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尾鰭がつく。人魚になる。

作者: 秋山知寧
掲載日:2026/03/02

【尾ひれがつく。人魚になる。】秋山樹


「俺さ、昨日見ちゃったんだよね」


 昼休み。向かいの席に座る田中が弁当の卵焼きを箸で掴みながら言った。


 僕が「何を?」と聞き返すと、彼は机から少し身を乗り出し、口元を隠して言った。


「幽霊だよ、幽霊。幽霊がプールで泳いでた」


「なんだそれ」


 いつも通りの田中のくだらない冗談かと思ったが、彼は「マジなんだって」と静かに声を張り上げた。


「大会近いから自主練してたんだけどさ、気づいたら部室で寝落ちしてて、夜中目覚ましたらプールで何かが泳いでたんだよ!」


「他の部員じゃねえの?」


 少年誌の追っている連載のページを探しながら片手間で答える。けれど彼の熱量は変わらず僕に訴えかけてくる。


「んなわけねえだろ、十一時過ぎだぜ?他に残ってる奴がいるかよ」


 田中は僕から少年誌を奪い取る。


「まじでちゃんと聞いてくれよ。少年漫画の一ページ目だぞ」


「お前の話はどこまで本気かわかんねえんだよ」


 僕が取り返そうとすると、彼はひょいっと躱す。


「まじで、あれはおばけだった」


「幽霊って泳げんの?」


「水泳選手だっていずれ幽霊になるだろ」


「わかんないけど、お前祟られたりしてんじゃない?」


 言うと、田中は漫画を机に置いて神妙な面持ちをした。


「それは有り得る」


 大真面目な顔で答えた。


「おれもさ、部員だと思って話しかけたら、向こうもビックリしたみたいで水中に潜っちゃったんだよね」


 田中は自分が掴んだ魚のフライを一瞥して、それを弁当箱に戻すと続けた。


「……脚が、なんか、人間じゃなかった」


「どういうこと?」


 まだ彼の話を全く信じていない僕の質問に、彼は「うーん」と頭を抱えた。


「人魚みたいだったかも」


「……はぁ?」


「人魚に恋すると海に誘い込まれて死ぬって言うだろ?俺、死ぬかもしれない」


「人魚が埼玉のボロい学校に泳ぎに来るかよ。それもわざわざ芋男を迎えに?」


「黙れ。本当にいたんだってば!」


「いたとしてどうやって泳いできたんだよ。排水溝から?」


「あー!もう埒が明かん。お前、俺が人魚見つけたら、リアルに一万円」


「じゃあ見つけれなかったら一万円な」


 正直なところ、僕にとってこの学校のプールは全く縁のない場所だから、彼の言う人魚がいようがいまいがどうでも良かった。


 ここ最近、そういうくだらない話をする昼休みが続いている。いつも通り四方山話で盛り上がっていると、教室の前方から女子達の会話が聞こえてきた。盗み聞きをするつもりがなくても聞こえる、大きくて配慮に欠けた声量と会話内容。このクラスの昼休みの平常運転でいつもなら気に留めない。のに、今日は会話に耳を傾けてしまった。


「聞いた?吉田くんと水上さん別れたらしいよ」


「え、もう別れたの?吉田くんかわいそー、まだ二週間も経ってないでしょ」


「吉田くんから振ったらしいよ。まぁでも水上さん性格に難アリそうだもんね~」


「水上さん何人目?もう二桁行ってない?」


「なんて言うか、モテてる自分が好きって感じなんじゃない?」


「クラスじゃ大人しいキャラらしいけど、めっちゃ茶髪だし、絶対遊んでるよね」


 彼女達の会話に登場した名前に僕は思わず反応してしまった。


 少し背筋を伸ばした僕を田中が「まぁまぁ」と苦笑を浮かべながら制した。


「言わせときゃいいだろ?アイツらどうせ水上と話したことすらねぇよ。全員水上よりも、顔もあれだしな」


「だから気に食わないんだよ」


 僕はランチクロスを雑に畳んで立ち上がった。まだ昼食を食べていた田中が「おいやめとけよ」と僕の腕を掴んだが、僕はそれを振りほどく。


「殴り込んだりしねぇよ。トイレ行くだけだって」


 関わりもないくせに幼馴染を悪く言う奴らに憤りを覚えたのは事実だが、ソイツらに何か言い返してやれるほど強い正義感は持ち合わせていない。


 何も言えないから、こっそりと女子達を睨みつけて、視線が交差しそうになると咄嗟に逸らした。


 逸らした先で、僕の目は彼女を映した。女子達の悪口の標的になっていた水上夏奈(みなかみ なな)が、廊下の向こうから歩いてきていた。思わず「あ」と声を漏らすと、彼女は僕の方を一瞥して、すぐ何事も無かったかのように隣にいた女子と会話を再開した。






 夜。家の近くのコンビニで立ち読みをする夏奈を見かけた。声をかけると、彼女は顔を上げて「びっくりした」と呟いた。抑揚のない声、全く驚いてなさそうな顔。相も変わらず彼女には表情がない。


「何してんの? 」


「何もしてない」


 夏奈はそう言って少年誌を雑誌棚に返すと、アイスコーナーに向かって、パピコを手にした。彼女の会計が終わるの入口で見守っていると、やがてジャージの

 ポケットにお釣りを入れながらこちらへ歩いて来た。


 夏奈の華奢な身体には大きすぎるジャージからは、今日も塩素の匂いがする。


「関東大会来週なんだっけ? 調子は」


「それなりにいい」


 夏奈は氷菓を開封しながら頷いた。


 昼間、アスファルトに閉じ込められた熱が夜の空へと帰っていく。通り雨の滲んだ匂いに混ざって時々する夏奈の、プールの香り。


 コンビニから家までの短い距離を二人で歩く。水中に居すぎて歩くのが遅いんだと田中が揶揄っていた、その歩幅に合わせて、いつもの倍以上の時間をかけながら歩く。


「お前、また彼氏と別れたんだって?」


「うん。フラれた」


「またフラれた側かよ。何人目だっけ?」


 僕が馬鹿にするように笑って訊ねると、夏奈は一つづつ折った指を僕に見せつけて「八」と発音した。思わずすげぇなと漏らした。


「でも全部一ヶ月も続いてなくね?」


「うん。すぐに冷められる」


 彼女の恋愛は酷く受動的だ。いつも告白される側で、破局する時はいつもフラれる側。


「まぁ、お前無愛想すぎるもんな。ツンデレとかじゃなくてただのツン」


 そう笑った僕の前にパピコが半分差し出された。夏奈を見ると、彼女は控えめに首を傾げた。


「デレって、こういうの?」


 そう聞いてきた彼女の、相変わらずの無表情に僕は思わず吹き出した。彼女は不満そうな顔をするでもなく、パピコを引っ込めて「違うのか」と呟いた。


「フラれる時いつも、『一緒にいても全然楽しそうにしてくれないから』って言われる。あと『思ってたのと違った』とか」


 整った容姿と茶色い髪。きっと夏奈の元カレ達はチャラい女子だと思って彼女に近づいてきたんだろう。


「まぁ、楽しそうにしてくれる子の方が気持ちはいいだろ。思ってたのと違ったは、どちらかと言うと相手が悪いわな」


 夏奈は「そうか」と小さく頷くと、僕にパピコの片割れを差し出してきた。僕が受け取ったのを確認した後、彼女が訊ねた。


「ゆーすけも楽しそうにしてくれる子の方がいいと思う?」


「んー、別に。楽しくなさそうな奴と育ってきたからな。そういうやつの扱いには慣れてる。って自負してる」


 夏奈は相変わらずの無表情で僕の顔を見つめていた。何を考えているのかわからないこの顔を気味悪がる人間も多くいる。


 僕が何も思わないのは、彼女のことが好きだから。ではない。僕が今まで付き合った女の子は全員彼女とは正反対の性格だったし。本当に『慣れ』てるだけだ。


「てかお前、本当に好きで付き合ってんの?いっつも相手から告白されてるけど」


「……好きじゃないし、好きになれるかもって思ってるけどいつも好きになれない」


「は?じゃあ最初から断れよ」


「断れない」


 夏奈はそう言うと「断りたくても断れない」と付け加えた。彼女の顔は相変わらず感情を映さない。


「断ったら相手が傷つくと思ってんだったら、それこそちゃんと断るべきだろ。好きじゃないのに好きなフリされる方が相手は傷つくぞ」


「そういうんじゃない」


「じゃあなんで?」


 僕が訊ねると、彼女は僕の顔を見つめた。


 表情のないその顔からは、感情も、言おうとしていることも何も読み取ることは出来ない。いくら十余年一緒にいるとはいえ、伝わらないものは伝わらない。


「……なんだよ」


 十秒程の沈黙の後に僕が訊くと、彼女は顔を再び正面に向けた。それから「猫だ」と呟いて、黒猫を目で追い始めた。話題に終止符を打つ時、彼女はよく適当な

 ことを言って話を逸らす。そして、それ以上追求しても彼女が何も答えてくれないことを僕は十数年の経験から知っている。


 僕らは家のすぐ近くにまで着いていた。次の角を曲がって三軒目。向かい合う一軒家、白い壁の家が僕の家で、青い壁の家が彼女の家。


「じゃ、また明日」


 家より随分と手前、角を曲がる前に夏奈は僕に手を振った。


「は?どっか行くの?」


 僕が訊ねると、彼女は「学校」と答えた。もうこんな時間、今日も残すところあと一時間なのに。小柄な女子高生が一人でほっつき歩くのには危険を感じざるを

 得ない時間帯だ。


「こんな時間に?」


 言葉にはしなかったが、僕の声から心配するようなニュアンスを感じ取ったのか、彼女は「大丈夫」と頷いた。それから掌に乗るサイズの筒を掲げて「防犯ブザー」と呟いた。小学生時代の物を律儀につけているのが面白かった。


「大丈夫かよそれ。お前ちっせぇんだから簡単に持ち上げられちゃうだろ」


「心配してくれるんだ」


「そりゃあ、まぁ」


 彼女はやはり無表情だった。こういう時は嬉しそうな顔をするのが普通なんだろうな、と思っていると彼女は「心配しなくていいよ」と言った。そうは言ってもやはり心配だった。


「そもそも何しに行くんだよ」


「プールで自主練」


「あぁ……。そういえば田中も残ってやってたって言ってたな」


 その時僕は昼間に田中とした会話を思い出して、意地悪のつもりで夏奈に言ってみた。


「田中が言ってたんだけどさ、出るらしいよ。幽霊」


 しかし、彼女は表情を変えずに僕の目を見た。


「出るわけないじゃん」


「ははっ。お前は幽霊信じない派だもんな」


「そんなことないけど。むしろオカルトはすき」


「意外だった。じゃあ幽霊出た方が面白いだろ」


「面白くはない。出たらこわい」


「田中曰くさ、その幽霊泳いでたらしい。めちゃくちゃ綺麗なフォームで。もしかしたら幽霊じゃなくて人魚なんじゃねって言ってた」


 僕が言うと、彼女は「あぁ」と頷いて、今度は身体全体をしっかり僕の方に向けた。それから僕の顔を真っ直ぐに見つめて、言った。


「人魚ならいるよ」


 冗談だと思って笑った僕の顔を、彼女はじっと見つめていた。


 そして、やはり感情の一つも映らない顔と声で言った。


「人魚、見に来る?一緒に」


 無表情。抑揚のない声。僕をじっと見つめる大きな目。それを見つめていると深い海に溺れていくような感覚に陥った。瞳に囚われた僕は首を縦に振る他になかった。


 家から高校まで三十分程の道のり。その半分以上僕らは沈黙していた。僕が何か話題を振っても、言葉のラリーはどんなに長くても十回、ほとんどの場合は二三回で途切れる。もちろん夏奈の方から話題を振ってくることはない。退屈さとか気まづさとか、相手が夏奈以外だったら感じていたんだろうけど、夏奈相手に今更そんなものは感じない。レパートリーの少ない鼻歌プレイリストが一巡した頃、ちょうど学校に着いた。


 正門前を通り過ぎて、敷地の裏に回る。監視カメラに映らないルートがあるらしい。


「なるべく物音立てないでね」


 夏奈の声は、穏やかな風と同じ周波数帯だった。この距離からでも少し聞き取りづらい。僕は頷いて、彼女に続いてフェンスの向こう側に侵入する。


「暗っ。なんも見えねえ」


 校舎裏のテニスコート脇、小さな林には街灯などなく、前を歩く夏奈の影を辛うじて認識できる程度だった。枝を踏む音、蝉の鳴き声、葉が揺れる音。夜の静寂が作り出した音の森を抜けると、足はアスファルトを踏んでいた。月明かりに照らされ、夏奈の背中が久しぶりに目に映った。


 遠くで聞こえるサイレン。まさか僕らを迎えに来たものではないだろうとわかっていながらも、少し緊張した。


 いくら生徒とは言え、夜間に敷地内に侵入するのは犯罪になるかもしれない。そんなことを考えながら校舎がある方に目を向けた。蛍のように見える非常口の光を残して、他の電気は全て消えていた。


「先生達もこの時間さすがに帰ってるんだな」


「いや、たまにこの時間でも職員室電気ついてる」


 何となく呟いた僕は、夏奈の言葉に驚いた。


「たまにって、お前、毎日来てんの?」


「ほぼ毎日。雨と曇りの日以外」


「まじか」


 そこまでしてプールに入りたいならジムに行けばいいのに、と思ったが口にはしなかった。無料で邪魔の入らない学校のプールの都合の良さはわかる。


 だけど毎日この時間に一人で外を歩いていると思うとやっぱり不安だった。


 この学校のプールは体育館の屋上にある。外階段を使って屋上まで行くとや五十メートルプールを囲む錆びたフェンスが現れた。それをまた乗り越えるのかと思いきや、彼女は更衣室に向かい、鍵をポケットから取り出して解錠した。


 僕が驚くと彼女は「部長だから」と言ったけれど、果たして生徒が鍵を持ち歩いてていいのだろうか。


 靴と靴下を脱いで、腰洗い槽を避け、地獄のシャワーの下を濡れずに通過すると、プールサイドが僕らを待っていた。塩素の匂い、水が揺れる音、自分の知るプールとはまるで違う場所のように思えた。


「田中は今日いないんだな」


「あいついつも八時くらいには帰るもん」


「人魚は?何時くらいに出るの?」


 僕はプールに近づきながら訊ねた。僕がここに来た理由は人魚を見るためということになっている。


「この時間帯」


 そう答えると、夏奈は僕の隣に立って水面を見つめた。


 田中が見たと言っていたのも、確か十一時頃と言っていた。そしてまさかと思う。


 まさか田中は、夏奈を人魚と見間違えたんじゃないよな。


 そう思い始めると、少し込み上げてくるものがあった。

 

「まさかお前が人魚とか?」


 笑いながら訊ねると、彼女は僕の顔を一瞥して、黙った。彼女の視線がプールに泳ぐ。その目を見つめていると、突然、胸に衝撃を受けた。


「えっ」


 平衡を失った僕の身体は、重力に逆らう事無く水面に叩きつけられた。


 視聴覚が泡に溺れる。


 水面から顔を出して、久しぶりに酸素を得た脳が事態を理解しはじめる。


 僕をプールに落とした女が無表情で僕を見下ろしていた。


「ビビった、なんの恨みだよ」


「からかい」


「無表情で人を揶揄うやつがあるかよ。しかも地味に深いんですけどこのプール」


「大丈夫。もし溺れたら助けてあげてた」


「てか、人魚は?それもおれのことからかってた?」


 プールサイドに上がりながら僕が訊くと、彼女は何も言わずに背を向けて、プールから少し距離を取った。


「十秒、こっち見ないで」


「……え?」


 戸惑う僕を他所に、彼女は徐にジャージを脱ぎ始めた。


 脱いだジャージをプールサイドに投げ捨てて、ハーフパンツも同じようにとっぱらい、さらには下着すらも同じようにした。


 突然目の前に差し出された幼馴染の裸体と意味不明な挙動。僕は困惑して、陸で溺れるような感覚になる。


 彼女はそんな僕の目を見て「わたし」と呟いた。


 その顔や声には相変わらずどんな感情も滲んでいない。


 月明かりを呑んで輝く瞳で、僕をじっと見つめて、彼女は言った。



「わたし人魚なんだ」



 夏奈はまるで重力から解き放たれたように、飛んだ。不思議なくらい、静かに水が閉じる音がする。細かな水飛沫を浴びて、僕は思わず目を閉じる。


 再び目を開けた時、僕は目を疑うようなものを見た。


 水の中で揺れる銀色の光。月の光を細かく砕いて貼り付けたような、その光は、鱗。尾鰭だった。


 光が僕の近くで止まると、水面が割れて、そこから夏奈が顔を出した。僕を見上げている。髪から胸に伝う雫が宝石のように輝く。


 人魚は、いた。









【尾鰭がつく。人魚になる。】










 夏奈はプールサイドに上がると、僕の隣に腰を下ろした。腰骨のあたりから滑らかに鱗が広がって、月光を受けて淡く虹を孕んでいた。


 彼女には、脚の代わりに尾とひれがあった。


 僕が言葉を失っていると、夏奈は尾ひれをプールサイドに叩きつけながら「感想は?」と僅かに首を傾げた。声はいつも通り平坦だ。僕はしばらく言葉を探す。


「いや、十数年一緒にいるのに知らないことってあるんだなって……思った」


 ありのままを言う。


「そんなこと聞いてない。私の裸見るの小学生ぶりでしょ」


 僕が「良い」と答えると「きも」と返してきた。冗談なのかガチで引いてるのかはわからなかった。


 こうやって普通に会話をしていると、いつも通りの夏奈といるような感じするけれど、視界の端に、どうしても銀色が映る。


「えっ、なんで人魚なの?」


 聞いてからおかしな問いだと思った。まるで人間になんで人間なの?と聞いているような。


「お前ちっちゃい時から人魚だったっけ?」


「話すと少し長くなる」


 夏奈が「聞きたい?」と尋ねてきたので僕は素直に頷いた。


「はじめて人魚になったのは、小学三年生」


 小学三年生。


 僕は、その年が彼女にとってどんな年だったのかをよく覚えている。


 思い出すのは、秋の乾いた風。夏奈が大きな声で泣いていたあの日。


 だって、あれが僕が見た最後の感情表現だったから。


「お母さんが居なくなった年なんだけど」


 夏奈の母の気性がおかしい事を、当時の僕は幼いながらにもなんとなく感じてはいた。夏奈が僕の家に預けられることが多かったのはそのせいだったことも今は知っている。


「お母さんが家を出ていった時期、『夏奈ちゃんのママ不倫したんでしょ?夏奈ちゃんのママみたいな人のこと、アバズレって言うんでしょ?』って周りの子からからかわれて、いじめられたりした」


 彼女の話に違和感を覚える。


「あれ……? お前の母さん、不倫して出てったんだっけ?」


「違う、普通にネグレクト。だけど、噂に尾ひれがついて、男を作って出ていったことになった」


 彼女は尾ひれをプールサイドにペチンと叩きつけて続けた。


「おかげで私までアバズレちゃんって呼ばれるようになった。ランドセルにアバズレって書かれたり、男子からそういう嫌がらせされたりして、泣きながらゆーすけに助け求めたことも結構あったね」


 彼女の横顔を見つめながら、僕は記憶を必死に漁る。


「……そんなこと……あったっけ?」


 彼女の話したことが、記憶のどこにも思い当たらない。あんなにそばにいたのに、『不倫』とか『アバズレ』とか言われいじめられていたことも、相談されたことも覚えてない。


 信じられなかった。信じたくなかった。彼女に関わる大事なことを、僕は忘れてしまっている。


「覚えてないよね」


 彼女の声は、怒ってる訳ではなさそうだった。もっとも、怒っていてもそれは声には現れないけど。


 謝ろうと開いた口が、次の彼女の言葉で塞がらなくなった。


「記憶から消したんだもん」


「……え?」


「魔女に消してもらったんだ。噂についた尾鰭と、この脚の尾鰭」


 彼女は言いながら水を掬って、掌で月を揺らした。それから感情の滲まない顔で、僕を見つめた。


「それが小学三年生の時の話」


 彼女の話を理解するまでには少し時間を要したけど、信じるまでにはそう長くかかるはずもなかった。目の前に人魚になった夏奈がいるのだから。


「人魚になったのはこれで三回目。中三の時にも一回人魚になったんだ。その時は私が先生と関係を持っているって変な噂流されて、職員室でも問題になった」


 また聞いた事のない噂だった。職員室でも問題になっているなら学校中で話題になっているはずなのに、僕は聞かなかった。


「それも消してもらった。先生が可哀想だったから」


 夏奈は、彼女に関する噂に尾ひれがついて大きくなると、その脚にも尾ひれがついて人魚になる。突飛な話ではあるけど、信じるに足る証拠なら目の前の尾ひれ

 と、もう一つある。


「でもまた人魚になっちゃった」


 昼休み、クラスの女子たちの会話を思い出す。彼女達にとって悪者の水上夏奈の噂話。


「色んな男子と付き合ったのは事実だし、女の子が私の事を快く思えないのも当然なんだけどね」


 夏奈は尾ひれを撫でながら呟いた。


「だけどまだそういうこともした事ないのに痴女とかヤリマンとか誰でもやらせてもらえるって言われたり、パパ活してるとか言われたり、顔も知らない男子が私とやったとか言ってたり」


「なら、もう一回消してもらえばいいじゃんか。その噂の尾ひれ」


 夏奈は首を横に振った。それから僕を見て訊ねた。


「アンデルセンの人魚姫。どんな話か知ってる?」


 今度は僕が首を横に振ると、彼女は掌から月を零して話し始めた。


「人間の王子に恋をした人魚姫は、魔女と契約をして人間の脚を得る代わりに声を失ったんだ。……声を失った人魚姫は、結局王子様に何も伝えることができなかった」


 夏奈は自分の尾ひれに手を添えながら続けた。


「私も失くした」


 その時、何となく理解した。夏奈は感情を表に出さなくなったのではなくて、出せなくなったのだと。何かを伝えることができるのは、声だけじゃない。


「……そういうことだったのか」


「うん。泣きたいし、怒りたいし、嘆きたい。でも出来ない。涙も出ない。声に抑揚もつけれない。嬉しい顔も悲しい顔も、何も出来ない」


 見つめあった夏奈の顔に、やはり表情は差さない。


「中学の時も魔女と契約して、今度は本当の気持ちを言えなくなった」


「……本当の気持ち?」


「うん。好きとか嫌いとか、言えなかった」


「……断りたくても断れなかったって、そういう」


「うん。仮に告白してきた相手を好きになれたとしても愛情表現が出来ない。そうやってたくさん傷つけた」


 僕は何も知らなかった。


「次は何を失くすかわからない。声だけじゃなくて、筆談とか手話とかのあらゆるコミュニケーションが出来なくなるかもしれない」


 夏奈がじっと見つめる先に、黒い魚影がある。


「だから、この尾鰭は消さない」


 感情の通わない声で夏奈は淡々と言った。


「でもいいの。みんなだって自分につけられた尾鰭を引きずりながら、必死に泳いでる。私は二度、ズルをしたから、これは私の罪なの」


 黒い魚影は人型になって、僕らに近づいてくる。


「だから私はこれを引きずりながら生きるから。あなたにはもう用はないの」


 夏奈が話しかけていたのは、その黒い影だった。あれが、夏奈から『声』を奪った魔女なんだろうか。水槽の中で溶けて、囁く。


『クズ』『カス』『ゴミ女』『アバズレ』『塩素臭い』『尻軽』『ブス』『根暗女』


 水槽の中、無数に散らばった黒い魚影が夏奈を罵る。夏奈は無表情で、まるで何も感じていないかのように、ただただその声を聞いている。僕が居た堪れなくなって、彼女の手を引いて逃げようとしても、彼女は動かなかった。


「……魚は泳ぐ水槽を選べないから」


「こんな水槽なら逃げた方がマシだろ」


「大丈夫。私はここで泳いでみせる」


「……なら僕が殺してやるよ、こんな魚たち」


 少しでも、夏奈が泳ぎやすいように。


「ありがとう。ゆーすけと同じ水槽で育って良かった」


 僕は彼女の方を見た。すると彼女は大きな目で僕を見つめていた。


「……えっ?」


 彼女は黙ったまま、無表情で僕を見つめていた。


「こういう時に感情が顔にでないのは便利だなって思ったよ今」


「なんだ、それ」


 照れ隠しをした僕。照れていたとしてもわざわざ隠す必要もない夏奈。


 分かってた。


 僕は彼女のことを、ただの幼馴染以上の存在として思っていることに自分で気がついていた。


 いつも素っ気ないから、自分にはそんな気がないのだと思っていた。


 傷つきたくないから、自分の気持ちに嘘をついてきた。でももうそんな必要も無い。僕は自分の気持ちを言えるんだ。


「夏奈」


「なに?」


 月が僕らを見つめている。


 重ねた唇を離した時、夏奈の顔に少しだけ、表情があったような、そんな気がした。

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