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000 ショウ 3

前回のあらすじ・柚希が女の子だと気付いたショウは、柚希の前から消えた。

◇◇◇ 


 アタシが柚希の前から消えて、四年が経った頃。『アリスフォード戦記』の新刊を片手に、アタシは久しぶりにおばあちゃんちに戻っていた。

 四年も人が住んでいなかった古い家は、あちこちが傷んでかび臭かった。

 先にお社の掃除をすませ、窓を開けて換気しようとしたところで――アタシは、キョロキョロと辺りを見回しつつ、いかにも怪しい人間ですといった態度で庭に入り込んできた女子高生に気付いた。

 白い夏物のセーラー服を着たその子は、庭の敷石にペタリと座り込んで、黒いリュックの中から、アタシが今まさに持っているのと同じ表紙の小説を取りだし、膝に片肘ををついて小首を傾げ、脇目も振らずに読み始めた。


「うそ……うそでしょ」


 アタシからは顔は見えない。でも、かつて何度も何度も見たその格好は、アタシが誰よりも大切だった『ユーキ』が虫の図鑑をめくるのと同じ格好で。

 ユーキ――柚希が、まだ『ショウねえちゃん』を忘れずにここに通ってきてくれている。

 声を上げないように片手で口を覆い、アタシはズルズルとその場にへたり込んだ。

 嬉しくて、嬉しくて――苦しくて。 

 柚希が新刊を読み終わり、もう一度読み返して、暗くなって本が読めなくなって庭を後にするまで、アタシは息をひそめてその場にずっと座り込んでいた。


 気になって気になっておばあちゃんの家にこっそり泊まり込んだりして確認した結果、柚希が庭にやって来るのは、必ず『アリスフォード戦記』の新刊が出る日の夕方だった。学校帰りに書店で予約していたらしい本を片手にやって来て、庭の敷石に座り、日が暮れて紙面が見えなくなるまで読んでいた。

 アタシも、『アリスフォード戦記』の新刊が出る日は必ず前日から泊まり込んで、庭に座り込む柚希の後ろ姿を見つめるのが習慣になった。

 柚希の中に、あの頃の『ショウねえちゃん』が優しい思い出として残っていて、まだ時々は思い出してくれているらしいことに満たされた。

 やがて柚希はスカートを履かなくなり、昆虫学の教科書とかを持ってくるようになり、アタシは柚希が大学生になったらしいことを知った。

 その頃アタシは、美容師をしながら劇団員を続けていた。『逆さ時計』という小さな劇団で、端役とメイクを兼ねているような立ち位置だったけれど、幸運にも劇団ファンのオーナーがやっている美容室に雇ってもらえて、時間の都合が付くのが有り難かった。


 六月のある日、あまりの蒸し暑さにほんの少し窓を開けていたアタシは、八年ぶりに柚希の声を聞いた。


「幸せになって。幸せに、幸せに……お願い」


 言葉の意味とは真逆の、切羽詰まったような暗い声だった。

 ギョッとしたアタシは、なるべく音を立てないようにおばあちゃんの家の中を移動して、何とか柚希の顔が見える場所を探した。

 どうやっても家の中から柚希の顔は見えなかったけれど……ふとそのとき季節外れのトンボが横切り、柚希が横を向いた。


「っ……!」


 叫びそうになった声をなんとか噛み殺し、アタシは柚希の横顔を凝視した。

 目の下の黒々としたクマ、荒れた肌、ガサガサの唇、こけた頬。

 アタシが想像していた十九歳の柚希とはほど遠い――若い女の子らしさなんて欠片もない姿がそこにあった。とてもじゃないけれど、楽しみにしていた小説の新刊を読んでご満悦な表情には見えない。


 何かあったの?

 柚希の身に――?


 それでも直接声をかける勇気のないアタシは、ネットの世界で柚希を探ることにした。

 元々アタシは、柚希の本名も住所も出身校も趣味嗜好も知っている。まして柚希は『ユーキ』のハンドルネームで『アリスフォード戦記』のファンサイトにアクセスしていて、探すことは難しくなかった。

 同じ『ディートハルト推し』の一人として交流を始めると、柚希は呆れるほどに、自分の生活や食事、健康、人生とかに興味が薄いことが分かった。

 興味があるのは、ディートハルトと虫だけ。いわばディートハルト廃、虫廃だった。

 ○廃というのは、例えば『ネトゲ廃』のように生活や仕事に影響を及ぼすほど一つのものに集中することを指す。

『ユーキはディートハルトが本当に好きなのねぇ』

 思わずそう書き込むと、柚希からの即レスがあった。

『大好き。ディートハルトはね、私の大切なお姉さんにそっくりで、私の全てなんだ。今、私が生きてるのはショウねえちゃんのおかげ。農学部なのも、人の役に立ったらショウねえちゃんが褒めてくれそうだなって思ってさ』

 柚希は、『ショウねえちゃん』について語った。過ぎた年月がそうさせたのか、思い出の中で美化された『ショウねえちゃん』は太陽のようで、とても自分のことだとは思えなかった。

 だって、アタシはこんなに醜くて、臆病で、気持ち悪いのに。

 柚希の人生の汚点のような存在だ。


 柚希のあの様子が、病気とか、詐欺に遭ったとか、家族の不幸とかじゃなかったことには安堵したけれど、柚希があの頃の『ショウねえちゃん』の記憶に雁字搦めになっていることに青ざめた。アタシが願ったような、ぼんやりした優しい思い出なんかじゃなく、柚希の行動原理の全てに『ショウねえちゃん』がからんでいた。

 まるで柚希を縛る亡霊だ。

 

 それなのに、アタシは再びつなげてしまった柚希との関係を断ち切れなかった。アタシにとって、それだけ柚希は特別でかけがえのない存在だった。アタシはもう、ただ一年に一、二度柚希の後ろ姿を見て満たされていた頃には戻れなかった。

 『ショウねえちゃん』じゃなく、害のないただの同じ推し活オネエなら、柚希のネット上の友だちの一人でいても許されるだろうか。

 けれど柚希と仲が良くなれば良くなるほど、アタシの中に理不尽な黒い感情が積み重なっていく。

 『ディートハルトが』『ディートハルトと』『ディートハルトの』『ディートハルトには』

 ……大好きだったはずのディートハルトが嫌いになってくる。柚希の語るディートハルトとは、つまり『ショウねえちゃん』だ。本物の自分との差に視界が歪み、めまいがする。

 ディートハルトは、おばあちゃんがアタシのために書いてくれたキャラで、アタシはそのモデルなはずで。でも、ディートハルトは何でも出来てかっこ良くて情が深くて。本当のアタシは、こんなにも最低、最悪で。みじめで。


「ねえ、おばあちゃん――」


 最近は寝てばかりになってしまったおばあちゃんの枕元で、ズボンを握りしめて、アタシはうつむく。おばあちゃんが寝ているからと、言ってはいけない言葉がこぼれ落ちる。


「ディートハルトは、いつ死ぬの……? アタシ、最初にリクエストしたよね……? 復讐して、国とか滅ぼして、最後には自分も死んじゃう系の悪役、って。アタシ、最近、ディートハルトのことぶっちゃけ嫌いでさ……ねぇお願いおばあちゃん。ディートハルトを殺して。殺してよ……」


 八つ当たりなのは分かっていた。

 柚希がいつまでもディートハルトに捕らわれているのはアタシのせいだ。

 あの時、柚希に真実を打ち明けて、軽蔑され嫌われるのが耐えられなかった臆病で卑怯なアタシのせいだ。キレイな『ショウねえちゃん』を壊すことが出来なかったアタシのせいだ。

 それでも、自分自身でもどうすることもできなかった。

 ディートハルトがいるせいで。ディートハルトさえいなくなれば。ぐるぐると沈み続ける暗い思考から抜け出せない。そうすればきっと柚希はディートハルトから卒業して、あの家にも来なくなって、好きな虫の研究だけに邁進して、ちゃんとご飯も食べて、『ショウねえちゃん』のことなんて忘れて…… 

 きっと、きっと。


 バチが、当たったのだろうか。

 その夜、おばあちゃんは静かに息を引き取った。

 アタシが、最後におばあちゃんに言った言葉は――……


 泣いて、後悔して。おばあちゃんの遺体にすがって懺悔して。

 みかねた親戚に引き剥がされて、おばあちゃんは荼毘に付され、小さな壷の中の粉になった。


 おばあちゃんから預かっていたと、介護士さんから最後に渡されたボイスレコーダーには、おばあちゃんのかすれた声で、『アリスフォード戦記』の新巻の途中までのお話が吹き込まれていた。

 ディートハルトが心を開きかけていたアリスフォード王女が、実はディートハルトの姉を殺した真の敵だと聞かされ、ディートハルトがアリスフォード王女と対峙する場面まで。本来のページ数の半分もない量。おばあちゃんの、本当に最後のお話。

 アタシはそのボイスレコーダーを文字に起こして――

 今までアタシは、おばあちゃんのお話を文字に起こすことはしても、一文字たりとも内容を変えたことはなかった。文章的にちょっと変かな、というところがあっても、全ての判断は編集さんに任せた。

 けれど。

 けれど。

 アタシは、最後の場面に、ディートハルトがアリスフォード王女を殺し、自分も死ぬ場面を勝手に書き加えて、編集さんに送った。


 それが、本当に出版されるとは思っていなかった。何より本来のページ数の半分しかないし、アタシにはおばあちゃんみたいな文才はない。悪役に主人公が殺される結末なんてあんまりだ。『アリスフォード戦記』の新刊が出なければ、柚希はもうあの家に来ることはない。ディートハルトのことだって徐々に忘れてくれるはず。

 それなのに、編集部は、それが売れると判断した。

 そして最終巻が発売されてしまった日――

 八月なのに、カラッとした天気じゃなくて、蒸し暑い曇りの日だった。

 その日に限って、どうしても断れない理由で劇団の団長に呼び出されたアタシは、夕方近くになって慌てておばあちゃんの家に向かった。

 柚希はいないかもしれない。

 あんな結末だったんだもの、『アリスフォード戦記』を投げ捨ててすぐ帰ったかも。

 でも柚希が来るのはいつも夕方だから、まだ間に合うかもしれない。

 最後にもうひと目会いたいなんて、気持ちの悪いアタシのワガママだ。柚希がディートハルトを――『ショウねえちゃん』の亡霊を振り切って幸せになってくれるのなら、それが一番だ。


 なのに。


 アタシを追い越して、羽の黒いトンボが、フワフワと不思議な飛び方で庭へ入っていった。

 無意識にそれを目で追って――……


「……嘘、嘘でしょ……? 嘘よね……?」


 敷石の側に、倒れている黒いボサボサの頭を見つけた。背中から下は草に隠れて見えなかったけれど、アタシが長年見続けた柚希の後ろ姿を見間違うはずがない。


「柚希……ねぇ、ねぇ、起きてよ!」


 抱き上げた柚希の体は、もう息をしていなくて――……

 その側に転がっていたのは、『アリスフォード戦記』の最終巻。何度もめくったのか、本のページがよれていて……

 その表紙にとまっていた、黒い羽根に水色の尾のトンボがふわりと舞い上がった。

 それがまるで柚希の魂のように見えて。


「いやよ、ねぇ、柚希……行かないで……逝くならアタシも連れてって、ねぇってば!」


 アタシが必死で伸ばした手は届かず……

 救急車を呼んでも、病院に運んでも。柚希が生き返ることは、なかった。



 アタシの、せいだ。

 アタシのせいで、柚希は死んだ。

 アタシが、おばあちゃんの『アリスフォード戦記』をあんな結末にしてしまったから。

 アタシが、『アリスフォード戦記』の発売日だっていうのに、おばあちゃんの家に行くのが遅くなったから。

 アタシが、ちゃんと、柚希に嫌われなかったから。アナタの見ていた『ショウねえちゃん』は紛い物で、アタシは本当は男なのに女装して小学生の女の子を家に連れ込むような変態で、気持ち悪くて、最低で、最悪な奴なのよ、って告白する勇気がなかったから。

 アタシが、臆病で卑怯だったから……

 こんなアタシが、生きていたから……

 アタシが、アタシが、アタシが。


 おばあちゃんの遺作を汚して、柚希を殺して……それなのに、アタシは今、舞台に立っている。


 柚希が死んだ日、アタシを呼び出した団長の用件は、『アリスフォード戦記』舞台化、さらにアタシにディートハルト役をやらないか、との打診だった。

 おばあちゃんの遺言で、『アリスフォード戦記』の著作権や印税はアタシに相続された。

 アタシが承諾しなければ、『アリスフォード戦記』は舞台化できない。

 乗り気じゃないアタシに、団長兼監督は「ずっとやりたがっていただろう? 作者死亡による断筆、途中で切れた最終巻、主人公クラス二人の悲劇的結末、今が一番話題になるときだろうが!」と説得を重ねた。

 それに悩んで、迷って、かつて柚希に語った「いつか『アリスフォード戦記』を舞台化するのよ!」という自分の声がよぎって……ひょっとしたら、柚希が見に来てくれるんじゃないかと、浅ましい願いを抱いて頷いてしまった。

 今まで、一方的に見つめるだけだった柚希に、アタシとしてじゃなくていい、舞台の役者の一人として、ポスター越しにでも認識してもらえるなら死んでもいい、なんて。我ながら気持ち悪過ぎる。

 そんなアタシじゃなくて、死んだのは柚希だった。

 アタシが迷っていた時間の分早く着いていたら、柚希は助かっていたかもしれないのに。


「なんであんな奴がディートハルトなんですか、監督! 原作者の身内だからって! 今まで名の付いた役だってろくになかったのに!」


 劇団の一枚看板の役者からクレームが入っても、監督は頑として配役を変えなかった。

 監督の中で、ディートハルトは『水上尚太郎』のイメージで既に固まっているから、と。

 アタシは稽古に打ち込んだ。

 店長にお願いして、美容室も辞めた。

 鬼気迫る演技だ、と監督にも褒められて――……

 こけら落としの日。

 ワイヤーアクションの最中、地上五メートルの宙吊りの場面で、ブツリと音がした。

 アタシの『尚太郎』としての記憶は、そこで終わっている。





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