短編小説 『夢』
夢は今日も、静かに続いていく
目を覚ましたとき、最初に思ったのは「軽い」だった。
胸の上にあったはずの重さがない。息を吸っても、喉の奥が焼けない。
僕は舗道の真ん中に立っていた。
住宅街。
見慣れた景色のはずなのに、街路樹の幹が途中で曲がっている。折れたわけじゃない。最初から、そうあるべき形みたいに歪んでいる。
三角屋根の家も、頂点が少しだけずれていた。
歩く。
足が前に出る。
それだけで、胸の奥がざわついた。
こんなふうに動くには、いつも誰かを呼ばなきゃいけなかった。
柵を外してもらって、管に気をつけて、それからやっと一歩。それが僕の日常だった。
ここでは、誰も何も言わない。
通りの向こうから人が来る。
年齢も服装も違うのに、全員が同じ速さで歩いていた。
「おはよう」
声をかけられ、僕も返す。
「おはようございます」
その瞬間、視線が集まった。
責めるでもなく、ただ確かめるような目。
「……大丈夫?」
意味のない問いなのに、心臓が跳ねた。
「大丈夫です」
そう言うと、彼らは興味を失ったように散っていった。
歩き回るうちに気づく。
この街には時計が多い。店先、家の壁、広場の塔。
けれど、針が動いているところを見たことがない。
それでも不思議と、不安はなかった。
体は軽く、息は続く。
夜になっても、機械の音が聞こえない。
左手首に、重みを感じた。
父の腕時計だった。
誕生日に、「もう使わないから」と無造作に渡されたもの。
ここでも、形は変わっていない。
歪んだ世界の中で、それだけがまっすぐだ。
指で触れた瞬間、病室の光景が浮かぶ。
白い天井。
ベッドの横で、無理に笑っていた父。
何も言わず、僕の手を握っていた母。
――帰らなきゃ。
そう思った途端、空気が軋んだ。
遠くで、何かが擦れる音がする。
振り向くと、人が集まっていた。
昼にすれ違った顔。
穏やかな表情。
「無理しなくていい」
誰かが言う。
「ここは、楽でしょう」
否定しようとして、言葉が詰まった。
確かに楽だ。
ここでは、歩くことに理由はいらない。
「でも」
口にした瞬間、地面がわずかに沈んだ。
建物の輪郭が滲む。
「それ以上は、やめて」
声が重なる。
一人じゃない。たくさんの声。
理解してしまった。
ここは一人分の夢じゃない。
重なった眠りが、形を保っている。
起きたくない人たち。
痛みから逃げた人たち。
そして、夢を続けるために、動ける誰かを必要としている。
「君は歩ける」
前に出た男が言う。
「だから、向いている」
彼の後ろで、誰かが掃除をしている。
何かを消すように、同じ場所を何度も。
「役割があるんだ」
男の手が、僕の肩に置かれる。
「世界を回って、整える。迷った人がいたら、声をかける」
胸の奥が、妙に静かになった。
それは、欲しかった居場所の形に似ていた。
父の腕時計を、無意識に握りしめる。
「……起きたい」
言い終わる前に、頭が割れるように痛んだ。
言葉が途中で溶ける。
遠くで、規則正しい音がする。
心電図の音。
止まらない。ただ、弱くなる。
「聞こえるでしょう」
誰かが優しく言う。
「続いている音」
母の声がした気がした。
名前を呼ぶ声。
けれど、それは風の音に溶け、囁きに上書きされる。
「ここにいればいい」
「君がいると、安定する」
足元が、舗道に溶けていく。
逃げようとしたが、体は動かない。
歩けていたはずの足が、地面の一部になる。
違和感が、安心に変わる。
腕時計の針が、かすかに揺れた気がした。
でも、誰も見ていない。
――目を閉じる。
翌朝。
街は穏やかだった。
歪んだ木の下で、青年が歩いている。
足取りは軽く、表情は柔らかい。
「おはよう」
声をかけられ、一拍遅れて笑う。
「……おはよう」
遠くの白い部屋で、
体は眠ったまま、規則正しい音を刻み続けている。
目を覚まさない存在を残したまま、
夢は今日も、静かに保たれていた。
息子の手は、今日も温かい。
指先を包むと、わずかに脈が伝わる。
「おはよう」
返事はない。
それでも、言わずにはいられない。
窓の外で、木が風に揺れている。
少しだけ、幹が曲がって見えた。
目をこすって、もう一度見る。
まっすぐだ。
「……疲れてるのね」
母は小さく笑い、息子の手を握り直す。
その瞬間、
ほんの一瞬だけ、指が返ってきた気がした。
気のせいだ。
そう思う前に、胸の奥が熱くなる。
「大丈夫」
誰に言うでもなく、母は囁く。
「ちゃんと、ここにいるから」
息子のまぶたは閉じたまま、
規則正しい音だけが続いている。
母は今日も、手を離さない。




