悪役令嬢の妹
私の姉は、高位貴族らしい人だった。
高慢で我儘で、人に傅かれる事に慣れ切った女性。
筆頭公爵家の長子で、12歳からは王太子の婚約者。未来の王太子妃として、誰からも慇懃にもてなされる人。
王太子妃の教育係からも称賛され、王妃陛下のお気に入り。
隙が無く
アルカイックスマイル
完璧であり
感情の見えない
可愛げのない女
だけどそれが、王家の求める王太子妃、未来の王妃なのだ。
金を溶かした様な黄金色の瞳は、黄金比で配列されたお姉様の美しい顔を冷然と見せ、
緋色の艶やかな真っ直ぐの髪は、彼女を苛烈な女性の様に見せた。
しかし、王家にとって全てが完璧な未来の王太子妃は、王太子にとっては完璧な女性では無かった。
初めはいい関係を築けていたと思う。
我が家にも訪問していた王太子は、お姉様とよく未来について語っていた。
その関係が壊れ始めたのは、同い年の二人が15歳から18歳までの3年間通う学園の、3年生となった時だ。
1学年下に途中から編入して来た女生徒。
彼女はとある男爵家の長男が、メイドとの間に作った庶子だった。
結局その長男が男爵家を継ぐ時になっても本妻との間に子供が生まれなかった為、彼女は15歳の時に父親に引き取られたのだ。
1年間は男爵領で貴族のマナーを習っていたその少女は、2年生から学園に通い出した。
1年間では伸びなかったのか、栗色の髪は肩より少し長いぐらい。同じ栗色の瞳は、彼女の大きな目の中で、くりくりとよく動く。
平民の癖が抜けきらないのか男性との距離も近い彼女は、それら全ての要素が相まって男子からの評判が良かった。
特に高位の貴族男性達にとって、貴族的な女性とは全く逆の彼女の行動は、全てが新鮮で、新しいおもちゃを目にした子供の様に、彼女の全てに興味を惹かれていったようだ。
その中には、件の王太子も入っている。
貴族として完璧なお姉様をずっと見て来た王太子にとって、最初は珍獣に見えたことであろう。
それが好意へと変わっていったのは、お姉様がその男爵令嬢を排除しようとしたからだ。
最初は物珍しさだけで、異性としての愛情はなかったかもしれない。
高位貴族のトップであるお姉様からのいじめにも耐える前向きな男爵令嬢。
そんな彼女に申し訳なく思っていた王太子が、彼女から距離を取ろうとしたところ、彼女がそれでも側にいたいと伝えたらしい。
王太子妃にはなれないが、一人の男性としての彼を愛しているから、ただの生徒であるあなたの傍にいたいのだと。
王太子として日々の重責に耐える彼にとって、彼女のその一言は、張り詰めた空気を破る春風のようだったのだろう。
女性に対して夢見がちな男が見る、現を忘れた夢想。想像に容易い。
結局お姉様は断罪された。
卒業パーティの日に、彼女へのいじめは許容を超える程に陰湿で、王太子妃として相応しくないと、同級生の前で王太子に婚約を破棄されたのだ。
王宮騎士に取り押さえられ、そのまま王太子の手で修道院へと送られた。
こんな横暴は許される事では無く、両陛下は王太子を部屋に軟禁して事態の回収に明け暮れた。
その朝は、鳥さえ鳴かなかった。
静けさが不幸の足音を隠していたが、破滅はすぐそこまでやってきていた。
まだ朝の光が届かない時間。
国王の元に届いたのは、修道院へと向かった馬車が崖の下へと落ちて、公女はあっけなく亡くなったというものだった。
王家はこの前代未聞のスキャンダルを、隠蔽する事にした。
不思議な話だ。
お姉様が生きていたなら、姉は修道院から家に戻され、二人の婚約を破棄し、王太子をその地位から下ろさなかったとしても、何らかの罰が与えられたはずだ。
しかし姉の死の原因が、王太子とその浮気相手なのにも関わらず、二人はそれぞれの部屋で軟禁されただけで全てを闇に葬ろうとしている。
起こした不祥事が大きければ大きい程、隠ぺいする。それが人間の性なのか。
そしてその裏には、私達の親が筆頭公爵家らしい、貴族的な考え方の夫婦であったことも相乗の効果があったのだろう。
お姉様が彼女を排除する為に、貴族らしいが人としては褒められない方法を使った事が、周りの貴族から眉を顰められたのだ。
そしてそれは、筆頭公爵家の人間として生きて来た父のプライドを傷つけたのだ。
父は王家からの莫大な慰謝料と、公爵家への一切の責任不問を条件に、口を噤む事にした。
早急に全てを終わらせて、蓋をしてしまう。
まるでそうすれば、全てが無かった事になると信じているかのように。
「お前の為だ」と、父は私の頭を撫でた。
「あなたの為よ」と、母は泣きながら私を抱き締めた。
(ああ、私の為か)と、私は二人の愛情を受け入れた。
それから2年の歳月が経ち、私は15歳となり学園に通い出した。
王太子は未だに王太子のままだが、あの日から第2王子も王太子教育を受けていると聞く。
12歳の彼は、王太子より平凡だと聞くが、下の者の話を真面目に聞く人格者であるらしい。
そして婚約者である同い年の公爵令嬢がなかなかの女傑で、第2王子との相性も良く、二人なら問題なく次代を任せられるのでは無いかというのが、最近の評判だ。
王太子は彼自身にカリスマ性があった。
そんな彼が、王太子妃として完璧であると太鼓判を押されたお姉様と結婚していれば、間違いなく歴史に名を遺すほどの国王になれただろうと、官僚たちは嘆いていた。
あんな馬鹿な事をしでかしても、彼のカリスマ性があればお姉様以外と結婚しても、王家は安泰であったかもしれない。
しかしスキャンダルは最低な形で悲劇の幕を引き、その元凶となった男爵令嬢は、2年が経ってもまだ高位貴族らしいマナーすら身に付けていない。
彼女の足の引っ張りが激しすぎる為、彼のカリスマ性を以てしても、二人そろって今の地位から落ちていくのは目に見えて明らかだった。
私が学園に通うと、最初は多くの人から陰口をたたかれた。
しかしそれは、1週間もしないうちに無くなった。
そして今では、私は学園で『ローズ姫』と呼ばれている。
私は生まれた時から体が弱かった為、あまり長くは生きられないかもしれないと言われていた。
だからお姉様の事件が起こる前もあまり社交を行っていなかった。
事件からこの2年は、あまりどころか一切の社交を行っていなかった。
その為、私の人となりを知らない同級生たちは、私がお姉様とそっくりなのだと思っていたのだろう。
金髪に金色の瞳のお父様と、緋色の髪に水色の瞳のお母様。
その二人から生まれた私は、二人の髪を混ぜたかの様なやわらかいローズピンクの髪に、母親譲りの水色の瞳を持っており、お姉様とは正反対の儚い雰囲気があった。
圧倒的美貌にグラマラスなお姉様と、未熟児で生まれた為に背が低く手足の細い、儚げな私。
同級生たちは、私の見た目が想像と違った事に驚いた事だろう。
お姉様の様に圧倒的で華やかな美貌では無い私は、親しみやすかったであろう。
ビスクドールの様に愛らしく、体が弱いために小さく緩慢な動きをする私は、お姉様とは正反対の生き物だ。
しかしお姉様と同じ家庭教師に、筆頭公爵家の娘として厳しく躾けられた私は、一国の王女と変わりないほどの品格も併せ持つ。
マイナスから始まった私のイメージは、彼らが偏見を捨てると直ぐに、大幅なプラスへと変貌する。
私は、首を小さく傾げて可憐に微笑んでいればいいのだ。
9月に学園に入学した私は、これから卒業までの間に社交界デビューをする事になる。
デビュタントの時期に決まりはないが、基本は学生の間で、婚約者のいない者ほど早くにデビュタントを行う。
地方貴族は寄親の高位貴族が行うパーティで行うのがほとんどだが、高位貴族は自家主催のパーティではなく、王室のパーティでデビュタントさせる。
そうすれば王族から一言が貰えるし、そのパーティで最も位が高ければ、最初のダンスに選ばれる可能性がある。
それは最も栄誉な事で、選ばれた子供の価値も上がるからだ。
私は早くに王室主催のパーティでデビュタントを迎えたかったが、今年の社交でデビュタントをするなら公爵家でパーティを開催するからそこでデビューをするようにと父から告げられた。
お姉様の弔いとして、3年間はパーティの開催の予定もないし、王室の行事には参加しないそうだ。
その為、私は学園1年目でのデビューを諦めた。
そして初年度は、自分の信者を増やす事に専念をした。
1年が終わる頃には、母が出席するお茶会でも、私への賛辞の声が後を絶たないそうだ。
学園生2年目の冬、12月に行われる最初の王室主催の舞踏会が、私のデビュタントに決まった。
後で信者のクラスメイトに聞いたところによると、私のデビュタントは今後伝説になるだろうとの事だった。
デビュタントの衣装である真っ白のドレスは、小柄な私に似合うプリンセスラインで、ローズピンクの髪と水色の瞳と相まって、天使の様であったらしい。
もちろんそう見える様に計算しつくしたのだ。
王家の方々への挨拶にファーストダンス。
その立ち居振る舞いは、妖精の国のお姫様の様だったと、興奮して教えてくれた。
信者は些かひいき目が過ぎるので話八分で聞いていたが、お茶会に参加していた母も、他の貴婦人方の感想がそうであったとディナーの時に教えてくれた。
大した事では無いという態度で話を聞いていたが、私は自分の努力が実を結んだ事に、内心歓喜に震えていた。
そうなる様に、デビューの日に向けて心血をそそいで来たのだから。
信者達のおかげで同級生の家では、私が1年間首席を取り続けた事や、地位に関わらず誰とでも仲良く接している事が知れ渡り、夫人達がお茶会でその話をしていた為、公爵家には私への釣書が数えきれないほど届いている。
何とかお姉様の事件で地に落ちた公爵家の名声を、取り戻せているようだ。
全てが順調だった。
王妃様主催のお茶会は、デビュタントの翌年、2学年を終了した次の日に開催された。
6月の薔薇が咲き誇る王室の薔薇園で、私は運命の出会いを果たした。
薔薇で作られたアーチの傍に、ローズピンクの髪をハーフアップにし、パステルグリーンのチュールドレスを着た私は、さぞ薔薇の精に見えた事であろう。
もちろんいつもの如く、そう見える様に全て計算されているのだ。
王太子がそこに居た。
まるでこれが運命であるかのように。
彼が大きく目を見開いて立ち止まったまま私を凝視したから、お姉様を思い出したのかと思った。
まさか彼が私に一目惚れをし、この出会いを運命の様に感じて、
全ての動きがスローモーションに感じていたとは、その時の私は露ほども思わなかった。
彼が私にその話をしたのは、私が参加する社交パーティを調べて、わざわざ私に会いに来た時だった。
あの王妃様主催のお茶会で、固まっている王太子に目礼して去った私を、調べ上げ探し出したのだと。
社交が終わり、私達公爵家も王都から3日かかる領地へと帰った。
学園が始まる9月まで、私は領地で考えに考えた。
私が社交デビューした時には、彼はもう既に男爵令嬢に愛想をつかしている事を知った。
私は執事に、今の二人の様子を調べさせた。
彼は元はお姉様の執事だった。彼は、お姉様が王都の孤児院に慰問に行った際に拾って帰って来た、孤児院にも入れずにストリートで暮らす死にかけの子供だった。
紺色の髪に赤い瞳のその執事は、お姉様が死んだ後に廃人となりかけていたが、私がお父様にお願いをして私の執事にしてもらった。
報告書を読み終わった後、私はいつも着けているネックレスをいじる。
考え事をする時の私の癖だ。
私が考え事をしている間に、執事がお茶を入れ替えてくれたようだ。
ネックレスのロケットの部分を持ってネックレスを左右に揺らしていた私の手を、執事は跪いたまま、壊れ物に触れる様に自分の手で包み込んだ。
この癖のせいで、いつも首の後ろが赤くなっている。
表情は変わらないのに、彼の瞳が心配で揺れているのがわかる。
彼の赤い瞳は、お姉様の髪を思い出させる。
私は無言で彼と目を合わせた。
「計画を変えるわ」
「はい、お嬢様。仰せのままに」
私は彼の目を見つめたまま、思った。
初めて、同じ志を持ったのかもしれないと。
執事が調べて来た内容は、男爵令嬢の人となりについても含まれていた。
それらを見れば、王太子が望むパートナー像は容易く読み取れた。
お姉様の様に、賢くマナーも完璧な淑女であり、
彼の前でだけは、奔放で甘え上手で、距離感が近い女。
お姉様が王太子に愛されなかった理由がわかる。そして男爵令嬢が飽きられる理由も。
彼の理想とする女など、この世にいるのだろうか?
いなければ作ればいいのだ。
嘘はつき通せば真実になるのだから。
私の計画は順調に進んだ。
王妃は社交界デビューを果たした私を片時も離さなかった。
罪の無い姉を断罪し、死に至らしめたのが自分の息子だから、王妃は罪の意識に押し潰されそうなのだろう。
王妃の傍に居ると、罪の意識も無く私に一目惚れした王太子が、別世界の生き物の様に感じる。
王妃の寵愛を受ける私は、その見た目と行動から、地に落ちた公爵家の名誉を払拭する事に成功した。
人間とは不思議なものだ。
お姉様に罪が無い事を分かっていても、私達の名誉を貶めた貴族達は、私の評判を聞くと今度は、お姉様を悲劇のヒロインに仕立て上げて陰で王太子を貶め始めた。
王妃が私を王宮に呼ぶたびに、そんな事を知らない王太子はいそいそと口実を付けて私に会いに来る。
お姉様を可愛がっていた王妃の前では貞淑な淑女でいながら、王太子と二人きりになると甘えて見せる、恋する少女を演じる。少し恥ずかしそうに。
表情は作れるが、頬を染める事はできないから、王太子と会う日はチークをきつめに塗らなければ。
背の低い私は、横に並ぶと王太子の肩までしか身長が無い。
そっと見上げた顔は、何の憂いも無い表情で前を見つめている。
自分の前には、明るい未来しか無いと、信じ切っているかのように。
私の視線に気付くと、照れた様な笑顔が返ってきた。
だから私も同じ様に笑顔を返す。
冷めた表情で見ていた事に気付かれたかもしれないと、悩む必要が無い程に、彼は私に傾倒しきっていた。
冷たい空気が混じり始めた秋の風に乗って、王太子が付けている強い香水の匂いが私の思考を絡めとる。
お姉様も同じ香りを辿ったのだろうか・・・。
全てが順調だが、私は驕る事なく着々と計画を遂行していく。盤上のチェスの駒を移動させるように淡々と。
私はお姉様とは違う。
冷静に他人を見つめる自分に気が付いた時、ふとそう思った。
私はお姉様の様に失敗はしない。
執事が私の手を握った。
首の裏がチリチリとする。
その微かな痛みが、私に、まだ生きているのだと思い出させる。
私の評判が上がるのと反比例して、男爵令嬢の評判は下がっていった。
私は執事に指示を出して、男爵令嬢の傍に仕える侍女とメイドを買収した。
今では離宮に押し込められて、朝から晩まで勉強詰めで、王太子に会う事もできずにストレスを溜めまくっている彼女に、外の情報を与えるためだ。
頭の悪い女は、きっと面白いほど滑稽に踊ってくれる事だろう。
その日は突然やってきた。
王太子にエスコートを受けながら王妃の茶会を辞するという、ベストなタイミングで。
「この! クソ女が!!!」
か弱い演技などする必要は無かった。
人生で初めて聞いた言葉に、動けなくなってしまった。
でも本当に助かった。
完璧なギャラリーが揃った、あまりにも素晴らしすぎるタイミングだったから、これほどまでに酷い言葉を聞いてフリーズしてしまわなければ、込み上げる笑いを抑えるのが大変であっただろうと、後になって思う。
王妃や高位貴族の夫人方の前で、彼女は般若の顔で私に殴りかかって来た。
王太子が、物語のヒーローであるかの様に私を背に庇うと、それが彼女の怒りに油を注ぐ。
彼の腕の中で怯えた可憐な淑女を演じながらも、私は彼女が放つ言葉を理解しようとした。
エンディングがどうの、王太子ルートがどうの、彼女が話す言葉が理解できず、眉間に皺を寄せて彼女を凝視すれば、彼女は騎士に押さえつけられたまま顔を捩って、私の顔を見つめ返して来た。怯えながら。
「あなたも転生者なの? どういうこと? 私はちゃんと王太子ルートを攻略したよ? もしかして次のシーズンに入っているの? それとも、あの男を拾いそこねたから? だって、悪役令嬢の執事になってるだなんて・・・」
私を見つめながらぶつぶつと呟く彼女は常軌を逸していた。
その場にいる誰もが動けない程に異様な空気が流れた。
「やっぱりあいつが転生者だったの? 私より先に攻略対象者を拾うなんて、絶対そうだったんだ。
ストーリー通りに虐めて来たし、断罪されたから違うと思ったけど、やっぱりあいつだったんだ!
あのクソ女め!
殺しておいて正解だったわ!」
その言葉に息を呑んだのは誰だったのか。王太子が震える声で尋ねる。
「おまえが・・・、殺したのか・・・? おまえが・・・?」
「だ、だって、しょうがないじゃん。法律的に罰する事が出来ない罪なんだから・・・。
もう私達の幸せに入ってこれないように、・・・しないと・・・。
それが、正しいストーリーなんだから・・・」
私にはこの後の記憶がない。
全ての理不尽を呑み込む事が出来ずに、ただ目の前の出来事を目で追い続けた。
王太子の叫び声も、王妃のすすり泣きも、全てが遠く離れた舞台の出来事に感じた。
ただ一心に男爵令嬢の顔を見つめながら、私は思った。
王太子の震える問いかけに向けた男爵令嬢の顔を、私は一生忘れる事は無いだろう。
ああ、この世は何て理不尽なんだろう・・・。
それから数日後、王妃から内密の手紙が届いた。
男爵令嬢の非道な行いに傷ついた王太子を慰めてやって欲しいと。
鼻で笑った私に、執事がリラックス効果のあるハーブティーを用意してきた。
まるで婚約者を殺されたかのように傷つき引き籠っている彼は、自分が加害者である事を忘れているのだろうか?
そして本当の被害者家族である私に対して、加害者の王太子を慰めてやって欲しいと乞う王妃は、なんて厚顔無恥なのだろう。
彼が入れてくれるハーブティーを口にしても、胸の奥にふうつふつと燃え上がる怒りは少しも鎮まらず、むしろその穏やかなジャスミンの香りが、抑えきれぬ激情を一層際立たせていった。
今日で全てを終わらせよう。
私はネックレスをいつもの様にいじりながら、執事の顔を見つめた。
今日で終わらせる。その意味が私の中の細胞の一つ一つに吸い込まれて、実感がわいてくる。
彼の赤い瞳が、私の中の寂寞の記憶を静かに目覚めさせた。
王妃が手配した先導の騎士の後ろを、フードを深く被って早足で付いて行くと、そこは王太子の部屋だった。
未婚の女性を堂々と息子の部屋に届ける王妃に、失笑が漏れる。
騎士を扉の外に立たせて、私は王太子の私室に入るとドアを閉めた。
奥のベッドルームで泣き崩れている王太子の所までいくと、彼は縋る様に抱き着いて来た。
被害者家族が加害者を慰めるなんて、この世は本当に喜劇だわ。
私はため息が出そうになるのを押し込めて、彼を優しく聖母の様に慰めながら、彼に度数の強いお酒を飲ませ続けた。
ベッドで泥酔いで眠っている王太子の服を脱がせていると、窓から執事が入って来た。
「ちょうど良かったわ。全部脱がせて。酩酊させる薬も飲ませているから、ちょっとやそっとじゃ起きないから」
私はそう言って執事に王太子を任せると、彼と入れ替わりにベッドの奥、部屋の奥の窓際へと場所を移動した。
彼は計画の全てを知っている為、軽く相槌を打って仕事にとりかかったのが、ガラス越しに見える。
私は感情の無い顔で、自分の服を全部脱いでいった。
窓のガラス越しに、ライトアップされた王宮が見える。
この景色が美しいのだと、いつの日かのお姉様が言っていた。
その光景を目に焼き付けていると、執事がこちらに近づいてくるのがわかった。
彼が私の傍で立ち止まる。
私が距離を縮めると、彼は何かを堪える様に悲し気に顔を歪めた。
私は彼の頬に手を添えて、彼の目を見つめる。
彼の瞳に小さく私が映る。
瞳の中にいるのは私なのに、彼の赤い瞳が、それがお姉様の様に錯覚させる。
あまりの嬉しさに恍惚として、彼に笑いかけた。
きっとその笑顔は、お姉様が生きていた頃の笑顔と一緒だったであろう。
「ごめんね」
自然と涙が零れた。笑いながら零した涙の意味は分からない。
「私もすぐにいきます」
執事の声が聞こえた。
私は静かに瞼を閉じた。
お姉様に罪があると言うのなら、それはただ一つ。
私に純然たる愛を教えた事だけ。
広大な屋敷で、私はいつも孤独に押し潰されそうだった。
そんな私の手をいつも握ってくれたのは、お姉様だけだった。
王太子妃教育の始まったお姉様はいつも忙しく、私はよく出かける家族の背を泣き叫びながら追いかけた。
父は振り返りもしなかった。
母は面倒くさそうに振り返り、立ち止まりもせず、お土産を買ってくるからと言葉を投げた。
お姉様だけは申し訳なさそうに、しゃがんで私を力いっぱい抱きしめてくれた。一分一秒でも長く。
泣き叫んで駄々をこねると、その日の夜は必ず熱を出した。
そんな私の寝室に来てくれたのは、王太子妃教育で疲れ果てて帰って来たお姉様だけだった。
ずっと私の手を握って、ぽんぽんと優しく胸を叩いてくれる。
私が眠りにつくまでずっと。
週に一度の休みの日は、私のためだけに時間を使ってくれた。
どうしても復習がしたい時は、私を膝に抱き、私に教えるようにして勉強をしていた。
だからマナーもお姉様に教わった。
『すごいわ! 上手に出来たわね』『あなたなら立派な王太子妃になれるわ』『あなたは私の自慢の妹よ』
嬉しくて抱き着くと、お姉様がいつも着けていたジャスミンの香水の匂いがした。
お姉様の動きに合わせて、優しい香りがいつも、私の鼻孔を擽った。
今ならわかる。
お姉様も子供だったのだから、貴族的な両親のもとで、愛情に飢えていたのだと。
エントランスで手を繋いで、社交に出かける両親を見送った日。
横に並んだお姉様が私の手をギュッと握り締めたから。
お姉様の肩より小さい私は、お姉様の顔を見上げた。
あの日のお姉様の顔は今でも覚えている。
泣かない様にと口をギュッと閉じて、瞬きもせずにじっと前を見つめていた。
閉じられたドアをずっと。
私と手を繋いでいない方の手で、ずっとネックレスをいじっていたお姉様は、大きく息を吸い、そして小さく震える吐息を吐き出して、何かを心の奥底に押し込めると、いつもの慈愛の籠った笑顔で私を見下ろした。
『今日はお姉様と二人で過ごしましょうね』
あの日がお姉様にとって大事な日だったことを、後から知った。
お姉様に愛を教わらなければ、私の世界が色を無くし、真っ暗になることはなかっただろう。
心が千切れてしまうような痛みも。
この世の不条理に、全てを破壊してしまいたいような衝動も。
そして、
あの日の両親の、不純物の混じった愛を、納得をして受け入れていたのだろう。
父が、母が、私の為にお姉様の死に口を噤んだのだと。
それが彼らの愛情なのだと。
執事の手が、私の首に触れる。
ああ、神様。
次の世でも、お姉様の近くにいかせてください。
そして、もしも出来るなら、
今度は私が姉となり、
孤独で震える手をギュッと、
握ってあげたい。
その夜、未曾有の事件が王宮を貫いた。
お嬢様の帰りが遅いと、公爵家の執事が王太子の侍従と共に王太子の部屋を訊ねた。
そしてそこで、裸で眠る王太子の横で、公女の遺体が見つかった。
ビリビリに破られたドレスがベッドの足元に散乱しており、公女はドレスの切れ端で手をベッドヘッドに括りつけられ、裸の体や顔には無数の殴打の跡と首を絞められた跡が残っていた。
多くの人が駆け付けた時には、執事がベッドシーツを公女の体に巻き付けて泣いていた。
騒ぎに起きた王太子は、痛む頭を押さえながら茫然とベッドに座っていた。
事実確認が終わるまで、国王が関係各位に箝口令を敷いたが、内容が内容であった為に隠し通す事は出来なかった。
そして調べられた結果、公女が学友に、王太子について相談していたことが分かった。
姉を飽きた玩具の様に捨てた王太子に、お茶に誘われるが断れない。
国の為、家の為に、彼の手を取らねばならない。
二人きりになろうとして、純潔を奪われそうになった。
キスを拒んだら殴られた。
そのあまりにセンセーショナルで痛ましい悩みに、今まで沈黙していた世論がざわめき始め、社会全体がうねりを上げて王太子の行動を批判しだした。
全てが後手後手な対応となった王家は、王太子を廃太子し離宮の塔に閉じ込めた。
同じ塔には彼の婚約者だった男爵令嬢も軟禁されており、ほとぼりが冷めた頃に、二人仲良く毒杯を賜ることになる。
王妃は自分の行動で公女が死んでしまった事に責任を感じ、修道院に入ってしまった。
彼女の髪は、一夜で全て真っ白になったという。
公爵夫妻は二人の娘を亡くし、後継がいなくなったことから、公爵の弟に公爵位を譲り、夫妻はそのまま領地の片隅に蟄居した。
それが、娘二人の墓がある近くだったため、彼らなりには二人を愛していたのであろうとは、思われる。
さりとて、愛していたと言われても、姉妹にとっては今更であろう。
公爵領にある丘の上には、無数の墓標が並ぶ広大な墓地が広がっていた。
事件から半年後の霧に包まれた早朝、次女の墓の前に元執事が現れた。
真っ赤な薔薇を墓前に手向ける彼の髪はぼさぼさで、不精ひげが伸びていた。
「全てが終わりましたよ、お嬢様」
元執事はそう言って、墓石を優しく撫でた。
「あなたの体が汚されていないことを調べられない様に、狂ったように泣き叫びながらあなたの体を死守しましたからね。おかげで仕事を辞めるまで、同僚の視線が鬱陶しかったですよ」
そう言って、彼は次女の墓石の前に跪いた。しかし彼の目線の先には、横に並ぶ長女の墓石があった。
「元王太子と件の男爵令嬢は、毒杯を賜りました。
誰に向けてのアピールなのかは存じませんが、安らかに逝ける毒ではなかったようで、かなり凄惨な状況だったようですよ」
彼の赤い瞳はもう、何も映していなかった。
もう一度次女の墓に視線をやると、彼は疲れ切った人間の様な緩慢な動きで、膝に手をついて立ち上がった。
「あなたのせいで、私は人を殺したんですからね。・・・あれから眠れたもんじゃない。
次の世ではこの貸しを返して欲しいですね」
元執事はそう言って、その場を後にした。
3日かけて彼が見つけたのは、痩せ細った、彼の腰までもない枯れた木。
崖の上にあるそれが墓標であるとは、真実を知る者しか知らない。
彼女の遺体は、あの緑が美しい丘の上で、妹の隣で眠っている事になっているからだ。
小さな墓標を優しく優しく、愛しむように撫でた後、元執事はローズピンクの薔薇を丁寧に添えた。
「ああ、主・・・。次こそは私を置いていかないでくださいね。
今、あなたの傍に行きますから」
崖の上で誰かの痛ましい泣き声が、冷たい風に裂かれながら谷間へとこだまし、沈黙した大地に痛ましい余韻だけを残していた。
次の瞬間、風が一層強く吹き荒れ、崖の上にいた男の姿は、もうどこにも見当たらなかった。
ただ崖の側の枯れた木には、彼が主と呼ぶ女性の妹が、ずっと大事に持っていたネックレスが掛かっていた。
そのネックレスについているロケットの中には、思い出の肖像画など何も入っていない事を知っている者は、
もうこの世に誰も存在しない。
妹が、お姉様以外に敬称を付けていない事に、全てが表れていますね。
二人はきっと、愛する人の側でまた輪廻転生するでしょうから、執事は貸しを返してもらえるでしょう・・・かね?




