3. 風に揺れる紫煙
一旦仕事に戻ろうと、部署室へ戻れば。
「佐藤さん! 遅い! 白峰専務が呼んでたわよ!」
戸田の怒り声に出迎えられた。
目をこれでもかと吊り上げた、凄い表情……。
白峰専務が私に、何の用かしら……。
戦々恐々。急ぎ専務室に向かった。
――コンコンコン
「失礼します」
他の部屋より、少し重たいドアを開けて、中に入る。
妙にひやりとした。
「おお、佐藤さん。来たか。……聞いたよ。小野が来てないんだってな」
革張りの椅子に腰かけて、白峰専務は手を組んでいた。じっと、こちらを見ている。感情が、まるで読めない。
「はい。そうなんですよ……。戸田部長に様子を見てくるように言われて、部屋に行ってみたのですが……」
白峰専務は、三十三歳。
実年齢は、私よりもだいぶ下だけど……。
上背もあり、横幅もある。体格の良さもあり、かなりの威圧感だ。
私の声は震え、語気も弱くなってしまっていた。
「ほう。戸田部長ね……。佐藤さんは総務とはいえ、そこまでの雑用をさせるのは、勿体ないな。小野がどうであれ、あの部屋が空くのなら、クリーニングの手配はこちらでするよ。もう気にしなくていい。戸田部長にも伝えておいてくれ。もちろん、俺からも言うよ」
トントンと、指で机を叩き、そして、顎を摩りながら、こちらを覗き込む仕草に、胃の腑が凍えた。
頬に冷たい雫が這って、ひたっと床に落ちた。
何で……クリーニング……?
「あ、ありがとうございます……。そのようにいたします」
「ああ、全然いいさ。存分に働いてくれ。会社のために、な……」
白峰専務は、口元をぐにゃりと三日月形に歪めた。くいっと細めた目の奥には、どろりとした光があった。
「では、失礼いたします……」
腰を抜かしそうだった。
全身の毛孔という毛孔が、泣き喚き、狂乱していく。
ロボットのような動きしかしなくなった脚で、私は、専務室から、文字通り逃げ出した。
あれは……何?
リッセーの、言う通り……なのね。
世の中には、関わってはいけない人種というものがいるのは、私も知っている。あれは、それだ。
それにしても、専務自らがあんな……。
一体、あの部屋に、何が……?
部署室に戻りながら、そんな逡巡が、止まなかった。
▽
夕方、喫煙所に行くと。
リッセーが電子タバコを片手に、黄昏れていた。
「あら、リッセー。よく会うわねぇ」
「おお、佐藤さん。おつかれー。よく会うって、そりゃ、お互い喫煙者なんだから、そうなるだろー」
「それもそうねー。あはは」
なんだか私は……久しぶりに笑った気がした。
どうにも、リッセーと話していると、力が抜ける。彼の纏っている、緩い雰囲気のせいかしらね。
「だろー? このご時世、喫煙者は肩身が狭いぜー。だからオレ、しゃーなし紙はやめたもん。佐藤さんは紙だよなー」
「そうねー。どうも電子の匂いがねぇ。なんか変じゃない?」
「まぁ、オレも慣れるまでは違和感しかなかったよー。でも、嗅覚は記憶に残りやすい反面、一番最初に麻痺する感覚、らしいからねー」
「へー。リッセーって、変なこと知ってるわねー」
「ハハッ。くだらないことは、話のネタに最適ってね」
「嗅覚は、慣れる……か」
少し、朝のことを思い出した。
あの部屋の匂い。ちょっとツンとするくらいの清涼感。何だったのかしら……。
「ん? なんかあった?」
思考に囚われた一瞬に、リッセーが、覗き込んでいた。
「ああ……小野君の件。白峰専務が口を挟んできたのよねー……。戸田部長の命令で、わざわざ部屋まで行ってきたのにさ……。ちょっと、もやもやするって言うか、ね……」
ふと顔を上げると、夕陽が目に染みた。
「おぉん……。マジかー。小野、こりゃ……やらかしたか……」
リッセーが、こめかみに右手を当てた。
「え? どういう……?」
「んー……。日本ってさ、行方不明者って、実は意外と多いじゃん? あれさ、密かに消されてる人間、たっぷり含まれてると思うんよねー。いわゆる社会の闇……裏社会ってやつ?」
「裏社会……」
「そ。……まぁ、昔からよく聞く、"タコ部屋"なんてのも、形を変えながら、まだあるんだろうけどさ。当然、"見つからなければ永遠の行方不明"って殺人も、たくさんあるはずさー」
「たくさんって……」
そんな現実、見たことないけど……。
でも、聞いたことくらいはある。噂は噂であって欲しいという部類だし、映画なんかの創作の世界だけにして欲しいけど……。
「平和な日本、なんて言われてっけどさー。案外、境界線は曖昧なんだよなー」
境界線……。
じゃあ、あれは……。その"線"だったのね。
でも、何でリッセーは、そんな事まで知って……。
「……リッセー。そんな事にも詳しいの?」
ふと、リッセーを見た。
「ん? 詳しいってか……まぁ、オレもそっちの世界と関わったこと、ちょっとあるしね……」
光の加減なのか、リッセーの顔に陰りが見えた。少し目を細めて、虚空を眺めているようだった。
「……そうなんだ。意外ねぇ」
リッセーは、少しぶっきらぼうなところがあるとは思っていた。
でも、いつも軽くて、やる気がなさそうに見えるくらい冷静で、頭の回転も早いのに。
まして、見た目も細身で、優男然としてるのに。
裏社会……?
人は見た目によらないって言葉、体現しすぎよ……。
あ、でも、力が結構強いとは言われてたかも?
ん? 鍛えてる人だったら、それも普通よね。
うーん。本当かしらね……?
「まーねー。今は普通に社畜だしなー。そんな黒歴史、わざわざ吹聴しないって」
リッセーは、乾いた笑いだった。
この人、"何かを抱えて生きてきた人"だから、妙に優しいのかしら……。
「リッセーは、隣りの県出身だっけ」
「あー。地元はこの辺じゃないねー」
「そっか……。人生って、色々あるわよねぇ……」
つい、しみじみと零してしまった。
「そうねー。まぁ、困ったことがあったら、聞くよ。……聞くだけかも、だけどな? ハハッ」
でも、リッセーは、軽い調子だった。だから、素朴な疑問を口にしてしまった。
「あ、困ったことっていうか、ね。ブレイブって会社、どんな感じなの? 私、総務だけど直接関わったことなくて……」
「あー。担当窓口、中井次長だもんな。オレは次長の代わりにって、お使いに行かされたこと、何度もあるから知ってるけど」
「あら、そうなの」
「そうそう。佐藤さんが来る前なんて、細かい雑用も、大きな雑用も、ほとんどオレがやらされてたかんなぁー」
「……それは、大変だったわねぇ」
「ハハハ……。おかげさんで、仕事が早くなったぜー」
「いや、笑えないわよ……」
雑用ほとんどって……。どれだけブラックに働かされてたのかしらね。
さすが、営業部と技術部を兼任させられてるだけあるわね……。
それをこんな平気そうに、笑い話にしちゃうとか。本当にどんな感覚で生きてるのかしらね、この人。確か、まだ二十八よね? 次長と同い歳の友人って聞いてたけど……。
「そっかぁ? まぁでも、今は佐藤さんがいるしなー。楽させてもらってるよー」
「そう? そう言ってもらえるなら、ちょっとは苦労してる甲斐があるかしらねぇ……。ていうか、リッセー、中井次長と仲良いでしょ? 手伝ってくれなかったの?」
「あー……まぁ、次長は創業メンバーだからなー。教育制度皆無! 社長の言うことは絶対! の環境で、まともなマネジメント力なんて育つわけないさー。おかげで、仕事振らなきゃ上司じゃない! 精神が強いんだよなー。そりゃ、たまには手伝ってくれたりはしたけどね……。人手が必要なこととかはね。別に、人間が腐ってるわけじゃないからさ」
「ああ、なんかわかるかも……」
「それに、あんな感じだからな。あの人、ブレイブのことを疑ったりなんて、全くしてない」
「ああ、まぁ……中井次長、素直な人、だもんね……」
中井次長は、プライドは高い。
でも、あまり賢い印象はない。言わなくていいことも、言ったら不味いことも、平気で言ってしまう。指示や判断も曖昧なのよね。
むしろ、見ている感じ、リッセーに頼りきりだ。依存してるようにも感じる。
だから、肩書きの割に、あんまり頼りにならないのよね。
でも、なんだか人間臭くて、嫌いにはなりきれないタイプだったりもする。まぁ、見た目も堀の深いイケメンだしね。
「ハハッ……。いい感じに言えばそうだな。……まぁ、それはいいとして。あの会社、従業員っての、実はひとりしかいないんだよ。でもさ、時々違う人がいるんだよな。聞いてみたらさ、『アレはバイトだ』って、篠原さんは言ってたが……人相がやばいよなー。ハハハ」
「いや、笑い事じゃないでしょ、そういう感じならさ」
ブレイブ……やっぱりあの白峰が使ってるだけはあるのね。
「えー? オレはオレに害がないなら、全部笑い事だよ」
リッセーは、そう言って柔らかく微笑んだ。
少し、見入ってしまった私の手から、ぽたりと灰が落ちる。
赤々と熱を湛えたタバコの先端から、ゆらりゆらりと立ち昇る紫煙が、微風に消えて行った。




