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23 再会

前回のあらすじ・倒れた幼いネムを見たディートハルトは、一周目の記憶を取り戻した。


5◇◇◇


「ねぇ、ディートハルト。ネリームーアと離れたくないのは分かるんだけど、ちょっと来てくれないかな。ネリームーアの側には、イリヤとキサラに付いていてもらうから」


 ベッドの上で、まだネムをしっかりと抱えていたアタシは、伯爵に呼び出された。

 ネムと再開したのは昼前で、呼ばれたのは夕方だった。

 なかなか目覚めないネムを心配して医師にも診てもらったけれど、ただ爆睡しているだけだと診断された。どうも昨日の夜、こっそり抜け出して一晩中地面から出て来たセミの幼虫を追跡していたらしい。

 四歳児が徹夜したなら、昼間起きられなくても無理はないと。


「どうしても、行かなきゃダメですか?」


「どうしても、だよ」


 こういったとき、伯爵が引かないのは知っている。

 渋々と抱えていたネムを布団に寝かせ、立ち上がったアタシは、伯爵の後ろから顔を出した二人に思わずピンと耳としっぽを立てた。


「イリヤ! キサラ! そうよ、貴方たちも生きてるんだわ! 良かった、良かったわ! ネムを守ってくれて、本当にありがとう」


 部屋に来たときにはアタシに対する警戒をうっすら滲ませていたイリヤは、アタシに手を取られてドン引きし、それから鼻にシワを寄せた。山猫の獣人であるイリヤの隠しもしない警戒表情だ。 


「なんなのアンタ!? アンタなんかに言われなくたって、ネリームーア様はあーし達が守るし!」


「ネリームーア様とあなたは初対面ですよね?」


 モグラ獣人のキサラも色眼鏡の下でいぶかしげに眉を寄せている。

 それはそうだ。

 一周目の記憶はアタシにしかないんだった。

 ネムを守って死んだ二人に再び会えた感動は、誰とも共有できない。

 それが思い知らされて、少しせつない。

 冷静に考えれば分かるはずなのに、子どもの体のせいか感情が先走ってしまう。


「まあまあ、ディートハルトにも事情があるんだよ。イリヤとキサラにも後で説明するけれど、今はネリームーアに付いていてやってくれるかな?」


「ローゼワルテの屋敷で、ネリームーア様を一人で寝かせといても不安なんかないと思いますけど?」


「うん、まあ、そうなんだけどね。今はお願い」


「はあ、ミルト様がそうおっしゃるなら」


 伯爵の言葉には素直に頷いたイリヤだったが、アタシをギロッとにらみつけた。


「良く分かんないヤツがネリームーア様に近づかないよう、よーく見張っときます」


◇◇◇


「ほう、君が、二十年分の未来を経験して、再び戻ってきたという人間かね」


 ブワッと尻尾が一気に逆立った。

 全身の毛が逆立ち、奥歯がガチガチ鳴って噛み合わない。

 背を向けた瞬間、人生は終わる。

 震える脚を叱咤して、腰を落とし、冷や汗に濡れる足先を踏ん張った。

 まだ成熟していない、筋力も戦闘能力も一般人並みのこの体で、わずかでも生き残れる道は……

 コンマ以下の時間で何十パターンかの戦術を組み立てフル稼働しているアタシの頭を、横に立っていた伯爵がポンポンと叩いた。


「大丈夫だよ。今はまだ、ペイジは僕らの友人だからね。そんなに警戒しなくてもいい。でも君の怖がり方を見て、君の言葉の信憑性が増したよ。ペイジは初対面の人間からしたら、洒脱な普通の紳士だからね。人に化けた竜だなんて、誰も思わない」


「今はまだ? ローゼワルテには私たちとの友誼を(つい)えさせる予定があると、そういうことかな」

 

「その話をしようと思って、わざわざ君に来てもらったんだよ。分かっている情報があるのに、すぐに開示しないのは誠実じゃない。そうだろう?」


 目の前の高位竜から漂ってきた薄い威圧に、伯爵は軽く肩をすくめることで答えた。

 愛嬌のある顔と全く強くなさそうな見た目に反して、肝が据わりまくっている。 


「僕は又聞き。当事者はディートハルトだ。ディートハルトから説明するのが良いと思ってね。竜に情報を共有してもらうのは、ネリームーアを守るのにも有効だ。出来るよね、ディートハルト?」


 そうだ、こういうところだ。

 歯の根も合わないアタシに、さらっと無茶振りをぶっ込んでくるところ。

 廃人になったときのイメージが強くて忘れてたけれど、ミルト・ローゼワルテはこういう人だった。

 ホント、顔に似合わない。


 アタシは心の中でゆっくりと数を数えながら、戦闘態勢を一つずつ解いた。

 どのみち、今のアタシが戦ったところで瞬殺されて終わる。

 アタシが『竜の血』を奪いに行ったことを告げたら殺されるかもしれないけれど、ペイジはアタシを殺しかけた瞬間すら聞く耳を持ってくれていた相手だ。それに賭けよう。


「初めまして。そして、お久しぶりです。ディートハルト・ローゼワルテと申します」


 アタシの話を、ペイジは最後まで黙って聞いた。


「……」


 沈黙が痛い。こちらを見極めんとするような眼光が刺さる。

 殺されるだろうか。アタシは、彼らの幼い王子が死にかける元凶だ。

 出来るなら、ネムがもう一度目を開いて、しゃべって、笑うところが見たかったけれど。

 アタシがいなくなることでネムが普通の人生を送れるなら、それもいいかもしれない。

 唇を噛んで拳を握り、死刑宣告を待つアタシの前で、ペイジは膝を打って呵々大笑した。


「ふはは、ただ一人を取り戻すために、国を滅ぼしたと! そういう根性のある奴は実に火竜好みだ。それに何より、十数年後には我が主に子が産まれておられると。その子の世話を私がしていると。まぁ何ともめでたい予知だ。我が主は、もう即位以来百年もの間、伴侶を決めておられなかったからなぁ。ついに主の想いも実を結ぶ……ははは、それも、赤と黒の双子……」


思わぬ反応に目と口をポカンと開けていると、ペイジは両手を組んで膝に乗せ、クツクツと笑った。


「望みがあるなら実力で示すのが我らの流儀。君は私に『竜の血』を求めたが実力を示せず返り討ちに遭った。幼竜はネリームーア嬢の恩に報いんと、己の血を差し出すことを決断した。ところが実力も示せぬ人間が姑息な策を弄し血を媒介に幼竜の力を奪おうとした。それを阻止せんと我ら火竜はさらなる実力を示したわけだ。……ミルトと長々と退屈な協議を重ねるより、よほど分かりやすい、火竜らしい単純な話よ」


 ペイジはローテーブルの上に置いてあった石造りの灰皿に手を伸ばした。

 赤ん坊ほどの重量があるだろうそれを羽のように持ち上げると、ベキョッと音がした。石の塊をベキベキと握りつぶすと、粉になった残骸がバラバラとローテーブルの上に落ちた。


「まぁ、どうせ牙を剥くなら、限界まで牙を研いでおいて欲しいところだ。我らは我らを害する意志のない者を無闇矢鱈に蹂躙するほど野蛮ではないと自負しているが……実は、ここだけの話、私は我らに刃向うほどの根性と度胸のある存在が大好きでね」


 パタパタとはたいて手についた粉を払うと、洒脱な紳士の仮面を脱ぎ捨てて、獰猛にニヤリと笑った。


「裏切ったと言うが、予知の君は姑息な手段を講じることなく正面から私に『竜の血』を所望し、望みを叶えるべく実力で挑んだ。幼竜を騙して血を盗んだわけでもない。君は私の血を手に入れることは出来なかったが、もし仮に、君が私を傷つけ血を流すことができたなら、私は君が実力を示せた対価としてその血を渡しただろう。もし本当に『竜の血』にネリームーア嬢を癒やす力があり、それによって私の『力』が減ったとしても、取り戻そうとはしなかった。私は君のような人間が好きだからね」


 王都が壊滅したあのとき、竜がローゼワルテやアタシ達を見逃した理由が腑に落ちた。

 あのときのアタシは、竜達は起因となったアタシを生かして惨劇を見せつけてやろうとしているのだろうと思っていたけれど、本当はアタシの行動が竜の意に沿っていたからだったのか。

 鋭い歯を見せたまま、ペイジは楽しそうに笑い声を上げた。 


「はは、久しぶりに楽しくなりそうだ。強くなるのは悪いことではないよ。国を滅ぼすにしても、私から血を奪うにしてもね。身一つで王都を滅ぼせるくらいには、私がじっくりと鍛えてあげよう」


 しっぽが、ぶわりと毛羽だった。

 竜というのは人とは感覚が異なる。

 伯爵代理をしていた一周目に散々思い知らされた。竜の好意とは、『死ぬ寸前まで鍛え、回復させてまた死ぬまで鍛えてやろう。本当に死んだら根性が足りないってことでいいよね?』というような、時として嫌われた方がマシじゃない? と言いたくなるような無間地獄をはらんでいる。


 アタシのはた迷惑な師匠が爆誕した瞬間だった。


◇◇◇


「んー……」


 イリヤ達に礼を言ってネムの部屋に入ると、ちょうどネムがもぞもぞと動き出し、オレンジがかった栗色の睫毛がパチリと開いた。ぼんやりとしていた目が焦点を結び、それからまん丸になると、パチパチと瞬いた。


 ぶわっ、と顔に血が昇った。

 何コレ、何コレ、何コレ!?

 かわいい。めっちゃかわいい。かわいすぎるんですけど!

 何この生き物!? ってネムよ、ネムに決まってるんだけど! ネムってば四歳の時こんなに可愛かったかしら? ほっぺふくふく。突っついてもいいかしら。 

 アタシを見た。今、確かに見たわよね!? 夢が叶ったわ! 感動。めっちゃ感動よ。もう死んでも良い……ってダメよ、ネムの笑顔だって見たいし、しゃべりたいし、声だって聞きたいし、髪もいっぱいとかしてあげたいし! お菓子とか料理も作ってあげたいし、可愛い服だって着せたい、何なら作りたいわ!

 誰よ平凡顔とか言ったの。充分すぎるほどかわいいじゃない。

 大輪の花とかリボンじゃなくて、ベリー系、木の実とかの髪飾りが似合いそうよね。

 この世界では見たことないし、作る? 作っちゃう?

 ああっ、耳がピクピクッて動いた! ちょっと小さめの耳も可愛すぎる!

 ああもう、嬉しすぎて自分でも何考えてるんだか良く分からない!


 浮かれまくって空高く舞い上がったテンションは、ネムがギョッとしたように引き、ベッドに潜り込んでいた大猫の下に隠れたことで急転直下地面の下までめり込んだ。


――そうよね。イリヤとキサラの反応で思い知ったはずじゃない。アタシ以外に一周目の記憶はない。ネムにとって今のアタシは、ほとんど初対面の見知らぬ人間で。そんなのが突然自分の寝室にいたら……怖いわ。そりゃ。


 アタシは、ネムに起きて欲しいと願うばかりで、ネムが起きてからどんな会話をしたらいいか考えるのを完璧にすっぽ抜けていたことに気付いた。

 一周目の記憶を話すことはできない。

 っていうか初対面の人間から、イキナリ『アナタのために国を滅ぼしてきたのよ』なんてドン引き案件もいいところだ。伯爵に止められてなかったとしても、ナシ寄りのナシ。

 今のネムはまだ四歳。四歳児相手って何を話せば良いの!?

 こんなに可愛い盛りのネムに怖がられて避けられるなんてなったら……泣きそう。想像だけでしっぽが丸まって耳が寝てくるわ。

 もう一度生きているネムに会えたらそれだけでいいなんて思ってたけど、あの瞬間は本気の本気、本心も本心だったけど、やっぱり嫌われたくなんかないのよ!


 虫? 虫の話題? 小さい頃から虫好きだったネムなら鉄板だと思うけど。

 でも、初対面の人間が自分の趣味嗜好を把握していたら怖くない!? 


 落ち着けアタシ。不自然じゃないようにしなきゃ。

 初対面なんだってば、初対面。イキナリ抱きつくなんて論外よね。なんとか怖がらせないように懐いてもらわなきゃ。考えて、思い出して。一周目の時、ネムと初めて会った時アタシはどんな風だった?


「あ、あの……倒れたから気になって……でも、いきなり自分の部屋にほとんど初対面の人がいたら、嫌よね……じゃなくて、嫌だよね……」


 その途端、バサッと毛布が飛んで、ネムはベッドの上に立ち上がっていた。


「ああああ、ディートハルトだぁ……本物なのです……最高か……マジ尊い……尊すぎるのです。産まれてきてくれてありがとう……ディートハルトを産んだこの世の全てに感謝……産まれてきて良かった……」


「え……?」


 何この反応? 思ってたのとかなり違う。

 まさかネムにも一周目の記憶があるの?


「しゃべってる……生きてる……良かったぁ、生きてる、生きてるのです! ……! ……! …………」


 奇声を発しながらベッドにうずくまり、何度も頭をシーツにこすりつけながら、布団に口を押しつけて小声で何か叫んでいるネムに、アタシは恐る恐る手を伸ばしてみた。

 けれど、その手はネムに届く前に、ネム自身に拒絶された。


 目の前が、暗くなる。

 体の芯に鉛が入ったようだった。

 そうよね。例え一周目をネムが覚えていたところで……アタシはネムを守れなかった。ネムがたくさん傷ついているのに、気付きすらしなかった。死なせた。最期の瞬間すら看取れなかった。ネムに触れる資格なんて……


「Yes推し! Noタッチ! それがオタクの鉄則なので、触れるだなんてそんな恐れ多いことは勘弁なのです!」


 地面にめり込むほど落ち込んでいたアタシは、早口でまくしたてられたネムの言葉をあまり良く聞き取れなかった。


「えっ……いえすお……? 良く分からないけど、触らないから。そうよね……アタシみたいなのに触られるなんてイヤよ……だよね。でも大丈夫? 怖い夢でも見た? それとも倒れたときにアタマ打ったりした? どこか痛くない?」


 一周目という言葉は使えず、夢という曖昧な表現にしかならなかった。

 泣きそうになりながらなんとか紡いだ言葉に、何故かネムは目を見開いて……それから自分の顔面を思いっきりひっぱたいた。


「イキナリ何するのっ、痛かったでしょう!?」


 思わず素の口調が出てしまった。でも、アタシはネムを守りたいのに。今度こそネムを守りたいのに、この子は自分で自分に何てことをするのか。


「わたし、ずっと妹が欲しかったのです!」


 唐突に叫ばれた言葉が、胸に刺さった。

 そういえば、確かに一周目の最初の時も、ネムはそう言っていた。兄じゃなくて妹が欲しかったのに、と。

 やっぱり、ネムには一周目の記憶はない。分かっていたことなのに、その事実がジクジクと胸を刺す。


――何を自分勝手な感傷に浸ってるのよ。搾取され尽くして殺されるなんて……あんな酷い記憶、ないほうが良いに決まってるわ。万々歳じゃない。アタシの記憶がないことなんて、そうよ、大したコトじゃない、わ。


 胸が、痛い。


「そう……よね。お兄さんの方が後から出来るなんて、変よね……だもんね……」


 必死に絞り出した言葉に、ネムは大慌てで思いもしない返答をくれた。


「ちが、ちがうのです。えっと、だから、今日からディータはわたしの妹! 女の子の言葉でしゃべって、女の子の服を着るのです! わたしがおうちと領地を案内して、野いちごのあるとこも教えてあげるし、コケモモのジャムも教えてあげるし、野ウサギのおうちも教えてあげるし、魔獣が出ても守ってあげます! うん、ネムおねえちゃんがずっとずーっと守ってあげるのです!」


 大きく目を見開いて、アタシはしばらく固まった。

 そうだ。

 ネムは、こう言ってくれたんだった。一言一句違わずに、一周目の、あの時も。

 男の子の服を着ているのに、女の子のようにしゃべってしまうアタシを。本当は女の子の服を着て女の子みたいに生きたいというアタシの心を、分かってくれた。当然のように受け入れてくれた。自分の我が儘だと皆には言い張って。

 そうしてネムは『守る』と言った言葉を守ってくれた。最期のあの瞬間まで。

 記憶があるかどうかなんて関係ない。ネムは、ネムだ。アタシの、ネムだ。

 涙が溢れそうになる目を細める。震えそうになる声……それなのに、同時に湧き上がる笑みが抑えられない。

 ああ、幸せ。幸せだわ。ネムがここにいる。生きてる。

 今度こそ実感できた。アタシは、ネムを取り戻したんだわ!


「ディータって言った? アタシをそう呼んでくれるの? 女の子の口調のままでも、女の子の服を着ててもいいって、そう言ったの? ネムお姉ちゃん?」


 ネムは嬉しそうに何度も頷いてくれた。

 さっきから、アタシが一方的に気持ちが浮いたり沈んだりしているだけで、思い返せばネムはずっと嬉しそうだった。アタシを嫌っているなんてきっとない。ないはず。


「くぅぅっ、尊いのです! 笑顔最っ高! 最っ高にかわいい、キレイ過ぎるのです! ゼッタイに、ゼッタイにわたしが守りますから! ずーっとです!」


「守ってくれるの? こんなに小さいのに。嬉しいけど、アタシだってネムを守りたいわ」


「小さくはないのです! お姉ちゃんですから!」


 ベッドの上でピョンピョン跳びはねるネムに、クスクスと笑いと幸福感が込み上げてくる。

 そうだった。

 領地でのネムは、こんな子だった。

 アタシの、一番幸せだった頃。ネムが笑っていて、伯爵が笑っていて、領地の皆も笑っていた。生活や修行は大変だったけれど、アタシは確かに幸せだった。

 ネムの遺体の凍えるような冷たさと。硬さと。青白い皮膚と。包帯と。痣と。血と。表情の抜け落ちた顔。それだけを幾度も幾度も思い返して、アタシは、この大切な記憶を忘れかけていた。

 あんなにも、焦がれ戻りたかった場所なのに。

 大切で、愛しくて。


 ネムに手を引かれ、領地を案内してもらう。

 食料保存庫や、魔獣の巣、獲物の穴場。

 とっくに知っているけれど、ネムが案内してくれるというだけで楽しい。得意になってアタシに説明してくれる、ちょっと生意気な口調も可愛い。

 けれど。

 荒野のある地点で、アタシは立ちすくんだ。

  全身に鳥肌が立ち、しっぽがぞわりと逆立った。

 フワリと現れた、黒い翅のトンボ。

 フワフワと、トンボらしくない不思議な飛び方をするそれは――


 ぞわり、と何かが足下から這い上がってきた。

 記憶、だ。

 知らないはずの世界、知らないはずのアタシ。

 ディートハルトとして産まれる前の、アタシの記憶。

 これは前世だ。


 水上尚太郎――日本という国で生きていた、ショウという男の記憶。意識。慟哭。


 ショウが共に生き、突き放し、そして死なせた……柚希という少女の記憶。


 そして、ショウが関わっていた物語――『アリスフォード戦記』の記憶。


 アタシの一周目の人生は……『アリスフォード戦記』そのものだった。

 その名の通り、物語の主役は、アリスフォード王女。

  竜のスタンピードで、王都が壊滅するところから物語は始まる。

 アタシは、その物語のラスボスだった。復讐のために国を乗っ取り、主人公と敵対し、時に助け、最後には主人公を殺して自らも命を絶つ絶対的な悪役。


 ネムは……あの壮絶なネムの一生は、死に様は、物語が始まるための、前座でしかなかったというの……?


 許さない。許さない。許さない。

 ネムの、苦しみを、献身を、嘆きを。

 物語のための歯車だったなんて言わせない。

 認めない。ネムは、アタシは、確かにここで生きている。

 物語の登場人物なんかじゃない。ネムはネム、アタシはアタシだ。

 変えてやる。絶対に。クソ食らえな物語なんか、始めさせてすらやらない。


 ギリギリと歯を噛み鳴らしたとき、一滴の雫のような気付きがアタシの意識の水面に波紋を広げた。


 なんてこと。

  

 ネムは、柚希だ。

 アタシに染みこみ、アタシの一部となったショウは確信していた。

 ディートハルト廃。狂おしいまでにディートハルトの幸せを願うあの魂は、柚希のものだ。

 アタシは二度までも、アタシのせいで柚希を殺した。

 

 疫病神。アタシは柚希――ネムにとっての、死神だ。




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