1. 佐藤の憂鬱
その部屋は、誰も住みたがらない部屋だった。
ある人は、「何か、見えたんだ……」と言った。
ある人は、「声が、聞こえるんだ……」と言った。
ある人は、「変な匂いが、するんだ……」と言った。
ある人は、「空気が、重くて。眠れない」と言った。
ある人は、「事故とか怪我とか、酷くて」と言った。
ある人は、「ベランダに出たら、悪寒が……」と言った。
――それが、我が社の社員寮、南嘉手納荘、四号棟、二号室。
沖縄みたいな名前でも、ここは本州の地方都市。
嘘か誠か。先代社長が、沖縄旅行の後で名付けたとか。
どんな思い付きなんだか。
なんか出なそう、とか揶揄されるだけあるわね。
昭和のセンス……と、言わざるを得ないけど。まだ築十年なのよね。
……まぁ、そんな話はどうでもいい。本当に。私には関係ない。
――そう、思っていた。
私は、佐藤廻。当年厄年。
いわゆる、社畜のおっさんというやつね。
約二年前、四十路の大台に乗った頃に声を掛けられ、この会社に転職してきた。
あの時は、創立十数年、上り調子の新興企業という外面の良さと、提示された金額に、ヘッドハンティングだと、少し浮かれてしまったのよね。
……今は、後悔してる。
私は、元々経理畑の人間だった。
でも、何故か人事と総務を任されてしまった。
同じ"事務系の仕事"と、思われるのかも知れないけど。
内容は、全然違う。全然違うのよね……。
採用担当は、まだいい。
前職でも、採用面接に同席したことはあった。それなりの人生経験もある。
問題は、総務。
主に、社内の設備管理を担う部署……なのだけど。
……要するに、雑用なのよね。
「シュガー。電球替えといてー。二階の女子トイレねー」
現に、こんな扱い。
「池ちゃん。私、男だけど。自分でやってよ」
と、精一杯抵抗を試みるも……。
「えー? あたし忙しいし。シュガーやっといて。よろしくー」
当たり前という顔で、断られるのが常。
肩で風切る威風堂々とした歩き姿を、チベスナ顔で見送る。
……今日も、あの女は調子がよさそうね。
池上亜希。三十六歳、独身。
いわゆる、お局様的存在。一応、主任。
……こんなのが主任とか。昇進の基準、見直すべきよね。
知らぬ間に、溜め息が漏れていた。
社畜はつらいよ。というやつね。
それにしても、女子トイレって……。
最早、嫌がらせの域じゃないの……。
高速道路出入り口と、最寄り駅が近い、好立地に建てられた、四階建ての社屋。
かちゃりかちゃり。荷物を持ち、歩く。
築浅で綺麗なビルの、渇いたコンクリート壁に、響く。
何かが、奪われていくようだった。
二階へ行くと。
「お。佐藤さーん。おつかれー」
「あら。リッセー。お疲れ様ー」
すれ違いざま、にこやかに挨拶をしてきたのは、織瀬幸昌。二十八歳。
役職は、主任。営業部と技術部を兼任している、異例の存在。
私と同じく、使い倒されている側ね。
気さくなタイプで、あだ名で呼ばれる事が多い。
私は、リッセー呼び派だ。他にもオーリー派、リセくん派など、色んな派閥がある。
この会社では珍しく、会話が出来る人物ね。
「ん? 佐藤さん、また変なこと押し付けられた?」
リッセーの目線が、手元の荷物に向いていた。
「あらあら。リッセーは、勘がいいわねぇ」
こんな彼は、皆から頼られているのよね。
……人助けが趣味なのかしら。
「いや、勘ってか……それ、電球っしょ」
「そうなのよー。池ちゃんにねー。女子トイレがどうのって、ね……」
「まじかぁー。全く。あの女……。あ、ちょっと待っててよ」
「え?」
言うが早いか、リッセーは疾風のように、消えた。
忍者……? 若者って、元気ねぇ。
「おまたせー」
二分ほどすると、リッセーが戻ってきた。
「ちょっと、織瀬主任……なん、ですか……速いです……って……」
その後ろには、息も絶え絶えな上野さんの姿があった。
「あら、上野さん。おつかれさま」
「あ、佐藤さん。お疲れ様です」
そんな上野さんと、挨拶を交わしていると。
「んじゃ、上野さん。頼むねー」
リッセーは、手をひらひらさせて行ってしまった。
「えっ? ちょっと?!」
……迅速にもほどがあるわよ。
せめて何か言ってから戻って欲しかった……。
「あ、佐藤さん。電球、代わりますね。さすがに女子トイレは、女子がやる方がいいだろうって、織瀬主任が……」
と、思った傍からの、上野さんの説明。抜かりないわねぇ。
上野さんは、若手の社員の中では、素直で明るくて嫌味がない。さらに、気が遣えるタイプ。安心して任せられるわね。
「……そう。ありがとう。じゃあ、よろしくね」
私は、電球と道具を渡し、部署室に踵を返した。
――さすがリッセー。適材適所が分かってるわね。
▽
私の部署……は、一人部署だ。
人事と総務は新設らしい。そして、私が任命されてからの増員は、ない。
だから、部署室も、経理部に間借りしているのよね。
そんな、仮でしかない部署室に戻ると。
「佐藤さん! 何してたの! 遅いわよ! こんな時に!」
「戸田部長。どうしたんです?」
経理部長の戸田が、顔色を変えていた。
……私とは馬が合わないからか、五十にもなって、嫌がらせに余念がない人物だ。
「社員寮よ! 社員寮!」
「……はい?」
主語がない会話も困るけど、名詞だけ連呼されても分からない。慌てていることだけは伝わるけど。
「小野君が出勤しないから、寮の子に見てきてもらったのよ……」
「はい」
「……消えてたらしいのよ。忽然と」
「……え? さぼりですかね?」
「いえ。それが……荷物も、車も、何もかも……そのままらしいのよ……」
「はあ……」
「小野君、例の部屋でしょ」
「あ、そうでしたね」
南嘉手納荘、四〇二号室。
何かと噂の絶えない部屋。入居者が出ても、すぐ居なくなってしまうとか。机に退職届が置かれていれば、いいほう……だとか。
「小野君がどうなったかも気になるし……後処理もあるでしょ? 今すぐ見てきて!」
「……えっ?!」
驚きの声が、つい漏れた。
でも、その直後に出そうになった盛大な溜息は、何とか嚙み殺した。
▽
私は、一応課長という扱いだ。
そう。扱いというだけで、正式に任命されてはいないのよね。
当たり前だけど、部長権限に逆らえるわけもなく……。
不満を吐息に混ぜ込みながら、コツコツと階段を上る。足音が、妙に響く。
星型に並んだ五棟。
小野君の部屋は、最奥側の四号棟だ。北側の外廊下は、晴れた朝だというのに、薄暗かった。
――ギイッ
四〇二号室のドアは、軽く引いたはずなのに、自動ドアのようにバッと開いた。
……鍵も掛かっていなかった。
部屋も、薄暗い。外廊下よりも、さらに。南窓のはずなのに……。
噂で聞いていたように、なんだか空気が……重い。
ぱちりと電気を点けた。
「……ああ、本当ね……」
視界に浮かんだ広々としたワンルームには、脱ぎ散らかされたままの服、掛けられたままのスーツ……。
そして、食べかけの料理までが……。
……時間が、止まっているかのようだった。
ガラッと、ウォークインクローゼットを開けてみた。
……ごちゃっと荷物が積まれていた。
有名ロゴの付いた衣類やカバンが目に付く。小野は、ブランド物が好きらしかった。
雑な性格なのは知っていたけど、そんな高そうな品物が、ずいぶんと乱雑な状態だった。
カラカラと、ベランダを開けてみても……ガランとして、何もない。風すらも凪いでいた。
失踪……?
……とてもそうは思えなかった。料理を食べかけたまま……なんて。不自然よね。
それに、どこかに行くのなら、せめて金になるようなものは持って行くはずよね……。
何か、事件……かしら……。
とはいえ。今日は、月曜日。
金曜日は、小野君は普通に出社していた。まだ今日が行方不明初日だ。警察へ届けるにしても、早い。
そもそも、事件性の有無が分からない大人の失踪に、警察は本腰なんて入れない。
生ゴミの処理だけして、社に戻るしかないわね……。社内で聴き込みしてみて、それから通報……かしらね。
しかし、四〇二号室は、噂に聞いていたよりも、意外なほど"普通"の部屋だった。
しっかり室内消臭剤も香る、病院を思わせるような空気感。狐につままれたような、そんな心持ちだった。
……でも。拭い去れない違和感がある。
人が居たはずなのに、誰も居ない部屋。
就業時間中の社員寮。当然、他の部屋に人の気配はない。
不気味なほど、静寂に包まれていた。
でも、なにか……。
耳の奥で、心臓の鼓動とは違う、拍動……のようなものが、ドーンドーンと、重く響いている気がした。
気圧……?
いや、今日は快晴そのもの。この部屋の気圧だけ変だなんて、そんなこと……。
耳鳴りかしら。……耳鼻科に行く時間、取れるかしらね……。
ため息混じりに、ドアノブに手を掛けた。
――その刹那。
扉が、脈打つように……震えた。そして、ドンと、弾けるような音。
バッと顔を上げて、周りを見渡す。
……当然、誰もいない。
(……マ……テ…………ヨ……)
そして、風の音が……まるで人の声のように……。
――え? 風なんて吹いてなかったわよね?
首筋に、ぞくりと冷たいものを感じた。
転がるように部屋を飛び出ると、慌てて合鍵を取り出し、施錠した。
階段を駆け下りて、振り返る。
空き地の中に聳える、黒い壁。
南嘉手納荘……。
やっぱりここ、何か……あるの……?




