第1部第25章 その名を呼ぶとき(第1部完)
2026年12月25日 00:30
――暗くなったジムのリング上。
田中遥輝が目を覚ましたとき、視界は黒い布のようなものでふさがれていた。
何が起きたのか、すぐには分からない。
それが、里穂のリングウェア越しの胸元だと気づくまで、しばしの静寂が流れた。
その豊かな膨らみの脇から、女神のような顔が覗き込んでいた。
「……起きました? 意識、ちょっとだけ飛んでましたよ」
(……俺はこの美しすぎる女神に、意識を飛ばされたのか)
田中は起き上がろうとするが、頭がずきりと痛む。
彼女が静かに言った。
「無理しないでください」
背中に感じる、膝の柔らかさと温もり。
それだけが、現実感を伴っていた。
「……俺、また倒されたんだな」
「3ラウンド、30秒くらいでした……。すみません。ちょっと本気出しすぎちゃいました」
彼女は無邪気に微笑んだ。
その一言が、胸の奥にじわりと染みていく。
「……やっぱり今まで、全部手加減されてたんだな」
しばらく、ふたりの間に言葉はなかった。
「俺、森川さんに負けてから、全部やり直して――世界まで行ったんだよ」
「でも、それでも君には届かなかった……」
その言葉に、里穂は首を振るように言った。
「そんなことないです。世界戦の田中さん、本当に強かった。……すごくかっこよかったです。だから……」
彼女は、ほんの少し息を吸って、視線を落とした。
「……こんな言い方、変かもしれませんけど……好きです。付き合ってください」
思わぬ告白に、田中の頭はついていかない。
思わず上体を起こしかけて――また頭が痛くて崩れ落ちる。
再び、彼女の膝に頭が戻った。
「……俺、女子大生に負けて膝枕されてるような世界王者だぞ? それでいいのかよ、君は?」
自嘲気味に笑う田中の声が、どこか寂しげだった。
「私、最初ほんとに、ちょっと運動してみようって思ってジムに通い始めたんです。家の近くで汗かけたらいいなって」
そのあまりにライトな動機に、田中は呆然とした。
「……えっ、マジで……?」
「マジです」
「……俺の20年、どうしてくれんだよ……」
(俺の格闘技に捧げた20年は、フィットネス感覚で始めたこの女の子の2年に負けたってことか……?)
視線を向けると、またしても彼女の胸が視界を遮る。
それが彼の被虐感をさらにくすぐった。
(美しさも強さも全部持ってる……そんな女の子に、こんなコテンパンに……)
田中は息を整え、そして静かに語り始めた。
「君は魅力的だよ。正直、この前二人きりで戦ったとき、その美しさに心を持っていかれてた。
だからこそ、俺が君より強いことを証明して――そして、俺の口から告白したかった」
「……改めて、俺から告白させてくれ。……好きだ。付き合ってください」
その言葉に、里穂の目が輝いた。
喜びと驚きが混ざった表情のまま、彼女は涙を浮かべ、微笑む。
「……嬉しい」
そっと、彼女は顔を近づけて――田中の唇にキスを落とした。
唇と同時に、柔らかな胸元も彼の頬に触れ、田中は再び全身の力が抜けそうになる。
「ごめんなさい。私、男性と付き合ったことなくて……どうすればいいか、全然分からなくて」
「俺だって同じさ。彼女なんて、できたことなかったし」
「えっ、田中さんこんなにかっこいいのに……」
「20年以上、格闘技にすべてを捧げてきた。そのご褒美に、世界王者になれて……
その上、森川里穂っていう美人の彼女ができたってわけか。……その彼女は俺の20年を軽々超える強さを持ってたけど」
「もう、やめてください。……それにもう“彼女”なんですから、私のことは下の名前で呼んでください」
「なんか照れくさいな……でも、それなら俺のことも“田中さん”なんて他人行儀に呼ばないでくれよ」
ふたりは顔を見合わせた。
田中は小さく息を吐き、彼女の瞳を見つめた。
「……“里穂ちゃん”」
その呼び方に、里穂はわずかに目を見開き、微笑んだ。
「……“遥輝さん”」
互いの名前を初めて呼び合った瞬間だった。
再び見つめ合い、二人はキスを交わす。
照れくさそうに目を細めながらも、里穂の頬には喜びの涙がにじんでいた。
リングの上――
身長10cm高い田中が見下ろしているが、実際に“強い”のはその下にいる女子大生。
その倒錯感が、なぜか心地よかった。
「でも、やっぱり思っちゃいます。女の私としては……男の“遥輝さん”には、私より強くあってほしいかな?」
「私より20年以上も長く格闘技やってるんですからね?」
田中は、どうしようもない顔で天を仰いだ。
「そりゃないぜ、“里穂ちゃん”」
「また、“強くなりすぎた里穂ちゃん”と同じ場所に立てるように……俺は、まだ強くなるよ」
「今度こそ、正面から“勝ちたい”って思ってる」
里穂はしっかりとうなずいた。
「……うん。楽しみにしてる、“遥輝さん”」
「“強くなった遥輝さん”を、“さらに強くなった里穂ちゃん”が返り討ちにしてあげる」
いたずらっぽく笑うその横顔に、田中は――もう勝てる気がしなかった。




