すふりをした。
「ん? これじゃない?」
しばらくして、リッセーが右手を差し出す。
「あ、それ! それよー。ありがとね」
なるべくわざとらしくならないように、受け取った。
……私が事前に渡しておいたものなんだけど、ね。
「よっし、帰るかー」
そう言って、リッセーが立ち上がった瞬間――。
――ガチャガチャッ!
と、ドアノブを乱暴に開く音がした。
だ、誰……?!
「ああん? なんで電気点いてんだ?」
冷淡で、ドスの効いた声だった。
「ああ、勇気さんじゃないっすか」
「ん? オーリー? 何してんだ? ここで」
勇気……。篠原勇気。
入ってきたのは、ブレイブの代表だった。
以前見かけた時は、怪しい車屋としか認識していなかったけど……。
改めて見ると……白峰と同種という感じが、ありありとする。
「ああ、なんか、佐藤さんが朝に来た時、お高いカフスボタン失くしたらしくって。で、夜食奢ってくれるってんで、探すの手伝ってたんすよ」
そんな男に、リッセーは親し気に、平然として答えていた。
「ほぉん……。ボタンね。んで、あったんかよ?」
篠原は、当然ながら、怪訝な表情だ。
そして、さり気なく視線を部屋中に這わせていた。
一瞬、その視線が、クローゼットで止まった気がした。
あそこに何か……あるのかしら……。
「あ、はい。今、ちょうどリッセーが見つけてくれて……」
混乱しながらも、私は、おずおずと、カフスボタンを見せた。
「そうかよ。じゃあ、さっさと帰んな」
篠原は、蝿でも払うかのように、手を振る。
「そりゃまぁ、まだオレまだ仕事残ってるし、戻りますよー。ってか、勇気さんこそ、なんでここに? 小野に用事なら、今日は朝からいないっすよ」
「あ? 俺は、白峰さんに頼まれたんだよ」
篠原の目が、座った。そして、顔を傾けた。眉間に、亀裂が走る。
「そうなんすねー。やっぱ社の代表さんともなると、時間関係なく大変っすね。お疲れ様っす」
でも、リッセーは、普段通りの調子だった。
「ん? まぁ、会社っつっても、ウチは零細だかんな。融通利かせねぇと、仕事取れねぇからよぉ」
篠原は、顎を突き出して、右手で髪をかき上げた。
「いやー。さすがっす。オレも代表とか、名乗れるようになりたいもんなー。マジで羨ましいっすわ」
リッセーも、同じように右手で頭を掻いていた。
「はっ……。まぁ、せいぜい頑張んな。おら、俺も忙しいんだからよ、さっさと行けや」
篠原が、顎をしゃくる。
「あー、邪魔してすんません。じゃ、また! ほら、佐藤さん、いこっか」
すっと、フランクに右手を上げて、リッセーが篠原に挨拶をした。
「……あ、う、うん。し、失礼します……」
そして、促されるまま、私は震える脚に活を入れ、摺り足でゆっくりと動き出した。
「おー……」
そして、私は篠原に軽く一礼すると、リッセーと二人、部屋を後にした。
背後でバタンと閉まった扉の音が、やたらと耳に残った。




