十七話 転機
前回のあらすじ・ナーセルの一型糖尿病には腸管寄生線虫が効いた。
◇◇◇
お母さまが、倒れた。
元々ベッドに横になったまま、ほとんど動けなかったお母さまだったけれど、ベッド脇の棚にある資料を取ろうと、ほんの少しだけ身を乗り出したらしい。
そのままベッドの下に落ち、倒れているところを、部屋を訪ねたわたしが見つけた。
慌てて駆け寄って抱え起こしたお母さまは、骨に皮が貼り付いているように細くて、その体のあちこちがボコボコと波打っていた。
なぜ、具合の悪いお母さまがいつも化粧をしていたのか。
なぜ、手入れが大変なはずの髪を伸ばしていたのか。
なぜ、室内にいるのに帽子をかぶっていたのか。
なぜ、ふんわりとした服を着ていたのか。
なぜ、いつも手袋をしていたのか。
顔色の悪さを隠すため。痩けた頬を隠すため。抜けた髪を隠すため。痩せて腫瘍だらけの体を隠すため。衰えた指と爪を隠すため。
お母さまを、綺麗だとしか思わなかったわたしは、なんて馬鹿だったんだろう。
わたしが王都に呼ばれたときの父さまの言葉を思い出す。
『多分、マリアベルはもう、この夏を越えられないから。最期にネリームーアに会いたいって望んでるんだ』
あれは、誇張でも何でもなかった。
事実だった。
王都は日に日に暑くなっている。
暑くなるに従って、お母さまはさらに弱っていく。
牛の獣人は暑さに弱い。
「お師匠さま、お師匠さま、お師匠さま……! 大変なのです、お母さまが、お母さまが!」
研究室を探しても、庭を探しても、どこを探してもお師匠さまはいない。
父さまは何か特別な仕事を任されたらしく、ここしばらく王都を離れている。ディータも父さまの補佐で王都にはいない。
父さまが王都を離れる前、何度も何度も『マリアベルをよろしくね。マリアベルに付いていてあげて』と言われていたのに。
わたしはこのところ、ナーセルの治療にかまけてばかりだった。お母さまの食欲が全くないことにも、今まで以上に動けなくなっていることにも気付かなかった。
「お師匠さまぁ……」
目の奥が痛んで、涙があふれてくる。
どうしたらいいんだろう。もう時間がない。お母さまは今日にも死んでしまうかもしれない。わたしに出来ることは? わたしに、わたしに、わたしに……
「おや、どうしたんだい、ネリー?」
泣きながらやたらめったらに走り回っていたわたしは、とある廊下で覚えのある腕に抱き上げられた。
「お、お、お師匠さまがいないのです。お母さまが……お母さまが倒れて、死んじゃうかもしれないのに……!」
ひっく、ひっくと鼻をすすりながら零れた言葉には、高位貴族に対する挨拶も何もあったものじゃなかった。それなのに、シルバーコーン公爵はわたしを咎めもせず、頭をくしゃくしゃと撫でた。
「落ち着きなさい、ネリー。大賢者殿と大盗賊殿は、ソイ王国だろう? 王城内をいくら探しても、いるはずがない」
「……!」
そうだった。お師匠さまはナーセル達を送って行って、きっとまだソイ王国に着いてすらいない。手紙を出そうにも、早馬だって半月以上はかかる距離だ。すぐに帰ってきてくれたところで……
間に合わない。
「どうしたんだい、普段は冷静な君が。落ち着いて状況を話して。これでも私は宰相だ、少しは力になれるかもしれない」
◇◇◇
「お母さま、お母さま」
声をかけると、お母さまの金色の睫毛が僅かに震えた。それから、ゆっくりと目蓋が持ち上がり、大きな青い目がわたしをぼんやりと映し、それから僅かに目尻が下がった。
「ネリームーア、今日も元気そうね。良かった」
「お母さま。お母さまにお願いがあるのです。お母さまは嫌かもしれません。でも、わたしの考えた治療法を、試させて欲しいのです」
ギュッとスカートの裾を握りしめて、わたしは告げた。
この治療は危険で、ひょっとしたら、治療の最中に死んでしまうかもしれないこと。痛くて、苦しいかもしれないこと。父さまが帰ってくるのを待っていられないこと。気持ち悪いかもしれないこと。
でも、わたしに出来るのはこれしかないこと。
お母さまには、今まで何種類かの抗微生物タンパク質を摂取してもらった。
けれど、お母さまの病には何の変化もなかった。
抽出の方法とか薬剤化に問題があったのか、それともそもそも牛の白血病はウイルス性のものだったのか。
お母さまの病に効力があったのは、今のところペイジおじさんの一族の角、病の元には効かず本人の体力のみを強化できるという特別な薬だけだった。
これが何を表わすかといえば、お母さまの病に打ち勝つ可能性があるのは、お母さまの体の免疫細胞だけだということだ。
だから、わたしが行き着いた答えは。
人工的な治癒魔法アレルギーによる、免疫暴走。
「ネリームーアに任せるわ」
お母さまは、いつもの優しい顔でふんわりと笑った。
「もしもそれでわたくしが死んじゃったとしても、気にしないでね。わたくしへの治験データが、後の人の白血病治療の参考になるなら、こんなに嬉しいことはないもの。だから、もしものことがあっても、研究を投げ出したりしちゃだめよ? ネリームーア」
お母さまの手はほんの少し動いたけれど、もう持ち上がることはなかった。最初に会ったとき、わたしの頭を撫でてくれた柔らかな手は、もう手袋越しに触れても分かるほど骨と皮ばかりだった。
涙と鼻水でぐしゃぐしゃになりながら、わたしは何度も頷いた。
お母さまには前々から何度もお願いされていた。自分がいなくなった後、白血病の研究を引き継いで欲しいと。
でも、本当は、そんなのは嫌だ。
お母さまが人生を賭して成してきた研究は、お母さまのものだ。
お母さまに完成させて欲しい。
お母さまだって、本当は、中途半端なままな研究を、父さまを、ディータを残して死んだりなんかしたくないはず。
「お母さま、ゼッタイに、ゼッタイに、耐えて、生き残ってくだ、さぃ……」
わたしは、部屋の外に控えてもらっていた治癒魔法使いの人達を呼びに向かった。
お母さまを、人工的に急性の治癒魔法アレルギーにするには、一人の治癒魔法使いの人が一日に使える限度値までの治癒魔法では足りない。今、ローゼワルテ邸には、シルバーコーン公爵に頼んで王都中から掻き集めてもらった治癒魔法使いが十三人詰めてくれている。
わたしに、治癒魔法は使えない。
わたしに出来ることは、『鑑定』でのお母さまの状態の管理だけ。
後は、ただひたすら祈るだけだ。
本当は分かっている。お母さまの体は骨と皮ばかりで、体力は本当に少ない。お母さまが治癒魔法アレルギー、免疫暴走状態になったら、免疫細胞は白血病の元だけでなくお母さま自身の体も無差別に攻撃する。お母さまが耐えて生き残れる確率は……ゼロに近い。
こんなことはするべきじゃない。
心穏やかに、痛みなく旅だって逝けるように、緩和ケアだけに徹するのが本来やるべきことだ。
それでも、それでも可能性がゼロじゃないなら。
分かってる、分かってる。わたしのワガママでお母さまを苦しめる。生きていて欲しい、死んで欲しくない。覚悟を決めているお母さまに、わたしの勝手で死ぬより苦しいかもしれない治療を押しつける。
ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、お母さま。
「謝らないで……ネリームーア。秘密にしていたけれど……本当はね、わたくしももうちょっとだけ生きたいと思っていたのよ。ほんの少しでも可能性があるなら嬉しいわ……大人になったネリームーアと、ディートハルトの子ども達を見たいなって……ちょっと欲張り、かしら」
心の声が口に出ていたらしい。
かすれた、けれどとても優しい声が聞こえて……そのまま、お母さまの意識はなくなった。
◇◇◇
「マリアベルが持ち直したって、本当かい!? ネリームーア!?」
もう、季節は夏の真っ盛りを過ぎて、暦の上では残暑に分類される月になっていた。今年の残暑はとてもキツくて、ずっとうだるような暑さが続いている。
そう、お母さまの部屋の外では。
お母さまの部屋だけは、ひんやりとした涼しさを保っていた。
シルバーコーン公爵が手配してくれた、氷を使った冷風扇のおかげで。
氷魔法の使い手は、この国では治癒魔法使い以上に希少だ。氷魔法は種族特性魔法で、シロクマやアザラシの獣人など寒い場所で暮らす種族に限られる。この国は温暖なので、シロクマなどの獣人には居心地が悪い。唯一物好きなシロクマの獣医さんが住んでいて、何のツテなのか公爵の要請を受けて毎日氷を作りに来てくれていた。
「お帰りなさい、ミルト」
「マリア、マリアが体を起こしている……夢じゃないよね? ああ、もう一度生きている君に会えるなんて……! なんて奇跡だろう!」
「何度でも会えるわ。ネリームーアのおかげで、随分と良くなったのよ」
微笑むお母さまの前で、父さまは膝を突いておいおいと泣き出した。
お母さまの、まだ痩せている手を握りしめて、何度も口づけし、折れそうな体をそっと抱きしめた。
わたしが、見たかった光景だ。
泣きそうなくらい、幸せな絵。
……悔いはない。
「何を、したの? ねぇ、ネム? 奥様に、何を?」
振り返ると、愕然とした表情のディータがいた。
なんだか、思っていた顔と違う。
でも、久しぶりに会えたディータが嬉しすぎて、まあいいかと思った。
「ディータ! 二ヶ月ぶりなのです! 相変らず美人さんでサイコーにかわいいのです!」
「そんな冗談はいいのよ! あんな状態の奥様がこんなに回復するなんて、アンタ、よっぽど無茶したんでしょう!?」
凄い形相で肩を揺さぶられ、わたしは苦笑を浮かべる。
「頑張ったのはお母さまです。わたしの無謀な実験に耐えてくれたのです。それと、なぜか途中でペイジおじさんが尋ねて来て、新しい角をくれました。あれは、父さまがお願いしたのですか?」
お母さまが治癒魔法アレルギーを発症し、痛みに意識を失い、痛みに再び意識を戻し、と地獄のように苦しんでいたとき、ペイジおじさんがやって来た。涙と鼻水でぐちゃぐちゃのわたしが出迎えると、無言で角をくれたのだ。体力回復の角がなかったら、お母さまの体力はきっと保たなかった。
なんというタイミング。
「……仕事の途中でペイジに会って、マリアベルがもう保たないだろうという話をしたよ。僕は、どうしてもやらなきゃならない仕事で、愛した妻の死を看取ってやることもできない、と泣き言を言ってね。ペイジは、自分が代わりに様子を見てくると言ってくれたんだけど……そうか……ペイジが」
「わたしは狼狽していて、ちゃんとお礼を言えなかったのです。今度お会いしたら、すっごくすっごくお礼を言っておいてください」
「もちろんだよ! いやそれよりもネリームーア、大賢者様をしても治療法はないと言わしめたマリアベルの病を、いったいどうやって?」
牛の白血病はおそらくウイルス性のもの。抗生物質も抗微生物タンパク質も効かない。
お母さまは元々白血病の陽性者で、何かのきっかけで免疫力が低下し、免疫がウイルスに負けて発症してしまった。
ウイルスに対抗できるのは、現時点で免疫細胞だけだ。
わたしはナーセルの一型糖尿病をヒントに、治癒魔法アレルギーという形で免疫暴走を引き起こし、免疫細胞を無理矢理暴れさせ、ウイルスを押さえ込んだ。
そして、ナーセルと同様、寄生虫に感染させて免疫細胞を制御し、治癒魔法で傷ついた体を治した。
体力回復の角というチートアイテムがあったからこそ可能だった、力業――いや、あそこまで体力を失い腫瘍だらけだったお母さまが耐えられたのは、やっぱり奇跡だ。
何度も涙が込み上げてくる感動を、父さまやディータと分かち合いたいけれど、ここでその治療方法を言うわけにはいかない。
なぜならこれは、わたしが唯一持って行ける、持参金だから。
「父さま」
胃が、苦しいのはきっと気のせい。
だってこれは、わたしが望んだことだ。
わたしは笑顔で、心から嬉しそうな顔で、父さまに告げた。
「わたし、公爵家にお嫁に行きます」
◇◇◇
牛小話
牛は経済動物なので、病気などになって治療する際、まずは『この牛にかかる治療費と、この牛が今後稼げるお金はどちらが上だろうか?』という検討がなされます。
それなので、とても治療費のかかる病気は治療しません。
牛の白血病は実際にあり、作中で言っているように罹患率は高いです。
しかし、発症しない限り牛の一生にさほど問題はない&もちろん牛乳に全く問題ないもので、ほぼ放置です。陽性牛の初乳を与えないなどの対策はありますが、蚊やサシバエによって感染していくので、圃場に一頭でもいると広がってしまい、どうにもならないのが現状です。
ちなみにウチの牛には一頭もいません!
それなので、他から牛を買うことなくうちの後継牛だけで回しております。実は凄いのです!と言いたい。