表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

短編小説 『夢』

作者: 夢夢夢
掲載日:2025/12/18

夢は今日も、静かに続いていく

目を覚ましたとき、最初に思ったのは「軽い」だった。

胸の上にあったはずの重さがない。息を吸っても、喉の奥が焼けない。


僕は舗道の真ん中に立っていた。


住宅街。

見慣れた景色のはずなのに、街路樹の幹が途中で曲がっている。折れたわけじゃない。最初から、そうあるべき形みたいに歪んでいる。

三角屋根の家も、頂点が少しだけずれていた。


歩く。

足が前に出る。


それだけで、胸の奥がざわついた。


こんなふうに動くには、いつも誰かを呼ばなきゃいけなかった。

柵を外してもらって、管に気をつけて、それからやっと一歩。それが僕の日常だった。


ここでは、誰も何も言わない。


通りの向こうから人が来る。

年齢も服装も違うのに、全員が同じ速さで歩いていた。


「おはよう」


声をかけられ、僕も返す。


「おはようございます」


その瞬間、視線が集まった。

責めるでもなく、ただ確かめるような目。


「……大丈夫?」


意味のない問いなのに、心臓が跳ねた。


「大丈夫です」


そう言うと、彼らは興味を失ったように散っていった。


歩き回るうちに気づく。

この街には時計が多い。店先、家の壁、広場の塔。

けれど、針が動いているところを見たことがない。


それでも不思議と、不安はなかった。

体は軽く、息は続く。

夜になっても、機械の音が聞こえない。


左手首に、重みを感じた。


父の腕時計だった。

誕生日に、「もう使わないから」と無造作に渡されたもの。


ここでも、形は変わっていない。

歪んだ世界の中で、それだけがまっすぐだ。


指で触れた瞬間、病室の光景が浮かぶ。

白い天井。

ベッドの横で、無理に笑っていた父。

何も言わず、僕の手を握っていた母。


――帰らなきゃ。


そう思った途端、空気が軋んだ。

遠くで、何かが擦れる音がする。


振り向くと、人が集まっていた。

昼にすれ違った顔。

穏やかな表情。


「無理しなくていい」


誰かが言う。


「ここは、楽でしょう」


否定しようとして、言葉が詰まった。

確かに楽だ。

ここでは、歩くことに理由はいらない。


「でも」


口にした瞬間、地面がわずかに沈んだ。

建物の輪郭が滲む。


「それ以上は、やめて」


声が重なる。

一人じゃない。たくさんの声。


理解してしまった。

ここは一人分の夢じゃない。

重なった眠りが、形を保っている。


起きたくない人たち。

痛みから逃げた人たち。

そして、夢を続けるために、動ける誰かを必要としている。


「君は歩ける」


前に出た男が言う。


「だから、向いている」


彼の後ろで、誰かが掃除をしている。

何かを消すように、同じ場所を何度も。


「役割があるんだ」


男の手が、僕の肩に置かれる。


「世界を回って、整える。迷った人がいたら、声をかける」


胸の奥が、妙に静かになった。

それは、欲しかった居場所の形に似ていた。


父の腕時計を、無意識に握りしめる。


「……起きたい」


言い終わる前に、頭が割れるように痛んだ。

言葉が途中で溶ける。


遠くで、規則正しい音がする。

心電図の音。

止まらない。ただ、弱くなる。


「聞こえるでしょう」


誰かが優しく言う。


「続いている音」


母の声がした気がした。

名前を呼ぶ声。


けれど、それは風の音に溶け、囁きに上書きされる。


「ここにいればいい」


「君がいると、安定する」


足元が、舗道に溶けていく。

逃げようとしたが、体は動かない。


歩けていたはずの足が、地面の一部になる。

違和感が、安心に変わる。


腕時計の針が、かすかに揺れた気がした。

でも、誰も見ていない。


――目を閉じる。


翌朝。

街は穏やかだった。


歪んだ木の下で、青年が歩いている。

足取りは軽く、表情は柔らかい。


「おはよう」


声をかけられ、一拍遅れて笑う。


「……おはよう」


遠くの白い部屋で、

体は眠ったまま、規則正しい音を刻み続けている。


目を覚まさない存在を残したまま、

夢は今日も、静かに保たれていた。






息子の手は、今日も温かい。

指先を包むと、わずかに脈が伝わる。


「おはよう」


返事はない。

それでも、言わずにはいられない。


窓の外で、木が風に揺れている。

少しだけ、幹が曲がって見えた。


目をこすって、もう一度見る。

まっすぐだ。


「……疲れてるのね」


母は小さく笑い、息子の手を握り直す。


その瞬間、

ほんの一瞬だけ、指が返ってきた気がした。


気のせいだ。

そう思う前に、胸の奥が熱くなる。


「大丈夫」


誰に言うでもなく、母は囁く。


「ちゃんと、ここにいるから」


息子のまぶたは閉じたまま、

規則正しい音だけが続いている。


母は今日も、手を離さない。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ