二話 柚希→ネム
前回のあらすじ・婚約破棄されたネリームーアにプロポーズしたのは、まさかの最推しディートハルトで……
2◇◇◇
(ネム視点)
わたしはネリームーア。ローゼワルテはくしゃく家の一人むすめ。カヤネズミのじゅう人。虫とおいしい物が大好きな元気いっぱいの四さい。毛虫かわいい。
え、え? ちょっと待って、おかしい。
私は、田鷺 柚季 二十一歳。日本在住の農学生だ。専攻は昆虫学、カイガラムシ。確かに毛虫はかわいい。激しく同意する。でも、あれ?
わたしは?
私は?
「大丈夫かい、ネリームーア?」
固まっていると、のぞき込むように膝を曲げて、大きな体で愛嬌のある顔つきをした男の人が不思議そうに私の顔を見つめて――……って、違う。『わたしが』小さいんだ。
自分の土で汚れた小さな手のひらと、男の人の顔を見比べる。まるで幼児のような手。その手の上には、なぜかムクムクのタワシのような毛虫が一匹。野生児か。
まあたしかにかわいいけど。
そうだ、知っている。この人は、ミルト・ローゼワルテ。カワウソの獣人で、わたしの、父さま。
そしてその隣で、本当なら三角にピンと立っているはずの狐耳をへにょりと寝かせて、緊張にもじもじと指を組み合わせながら、チラリチラリとこちらを見ている綺麗な赤毛の男の子は……
「でぃーとはると・ろーぜわるて……」
わたしの、私の、わたしの、私の、わたしの私の。
最推し、だ。
バチンッと脳みそがショートした。
「ネリームーア!? どうしたんだい!? 誰か、誰か来てくれ、ネリームーアが!」
鼻血を垂らしながら後ろ向きに倒れていくわたしの視界の中で、狐耳の男の子――ディートハルトが切れ長の目をまん丸にしてから……慌てて手を差し出し走り寄ってくれるのが映った。
……ああ、大好き。
◇◇◇
私、田鷺柚希は、いわゆるところの放置子だった。
お父さんは見たことがない。お母さんはお金には困っていないようだったけれど、仕事が忙しくて、家に帰ってくる方が珍しかった。
それでもこども園の間はご飯を用意してくれたりお迎えに来てくれたりするお手伝いのお姉さんがいた。
料理を作ったり洗濯物を畳んだり洗い物をしたりしている間も常にテレビを付けっぱなしにしているヒトで、なんとかっていうお気に入りの役者さんがいるようで、しょっちゅう『くぅぅぅ、尊い!』『生きる活力ですな!』『○○様見ながら仕事出来るとか最っ高!』『ってか○○様が最オブ高』『寿命が延びる』『ギャップ萌え!』『萌え死ぬっ』『また課金させていただきます』『生きてて良かった』『最推しがいるから生きて行けるのよ』と床をバンバン叩きながら転がったりもだえたりするテンション高めのヒトだった。
私は感情の薄い子どもだったので、そんなに夢中になれるヒトがいるっていいな、楽しそうだな、と何となく思いながら一人でご飯を食べた。
小学校に入ると、そのお姉さんは来なくなった。
『もう小学生なんだから、買い物くらいできるでしょ、ご飯は自分で買って。必要なものがあればそれもここから買って良いから』と生活費を渡されるようになった。
今考えると、小学校一年生を捕まえて数十万単位の金渡すとか有り得ないと思うけれど、当時の私は疑問に思うこともなく、お母さんが言うならそういうものなのだろうと頷いて、コンビニに通うようになった。
それでも、あの賑やかなお姉さんと会えなくなって、ちょっと胸がスースーするような気がした。
私は私しかいないマンションの部屋に戻るのが何となく嫌で、公園のベンチでオムスビを食べ、公園に遊びに来る親子連れを眺めていることが多くなった。
「ねぇ、ぼく、どうしたの? もう随分前に日が暮れたわよ? おうちは?」
そんな私に唯一声をかけてくれたのが、近所に住む中学生のお姉さんだった。
買い物帰りに、もう暗い公園のベンチに座って、何するでもなくただぼーっと滑り台を見ている小一を見かけて衝撃を受けたらしい。
けれど声をかけられた私も衝撃を受けた。
なんて、きれい。
それに、何となくどこかで見たことがある気がした。
そうだ。あの賑やかなお姉さんが大好きだった、テレビの中の『最推し』さんに似ている。
きれいなヒトは、似ているものなのかもしれない。
テレビの中にいるだけだった『最推し』さんと違って、お姉さんは私に話しかけてくれた。
あの賑やかなお姉さんが言ってた『尊い』って、こういうこと?
家に送る、と言ってくれたお姉さんに、帰りたくないと首を横に振ると、お姉さんは少し悩んでから私を自分の家に招待してくれた。
「アタシね、一回でいいから、『ショウ姉ちゃん!』って呼ばれてみたかったんだよね」
お姉さん――ショウ姉ちゃんは、きれいな顔で照れながら、弾んだ声でそう言った。
耳まで赤くなっていて、ほっぺも赤くて、きれいで、かわいい。
私はちっちゃな声で『尊い』とつぶやいた。
ショウ姉ちゃんはお婆ちゃんと二人暮らしだったけれど、そのお婆ちゃんが最近施設に入ってしまって、実は寂しかったのだと眉を下げて笑った。
かわいい。
『萌え死ぬ』『ギャップ萌え』という言葉が浮かんだ。
ショウ姉ちゃんは女子力というものが高く、それから毎日のように公園にいる私に声をかけ、夕飯をご馳走してくれるようになった。
私は、ショウ姉ちゃんの家で、初めて誰かが自分のためだけに作ってくれた料理を食べた。
『生きる活力』って、きっとこういうこと。
『最推しがいるから、生きて行ける』だ。
そう思った瞬間、心臓から体中にブワッと何か熱いものが広がった。
そうだ。私は、ショウ姉ちゃんが大好きだ。大好き。大好き。
その感情を噛みしめる。
私も、誰かを大好きになれた!
目の前が、パアッと明るくなるようだった。
私が大好きなショウ姉ちゃんが、大好きだったのが、『アリスフォード戦記』という小説だった。
「ねね、アリスフォードももちろんイイんだけどねっ、最推しはやっぱりローゼワルテ辺境伯――ディートハルトなのよっ、この悪役なのに実は世話好きなとことか……女言葉のイケメンってとこが最強に刺さるのよ……」
小学一年生の私には内容が難しかったけれど、ショウ姉ちゃんは『これは布教だから。ファンの裾野は小さいときから開拓していかねばならんのだよ』とか言いつつ、内容を噛み砕きながら読み聞かせてくれた。
私は自分で教科書以外の本や漫画さえ読むことはなくて、本の何が面白いんだろうと思うような子どもだったけれど、初めて体験した『読み聞かせ』というものが楽しくて、幸せで、ショウ姉ちゃんに会う度にねだっては毎回読んでもらうようになった。
「『アリスフォード戦記』を好きになってくれたのは嬉しいんだけどね、自分で読んだほうが、もっと早く先が読めて面白いと思うわよ?」
ショウ姉ちゃんはそう言って首を傾げていたけれど、私が『アリスフォード戦記』を好きなのは、大好きなショウ姉ちゃんが読み聞かせてくれるからこそだ。
二年生になっても三年生になっても、少しずつ読み聞かせは続き、そのうち私も『アリスフォード戦記』の世界やキャラクターがもっと大好きになった。
キャラクター以外に私が興味をもったのは、『アリスフォード戦記』に度々出てくる虫だった。
例えば蚊に刺されただけで、重い熱病になる。
バッタの大群に襲われて、作物や家まで食い散らかされ、飢餓に苦しむ国が出てくる。
巨大な蟻の巣を利用して砦を壊したりする。
カイガラムシをすり潰して、その赤い色素を口紅にする場面があったりする。
虫の垂らす甘い蜜で、縛られ飢え死にしそうな人がなんとか命をつないだりする。
都会のマンションの高層階で生まれ育った私にとって、虫はほとんど見たこともない生き物で、見慣れた人間や犬猫とは全く違う生き物で、それはまるで異世界ファンタジーに出てくるモンスターのようだった。ショウ姉ちゃん風に言うなら、深く刺さった。
カイガラムシが出て来た場面で、ショウ姉ちゃんに『虫が見てみたい』と言ったら、『うちにいる虫っていったら、台所のGくらいかなぁ』と変な笑いを浮かべたので、さっそく『Gのおうち』というのをコンビニで買ってきて、設置してみた。
翌日、ワクワクしながら『おうち』をのぞいてみたら、大きな虫(例のGらしい)と小さな虫が入っていて、私は生まれて初めてといっていいほど感動した。
なんでかショウ姉ちゃんは叫んで逃げたけれど。
その虫を飼うのは、ショウ姉ちゃんに泣きながら反対されて叶わなかった。
でも、虫を捕まえるのは楽しい。
捕まえた虫を見て、ショウ姉ちゃんが小さく悲鳴を上げながら私の後ろに隠れるのは、もっと楽しい。
ショウ姉ちゃんは虫が苦手なのに、私が虫好きだからって、一緒にワナを考えてくれたり、一緒に虫の種類を調べてくれたり、図鑑を読んでくれたりするのが、本当に嬉しい。
虫のワナを仕掛けておくと、マンションの部屋に帰ってもそのことばかり考えて、ショウ姉ちゃんの家にいるみたいに楽しいままで、廊下の隅の暗がりもお風呂で目を閉じるのも怖くはなくなった。
私の虫好きの原点は、間違いなくこの『楽しい』という気持ちだった。
ショウ姉ちゃんの家には草ぼうぼうの庭があって、『Gじゃないならまだなんとか』と言うショウ姉ちゃんを無理矢理付き合わせて、よく小さなバッタやテントウムシを追いかけ、捕まえ、蟻や羽虫の観察をした。
本嫌いだった私が虫の図鑑なら自分で読むようになって、虫嫌いなショウ姉ちゃんはドン引きしていた。
それでも、ショウ姉ちゃんは私を突き放したりはしなかった。
私の幸せも楽しいことも全てはショウ姉ちゃんと共にあったけれど、その日々は小学六年生の七月にプツリと終わってしまった。
滅多に帰って来なかった母親から、ある日突然『もうあの人と会ってはいけない』と言い渡されたのだ。
納得出来るはずもない私に、母親は『あの人は良くない人だったの。アンタは騙されていたのよ。悪い夢を見たの。さっさと忘れなさい』と言い放った。
母親に放置された六歳児を、見返りも求めず六年間も世話し続けるお人好しが、悪い人なはずがない。
それなのに、ショウ姉ちゃんは、あの古くて小さい家からフツリといなくなってしまった。
「いつか劇団員になって、『アリスフォード戦記』を2.5次元の舞台でやるのだよ、それが夢なのさ!」
拳を突き上げて語っていたショウ姉ちゃん。出会ったとき中学生だったショウ姉ちゃんは、今は美容師学校に行きながら、夢を叶えるため劇団員を目指していたはずだ。
「まぁたアリの巣見てるの? 確かに『アリスフォード戦記』にもアリは出て来たけど、いい加減飽きないかね? って、それ、アンタが毎年探してた新女王アリってやつじゃない!? こんなに大きいの!? ついに捕まえたんだ! 凄いじゃないの!」
本当は虫嫌いなのに、私が虫を捕まえるとなんだかんだと一緒に喜んでくれたショウ姉ちゃん。
それからショウ姉ちゃんはホームセンターに自転車を飛ばして、『アリ観察キット』というのを買ってきてくれた。透明な平べったい水槽みたいなそれには水色の透明なゼリーが入っていて、アリが巣を作っていくところがよく見えた。『ショウ姉ちゃん天才』と感動した私に、
「ほーっほっほ、遠慮なくあがめなさい!」
と調子に乗って笑っていたのは、つい半月前のことだったのに。
卵を産んで巣を大きくしていく新女王アリのために、キットを何個もつないで大きくした。一緒に、巣の成長が楽しみだね、ってはしゃいでいたのに。
何回か訪ねた後、いくら呼び鈴を押しても出てこないショウ姉ちゃんに焦れて、私はガラスを割って家の中に忍び込み――茫然と立ち尽くした。
そこはただの古い家で、ショウ姉ちゃんがこだわっていたオトナカワイイ服も、キレイメ化粧品も、ショウ姉ちゃんが選んでくれたカッコカワイイ私の服も虫の観察ノートも、女王アリが入ったアリ観察キットも――庭で虫を見ていると、『熱中症予防にはコレよ!』と口を尖らせながらショウ姉ちゃんが牛乳をいれてくれた青いコップさえも、何もなかった。
夢? ショウ姉ちゃんは、ひとりぼっちだった私が産み出した妄想だった?
そんな、そんなはずない。
ショウ姉ちゃん、ショウ姉ちゃん、ショウ姉ちゃん。
悪い人でもいい。騙していてもいい。会いたい、会いたいよ。
ショウ姉ちゃんを探して叫びながら空き家を荒らしていた私は、近所の人に通報されて、警察に捕まった。
「捨てたわよ」
警察から連絡が行き、さすがに迎えに来た母親は、こともなさげに言った。
帰りのタクシーの中、綺麗に塗られた爪を見ながら、軽く眉を寄せて。
「アンタがあの家に置いといたってもの、アイツが全部よこしたんだけどね。気持ち悪いでしょう、あんなの。さっさと忘れて、同じ年の子と大人しくゲームでもしてなさいよ。毎月充分以上の生活費は渡しているんだから、余分な手間をかけさせないでちょうだい。警察の世話になるだなんて会社で何て言われるか――あ、着信入ってたわ――運転手さん、ちょっとかけても良いかしら?」
目の奥がズキズキと熱くなって、涙が盛り上がってきた。
隣で仕事相手と電話しだした母親に気付かれないよう、しゃくりあげそうになる声だけは何とか我慢した。
食いしばった口の横を、涙がほたほたほたほたとこぼれ落ちていった。
私が寂しいとき、同級生なんて誰も構ってくれなかった。
私が心細いとき、当たり前のように側にいてくれたのはショウ姉ちゃんだった。
本当は虫が嫌いなのに、私が興味を持った虫を一緒に調べて、捕まえ方を一緒に考えて、飼い方まで悩んでくれたのはショウ姉ちゃんだけだった。
初めて卵を産んだとき、ショウ姉ちゃんと一緒に跳び上がって喜んだ女王アリ達は捨てられて――死んでしまった。
ショウ姉ちゃんと出会って初めて、私は、自分が寂しくて心細かったのを自覚した。
マンションの自分の部屋が、何で暗く寒く感じるのかも。
初めて、『大好き』になったヒトだった。
私の、生きてる意味だった。
それ、なのに。
もうショウ姉ちゃんはいない。
不法侵入した私は、ショウ姉ちゃんの家に近づけなくなってしまった。
相変らず母親の帰ってこない、生活感のないモデルルームのようなマンション、物が少ない自分の部屋のすみっこに膝を立てて座って、パラリパラリと昆虫の図鑑をめくる。
ショウ姉ちゃんの家の庭でしょっちゅう見ていたから、ところどころに泥汚れや黒い自分の指紋が付いていた。
その図鑑の中から、パラリと一枚、付箋が落ちた。
『ここ! このゾウムシもアリスフォード戦記に出てたのよ! 八巻の79ページ! いい加減、自分でも読んで探してみなさーい』
大きな矢印と、デフォルメされたショウ姉ちゃんの似顔絵が描かれたメモだった。
慌ててその付箋がはさまっていただろうゾウムシのページを開いて……たくさんのゾウムシの写真に、どれがそうだったのか分からなくてほんの少しパニックになり――それから、ショウ姉ちゃんの付箋を握り込んでしまっていたことに気付いて、さらに慌てた。
私はショウ姉ちゃんの家に入り浸っていて、ショウ姉ちゃんの家に自分の物を置かせてもらうことはあっても、ショウ姉ちゃんに関係する物をマンションに持って帰ることはなかったから……この付箋は、確かにショウ姉ちゃんがいたという唯一の証拠だった。
だって、私は、ショウ姉ちゃんの本名すら知らなかった。
いつも当たり前にあの家にいたショウ姉ちゃんがあの家からいなくなってしまえば、私にはショウ姉ちゃんを探す手がかりがなに一つないことに今頃気付いた。
私は付箋のシワを慎重に伸ばしてから、図鑑に挟んだ。
それから、本屋に行って『アリスフォード戦記』を出ている巻全て買い、初めて自分の目で読んだ。
ショウ姉ちゃんの『最推し』だったローゼワルテ辺境伯は、主人公のアリスフォード王女と敵対する悪役で、赤い髪の狐の獣人で、女装が似合う切れ長の目の美人。一方で変に面倒見が良く、ツンデレ気味に主人公のピンチを助けたりする。
改めて自分で読んでみると、ショウ姉ちゃんが憧れて影響を受けたせいか、ローゼワルテ辺境伯の言葉遣いや行動はショウ姉ちゃんそのものだった。
何回も、何回も、繰り返し『アリスフォード戦記』を読み返した。
読めば読むほど、私の頭の中のローゼワルテ辺境伯は、ショウ姉ちゃんの姿で再生され――気付けば私は鼻をすすりながら夢中で本を読んでいた。
ショウ姉ちゃんが付箋を貼ったゾウムシもちゃんと分かった。アブラヤシに付くゾウムシで、繰り返し指で撫でていたせいで、図鑑の写真は色が薄くかすれてしまった。
私は、ショウ姉ちゃんの家に行かなくなった分の時間で、今までろくにやってこなかった勉強を始めることにした。
寂しくて心細かった小学生の私は、ショウ姉ちゃんに救われた。
ショウ姉ちゃんを大好きになって、私は自分の中にも感情があるのを知った。
『尊い』『萌え』『活力』――最推し。最推しがいるから、生きていられる。
ショウ姉ちゃんは、私の前からいなくなっただけで、どこかで生きている。
ショウ姉ちゃんが嫌いだった虫。ショウ姉ちゃんが悲鳴をあげるのが楽しくて、好きだと言い続けていたら、いつの間にか本当に大好きになっていた。
大学に行って、その虫の研究をしてみようと思ったのだ。
勉強して、『アリスフォード戦記』を読んで。
新刊が出たら、もちろん予約して即日買った。
三冊目からは書店を出てそのままショウ姉ちゃんの家へ向かい、こそこそと庭に入り込んで草の隙間の踏み石に座り込んで読んだけれど、近所の人にも警察にも誰も咎められることはなくて。それが、新刊が出たときの私のルーティンになった。
『アリスフォード戦記』――ディートハルトは、私の『萌え』で『生きる活力』で『最推し』だった。
ディートハルトが活躍する度に胸が躍って、辛い目に合うと凹みまくった。
いつか賑やかだと思っていたお姉さんのように、ジタバタしながら新刊を読んだ。
今は色々あるけど、大変なことも多いけれど、最後にはきっと幸せになって。ショウ姉ちゃん。どうか、幸せに。
SNSで『アリスフォード戦記』オタク仲間とも交流するようになった。
ローゼワルテ辺境伯推しは一大派閥になっていて、『ディートハルト・ローゼワルテは悪役だけど、最後には主人公のアリスフォードと恋人になって、めでたしめでたし大団円だよきっと!』というオタク仲間が多かった。
私も心からそれを望み、信じていた。
私が無事に農学部の学生になり、昆虫学のゼミ生になった三年生の八月。
『アリスフォード戦記』の最終巻が発売された。
完結、というのとは少し違う。
『アリスフォード戦記』の作者が最終刊執筆の途中で亡くなってしまい、書かれていた分だけを出版する、という異例の事態だった。
私は予約していた最新刊を書店で受け取ると、そのままの足でショウ姉ちゃんの家に向かった。
庭は草ぼうぼうで家も外壁が所々落ちて塀のペンキもはげていたけれど、ショウ姉ちゃんの家はその時もまだそこに建っていた。
ゼミに泊まり込んで、二徹で、問答無用に虫好きな先生も負けずおとらず虫好きなゼミ生達もようやく手に入ったツノゼミの羽化を夢中で観察し記録をとっていた翌朝のこと――寝不足の頭は鈍く痛んでいたけれど、『アリスフォード戦記』の最終巻を読まずに寝るという選択肢はなかった。
蝉時雨の中、縁側の敷石に腰掛け深呼吸をし、ドキドキする胸に一度手を当ててから、表紙を開いた。
「……うそだ」
ページを半ばまで繰った私は、一瞬茫然としてから、何枚も何枚も乱暴にページをめくり続けた。
けれど、そこにあるのは本来のページ数の半量続く真っ白なページだけ。
作者が健在ならここまで物語が続いたということなんだろう。でも、何もない。
「うそ、うそ、うそ」
ぶわり、と涙が込み上げてきた。ぼたぼた、ぼたぼたと涙がこぼれ落ちる。
あの日以来、こんなにも泣いたことなんてなかった。
「っく、うそ、うそだよ、こんなの……」
ディートハルト・ローゼワルテ辺境伯は、死んだ。
それも、全てに絶望し、アリスフォードを殺してから自殺するという、最悪の終わり方で。
涙を袖で拭いながら、何度も何度も読み返して。
私『柚希』の記憶は、そこで終わっている。